
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(Ⅰテモテ 1章15節)
教会の看板
当教会の壁には、この聖書のことばが書かれた大きな看板が掲げられています。時々、その横の道を通る中高生たちが、大きな声でそのことばを読み上げながら通り過ぎていきます。彼らがどういうつもりで読んでいるのかは分かりませんが、私はそれを聞くと、「彼らは、救われなければならない罪人とは、自分自身のことであるとは思っていないのだろうな」と、若者たちが聖書のことばに触れたことは嬉しく思いつつも、その真意を知らずに生きていることを残念に感じます。あなたは、どうですか。イエス・キリストが救うために来られたと言われているその「罪人」とは、まさにあなた自身のことであると知っておられますか。
罪人とは誰か
聖書の言う罪人とは、一般に言う犯罪者や不道徳な人たちのことだけではありません。新約聖書の中で使われている「罪」ということばは、ハマルティアというギリシア語の単語の訳ですが、それは「的外れ」という意味があります。つまり、罪とは的外れな生き方、行為のことを指しています。では、的外れとは何かというと、人間をお造りになった造り主である神の意向に沿わない生き方や行為のことです。
たとえば、人間が何かを作ったなら、人間はその目的に沿ってそれが機能することを求めます。もし、走らない自動車、部屋を冷やさないエアコンがあるなら、それは的外れなのです。
そう考えたときに、まさに人間の生き方は神に対して「的外れ」であり、罪深いものです。神はもともと人間と愛し合い、人間が神を喜んで礼拝するようにとお造りになりました。ところが、現代では多くの人たちが、人間は進化の産物だと考えています。これだけよくできた人間の体や、空気や水に豊かな地球の環境が与えられているのに、それらが偶然にできたと考え、神を無視して生きているのです。
また、ある人は、人間を造った神が誰なのかなどはどうでもいい、神や仏と呼ばれるものならどれを信じても自由だと言います。親に対しても言わないような、何と失礼な考えを、神に対しては平気で主張することでしょうか。
また、人が生きている間にする行為の中には、嘘、争い、自己中心、悪口や陰口、心の中で考える醜い思い…多くの罪があります。神はそんな的外れな生き方、行為を行わせるために人間を造られたのではありません。私たちは、次の詩篇のみことばのように言わなければならないのではないでしょうか。
「まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。 私はあなたに ただあなた(=造り主である神)の前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するとき あなたは正しく さばくとき あなたは清くあられます。」(詩篇 51篇3、4節)
救いとは何か
キリストが救うために来られた「罪人」とはあなた自身のことであることがお分かりいただけたでしょうか。あなたには救われる必要があるのです。なぜなら、罪の結果は、恐ろしい永遠の地獄での裁きであるからです。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル 9章27節)
「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナ(=火の燃える地獄)に投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」(ルカ 12章5節)
人間関係の悩みからの救い、病からの救い、その他諸問題からの救い…。確かにそれらも、生きている間のこととしては、大きな問題でしょう。しかし、それらの問題にはいずれ終わりが来ます。けれども、罪の結果である永遠の地獄は、終わることのない苦しみの場所であり、全ての人にとって最大の問題です。だからこそ、イエス・キリストは「罪人」である私やあなたを救うために世に来られました。
キリストは私たちを愛して、罪の刑罰を身代わりに受けるために十字架につけられて死んでくださいました。永遠の地獄で私たちが受けるべきその大きな苦しみを、たった一人で、私の分も、あなたの分も身代わりに受けられたのです。なぜなら、この御方は、まさにそのために人となって世に来られた救い主、神の御子であられるからです。そして、キリストは死後三日目に死の力を打ち破ってご復活なさいました。誰でも、神に対して的外れな生き方をしてきた罪を認めて、イエス・キリストを救い主、神として受け入れるなら、罪の赦しを得て、天国に入れていただくことができます。
あなたが病の中にあっても、特別な能力を持っていなくても、困難な環境の中に置かれていても、神の恵みによって地獄から救われたことを感謝し、神を愛して生きるなら、それこそ神が人間を造られた目的にかなった生き方なのです。ぜひ、イエス・キリストを信じて、救いを受け取る方となってください。
「神は、実に、そのひとり子(=イエス・キリスト)をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3章16節)