「あなたが心の中で、『私たちは主が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか』と言うような場合、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。」(申命記 18章21節)

聖書の預言

 世界のベストセラーである聖書は、非常に驚くべき書物です。なぜなら、聖書のことばの約三分の一は、書かれた当時はまだ起きていなかった将来のことについての預言であるからです。そして、それがことごとく実現してきたからです。

 しかし、預言は決して、人間の単なる興味や好奇心を刺激するために与えられたわけではありません。人間を愛してお造りになった神は、聖書を通して人間に語りかけようとされています。そして、聖書こそ、まことの神のみことばであることを証しするために、多くの預言を与えられたのです。

 あなたが聖書こそ神のみことばであることを知り、聖書を通して神が語っておられる警告と救いのメッセージを自分のこととして受け取られることを願って、幾つかの預言を取り上げたいと思います。

 聖書には、様々な国家や民族の隆盛と滅亡について書かれていました。たとえば、これはツロという地中海沿岸で栄えていた貿易都市についての預言です。

「ツロよ、わたしはおまえを敵とする。海が波をうねらせるように、多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる・・・彼らはおまえの財宝を略奪し、商品をかすめ奪い、城壁を破壊し、住み心地のよい家を打ち壊し、石や木や土までも、水の中に投げ込む。わたしはおまえの騒がしい歌をやめさせる。おまえの竪琴の音も、もう聞かれない。わたしはおまえを裸岩とする。おまえは網干し場となり、二度と建て直されない。主であるわたしが語ったからだ。──神である主のことば。」(エゼキエル書 26章3節、12~14節 紀元前590年頃の預言)

 ツロはバビロンを含む様々な国に攻められ、最終的にはギリシアのアレクサンドロス大王(紀元前332年頃)によって攻略されました。その時に、陸地から離れた小島にいた者たちを責めるために、取り壊された家の瓦礫などが海に投げ込まれたのです。現在、ツロ(=スール)は小さな漁村となっています。

 他にも数多くの預言がありますが、聖書の預言の中で最も重要で、多くの箇所で触れられているのは救い主キリストについての預言でした。(西暦はキリストのご降誕を紀元元年としていますので、たとえば紀元前700年というのは、キリストがお生まれになるより約700年前ということになります。)

キリストについての預言

①救い主がお生まれになる町と部族

「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(ミカ書 5章2節 紀元前700年頃の預言)

②救い主が親しい者(イスカリオテ・ユダ)から裏切られ、銀貨で売られる

「私が信頼した親しい友が私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます。」(詩篇 41篇9節 紀元前1000年頃の預言)

「主は私に言われた。『それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。』そこで私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」(ゼカリヤ書 11章13節 紀元前500年頃の預言)
※イスカリオテ・ユダがキリストを裏切って手に入れた報酬の銀貨30枚は、最終的に陶器師の畑を買うために使われ、陶器師に与えられました。

 他にも多くの預言がキリストについて書かれており、それらは数百年以上前に書かれたものですが、キリストのご生涯や十字架の死の場面で文字通りに実現しました。そして、その中でも旧約の福音書とさえ呼ばれることがあるイザヤ書の最も重要な預言を最後に取り上げたいと思います。

③救い主が罪人の身代わりに死なれる

「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ書 53章4~6節 紀元前700年頃の預言)

 これこそ、神が人間にお伝えになりたいメッセージなのです。人間は神によって造られたにも関わらず、神を無視して生きるようになってしまいました。ある人は「神などいない」と言い、また、ある人は「各々が信じたい神を好きなように信じればいい」と言います。そして多くの罪(嘘・争い・悪口・不道徳…)を犯していながら、神に罪の赦しを求めようともしません。まさに「それぞれ自分勝手な道に向かって」いるのです。しかし、その行き着く先は、罪のさばきです。聖書には、あなたの死後の行き先についての明確な預言があります。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル人への手紙 9章27節)

 死後のさばきは、永遠に火の燃える地獄での刑罰です。しかし、だからこそ私たちを愛しておられる神は救い主キリストを遣わしてくださいました。

 そして、聖書の預言の通りに十字架上で「私たちすべての者の咎(=罪)を彼に負わせ」てくださったのです。キリストは罪のない御子なる神が人となった方であられるのに、私やあなたの罪を背負って身代わりに死なれました。そして、死後三日目によみがえられたのです。どうか、あなたも罪を認めて、この救い主キリストを信じ受け入れる方となってください。

「神は、実に、そのひとり子(=イエス・キリスト)をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書 3章16節)