津久野キリスト恵み教会

信徒向けメッセージ

戒めと矯正を受けるために

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ 3章16,17節)

聖書が与える戒めと矯正について学びましょう。

戒めとは、私たちの間違った考えを指摘して注意することであり、矯正とはそれを正すことです。

たとえば、エペソ4章28節を例に取るなら、「もう盗んではいけません。」が戒めであり、「自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」が矯正だと言えます。

私たちには、戒められ、矯正されなければならないことが多いのです。私たちがイエス様を信じる前に持っていた考え方、習慣、振る舞いの中には世においては普通であっても、神様にお仕えする者にはふさわしくないものがあるからです。また、私たちは世の人々と接する中で、知らず知らずのうちに影響を受けることがあるからです。

しかし、戒めと矯正を受けて整えられて行くためには必要なことがあります。それは、へりくだって聖書が語っていることを受け入れることです。「聖書はすべて、神の霊感によるもの」です。それは、聖書には神の息が吹き込まれており、読む者に生きて語りかける力があるということです。ですから私たちが聖書を自分の都合に合わせて解釈するのではなく、聖書の語ることに敬虔な態度をもって耳を傾けるべきです。

そしてそのことは、聖書の語ることと私たちの考えとの間に違いがあった時には、常に聖書が正しいのであって、私たちが間違っていると認めることを意味しています。ちょうど、ここで使われている矯正という言葉には「曲がったものをまっすぐにする」という意味があるように、聖書がまっすぐなのであり、私たちの方が曲がっているのだと認めることです。

特に近年、このような態度で聖書を読むことは、どれほど大切でしょうか。

多くの場合、『聖書が何を語っているのか』よりも、『多くの人が何を聞きたがるのか』が優先されているのではないかと考えられます。その結果、聖書によって人間が矯正されるのではなくて、聖書の方が人間の都合に合わせて曲げられることになってしまいます。

一つの例は、イザヤ書43章4節の有名な聖句「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」でしょう。このみことばは、多くの教会で看板や掲示板に掲げられたり、福音伝道のために用いられていることと思います。

しかし、実際のところそのみことばは、何を語っているのでしょうか。その前後も含めて見てみましょう。

「わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ 43章3~4節)

これを見て明らかであるように、「あなた」とはイスラエル人のことであり、「国民」とは異邦人のことです。つまり、神様は悔い改めたイスラエルの民を愛して救われるけれども、偶像礼拝を行い、神様に逆らっている異邦人は、さばかれなければならないということです。しかし何と多くの場合、前後が無視されて、ただ神は愛であるのだと語られ、まだ悔い改めていない人々に対して「あなたは高価で尊い」と語られていることでしょう。それは、人間には自分の好むことを聞きたいという願いがあり、自分に都合の悪いことは見えなくなりやすいからです。

私たちはどのような態度で聖書を学んでいるでしょうか。

もし聖書に書かれていることが厳しすぎると感じるなら、それは聖書が間違っているのでしょうか、それとも私たちの罪に対する感覚が鈍いのでしょうか。もし聖書の語るクリスチャンのあるべき姿と自分の求めている歩み方の間に違いがあるなら、矯正されるべきなのは自分でしょうか、それとも聖書の方でしょうか。

ぜひ、私たちは神のみことばである聖書の権威を認めて身を低くし、聖書によって戒められ、矯正されて行く者でありましょう。そのような敬虔な態度をもってみことばに耳を傾ける者に神様は語ってくださり、その人を「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者と」してくださいます。

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