ふくいん22号 -2004.9-

めい-しん【迷信】
迷妄と考えられる信仰。また道理にあわない言い伝えなどを頑固に信ずること。
その判定の標準は常に相対的、通常、現代人の理性的判断から見て不合理と考
えられるものについて言う。→俗信。

広辞苑第三版より

迷信、俗信

世の中には、沢山の迷信があります。そして迷信を信じ込んでとは言わないまでも、ずいぶんと影響を受けて生活しています。
たとえば、ミャンマーには、次のようなものがあります。
『パゴダのブッタの前にある石を願いごとを唱えながら持つ。重たいと感じれば願い事はかなえられず、軽く感じれば願い事がかなう。』
『未婚の女性がキッチンで歌を歌うとバツイチの男性と結婚する。』これらは、今でもミャンマーの田舎に行くと結構信じられているそうです。
私たちはそれを見て愚かなと思います。しかし、私たちは人のことを笑ってはいられません。日本においても、町を歩くと必ず神社や寺の建物を目にします。その門前に看板があり、それに「厄払い。姓名判断。姓名鑑定。占い。等々」の文字が書かれています。これらは、私たちの社会には深く浸透しており、日常生活の中になじんでしまっているので、普段は、それが迷信であると深く考えることさえしないかもしれません。

「厄払い。姓名判断。姓名鑑定。占い。等々」は、はたして私たちの益となっているのでしょうか。いえ、そうではありません。生まれてくる子どもが幸せな一生を送ることが出来るようにと願い、寺・神社に名前を付けてもらうということがあります。この字画がどうこう、また姓名判断によるとどうこう云々。そして結局、自分の付けたい名前をつけることが出来ないということもあります。しかし、漢字を使わない欧米の人たちにとって字画は関係ありません。彼らにとって正にそれは迷信であり、日本人は迷わされているとしか見えないでしょう。これは一例にしか過ぎませんが、似たことは実に多くあります。方角、干支などもそうです。迷信は私たちに幸せをもたらすのではなく、私たちを縛って不自由にしているのです。

人はなぜ迷信に頼るのか

人々が「厄払い。姓名判断。姓名鑑定。占い。等々」に頼るということは、自分の人生が何か人間以外の、人間よりも力のある何者かによって支配されている、あるいは動かされているということを認めていることを意味します。
私たちの回りにある自然界を見ると、そこには美しい花があり、山川があり、夜空には星が光り、また山野には多くの動物たちが生きています。私たちはそれらを「自然の驚異」と言います。確かに自然界は偉大です。皆様もそうお考えでしょう。
多くの人々が、自然界の美しさ、不思議さ、精巧さを見て、「自然の力」とか、「自然の知恵」という言葉を使いますが、もとよりこのすばらしい「自然界」の秩序が、自然に、言い換えれば偶然に、何の知恵と力の働きも無しにできたのではないことは、だれの目にも明らかです。では、この力と知恵はどこから来たのでしょうか。「自然界」と呼ばれる物質世界には人格はありません。すなわち意志も感情もありません。皆さま方は、それらが、万物の創造主である神の力と知恵の現れであることをお認めになることができないでしょうか。聖書にこうあります。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

旧約聖書詩篇19篇1節

迷信は悪魔から出ている

真の神様は、私たちを迷わせるような方ではありません。それどころか神様は

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

新約聖書ヨハネ14章6節

と語られる方です。「厄払い。姓名判断。姓名鑑定。占い。等々」などの迷信は、天地の創造主でいます真の神とは全く関係がないことは明らかです。
神が造られた地球に悪い方角があるのでしょうか。悪い方角というものは決してありません。神が造られた日に悪い日と、良い日があるのでしょうか。そのようなことは決してありえません。「厄払い。姓名判断。姓名鑑定。占い。等々」は、真の神を知らない人々の迷いから生じた迷信です。これらのものを信じている人々は、真の神ならぬ、悪霊を信じているのです。
前述のように、ほとんど全ての人々は、人間以上の何か大きな力があると信じています。問題は、人々が、宇宙を創造された創造主でいます真の神のご存在を認め、その神を神として崇めないところにあるのです。悪魔は実在します。悪魔は、そこにつけ入り、その「人間以上の何か大きな力」を悪霊と思い込ませて、真の神ならぬ悪魔を信じさせてしまうのです。これが世間に迷信がはびこる原因であり、また迷信や「こっくり、霊媒、超能力」などのオカルト信仰は同じ源からでているのです。多くの人々は、それらの偽りの神を信じることと、真の神を信じることとを混同しており、オカルトを信じることを、真の神を信じることと思い違いをしています。それは、決してあってはならぬことです。
それらの偽りの信心の共通した特徴は、病気が治る、金が儲かる、試験に合格する、商売が繁盛する、などの日々の生活での利益を説くことです。そして目の前の利益で人々を引きつけているのです。しかし、私たちにとって、そのようなものよりももっと重要なことは、真実な目的に向かって人生を歩むことであり、真実に生き甲斐のある、希望のある人生を生きることであるのです。そして、人生の終わりの死を越えた、永遠の神の国において生き続ける確かな希望と喜びを持つことであるのです。

迷わないために

それゆえ、神は全ての者に、悔い改めて、悪霊礼拝、偶像礼拝、オカルトなどという不潔なものを捨てて、生ける真の神に立ち返り、神を畏れ敬う者になることを命じておられるのです。神様は聖書を通してこのように呼びかけておられます。

わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

旧約聖書イザヤ45章22節

真の神が宇宙の主権者であられ、全てを支配しておられます。そして神は、全ての者を愛しておられます。神は、罪の赦しを求めて神に立ち返る者を救うために、ご自分の御子であるイエス・キリストを十字架の上に付け、私たちの身代わりとしてくださいました。主イエスは私たちの犯した罪を御身に背負い、私たちの身代わりとなって私たちの罪に対するさばきを受けて下さったのです。神は私たちを地獄に入れて、処罰する代わりに、ご自分の御子を私たちの罪のためにさばいて下さったのです。そして、神は十字架の上で死なれた御子イエスを、死後三日目に、よみがえらせ、イエスこそキリスト、すなわち救い主であられることを全世界に向けて証明して下さいました。
それゆえ、イエス・キリストを、自分の救い主として信じ、受け入れるすべての者は、永遠のいのちを神からいただき、神の子どもとしていただけるのです。しかし、だれでも神に対して罪を悔い改めず、不信仰を持って不敬虔を続けるならば、死後、罪に対する、永遠の地獄の中で苦しむという刑罰を受けなければならないのです。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

新約聖書ヨハネ3章36節


この新聞を読まれた方々全てに、お願いします。どうか、これは皆様の永遠の運命を決定する重大事ですから、生ける真の神様のみもとに帰って来てくださいますように。