ふくいん16号 -2002.9-

悪くなる一方の世相
「昔はこうだったけれど、今は何とまあ!」という話をたびたび耳にしますが、確かに最近の世の中は以前とは変わってきました。
総務省の研究機関によりますと平成一二年において、凶悪犯(殺人・強盗)の認知件数、検挙件数及び検挙人員は、前年と比べ、いずれも増加し、粗暴犯では、前年と比べ、傷害、暴行、脅迫及び恐喝のいずれについても、認知件数がここ一〇年間では突出して増加しているのだそうです。
「昔は、公園は子供であふれていたのに、今は公園でも子供の姿はちらほら見かける程度。何が起こるかわからないから、子供を外で遊ばせることが出来なくなった。」「夜の一人歩きは若い女性だけでなく働き盛りのサラリーマンも危険だ。オヤジ狩りに遭うかも知れない。」「ちょっと注意すると、逆ギレされて、こちらが危ない目に遭うかもしれない。」という不安の毎日というのが実情ではないでしょうか。
警察の犯罪白書から引用します。『以前は「生活が苦しくて、金を盗んでしまった。』とか『親や学校への反発から、校内暴力・家庭内暴力を起こした』など何らかの理由があったが、現在は事件に見合うだけの理由も無いのにやたら人を殺したり、『めざわりだ』という理由から自分とは何の関わりも持っていない人に暴行を加えたりする事件も多く見られ、「個人的な憂さ晴らし」ともとれるような自己中心的な態度がうかがえる。」
十数年前、アメリカで一人の少年が、靴を脱がされ、裸足で放置されていました。殺人事件です。やがて犯人が捕まりました。なぜ殺したのかとの問いに「彼が履いていたナイキの靴が欲しかったから。」と犯人は答えました。全米が震撼しました。たかが靴一足のために人の命を奪ったからです。
しかし、現在このようなニュースはいたるところで聞くことが出来ます。「むしゃくしゃしていたから。」「キレてしまった。」「缶ジュースを飲むのに小銭がなかったから。」
大変ショッキングな法務総合研究所の報告
法務省の施設等機関による報告は現在の世相を如実に物語っている。以下はその抜粋。
平成12年において,凶悪犯(殺人・強盗)の認知件数,検挙件数及び検挙人員は、前年と比べ、いずれも増加している。粗暴犯では,前年と比べ,傷害,暴行,脅迫及び恐喝のいずれについても,認知件数がここ10年間では突出して増加し,これに伴い検挙件数及び検挙人員も増加した。
財産犯では,前年と比べ,詐欺については,認知件数と検挙人員は増加したが検挙件数は減少し,横領(遺失物等横領を除く)については,認知件数,検挙件数及び検挙人員のいずれも増加し、逆に,遺失物等横領については,認知件数,検挙件数及び検挙人員のいずれも減少した。また,盗品譲受け等については,認知件数,検挙件数及び検挙人員のいずれも増加した。
性犯罪では,前年と比べ,強姦,強制わいせつ及び公然わいせつの認知件数,検挙件数,検挙人員がいずれも増加した。
その他の犯罪では,器物損壊等と住居侵入の認知件数が著しく増加した。なお,窃盗を除く一般刑法犯の認知件数を分析・検討すると,最近5年間では,次のような特徴が認められた。
a暴力的色彩の強い犯罪類型の顕著な増加
b窃盗と関連あるいは近接する犯罪の増加警察庁の統計及び総務省統計局の人口資料による刑法犯の認知件数・検挙人員・発生率の推移(昭和21年~平成12年)
自由という名の欲望
自由とは心地よい響きを持つことばです。私たちはどんなことをする自由をも持っています。しかし、誰にも、自分の欲望を満たすために他の人々の生きる権利を奪う自由はないのです。今人々は自由という名の下に一時的な欲望を追求しているのです。
社会全体から、いのちを大切にするという考えが薄れてしまっています。金が欲しいから誰でもいいから奪う、切れたから相手を殺す、ちょっとしたトラブルですぐに凶器を持ち出し、人を傷付け殺してしまう、ということが、頻繁に行なわれています。
これはある特殊な個人だけの問題ではなく、社会全体の問題です。社会全体のいのちと欲望についての価値観が変化しているのです。欲望はいのちより大事だという価値観です。その変化は、私たちの考え方にも影響を与え、人生観にも大きな影響を与えています。
「人の生きる目的は快楽を味わうことである。何でも自分を楽しませることを追求しよう。人生とは楽しむことである。」最近の犯罪者の考え方がまさにこれであり、またこのような考え方をもつ予備軍が増えているので、私たちは日々安心して暮らすことが出来ないのです。
しかし、よく考えてみましょう。実は、これはほとんどすべての人の人生観です。人が働くのも、勉強するのもみな、その楽しみのための金を儲けるためです。つまり自分の欲望を満足させることがその人の最大の目的になっているのです。皆さまの人生の目的はなんでしょうか。皆さまも突き詰めれば、同じ考えではないでしょうか。この、世界広しと言えども自分の欲望ほど大事なものはないという考えを持っておられないでしょうか。
このような考え、生き方が罪なのです。罪とは聖書では、支配を拒むという意味です。言い換えれば、私はやりたいようにやっているのだ。誰の指図も受けない。自分ですべてを決めるのだということです。この考え方に沿って生きている人は、例え人間社会で犯罪者ではなくても、神様の御前に罪人なのです。そして人間社会の犯罪者でも裁きを受けるのが当たり前であるならば、神様の御前に罪人である皆様が、死後に、裁かれるのは当然です。
神様は事実おられる
さて、なぜ人間が地球の上に存在しているのでしょうか。
「私はそんな難しいことを考えたくない。そんなこと考えたら頭が痛くなる。そんなこと考える暇があったらテレビを見る。ゲームをする。おしゃべりをする。遊ぶ。」とおっしゃるかもしれません。しかしそのように言われる方にも、確実にある重大な到着点が来ます。それは死です。そのような刹那的な考え方で生きていても、関係なしに人は死ななければならないのです。
さて、あなたは死んで、何処に行かれますか。死んだら消える。本当ですか?死んだらおしまいだ。それは本当ですか?
なぜ人類がこの地上に存在しているのですか。神が宇宙を創造し、人類を創造されたからです。読者の皆さま方、あなたは神の御存在を無視しておられます。そして、その快楽追求を第一として人生を過ごし、神を神として崇めない人生の終わりにあなたは死を迎えるのです。あなたの死後には、その罪に対するさばきがあるのです。
この重大な警告をお聞き入れ下さい。
人間は死んで消えるのではありません。死は終わりではありません。死後に天国か地獄かのどちらかに行かなければなりません。
あなたは死ねば、神の御前に立たされ、あなたの歩んできた人生の結末に直面しなければならないのです。それは神を無視して歩んだ人が、死後、地獄で永遠にさばきを受けることを意味します。
天国への道
しかし真の神様は私たちの全てに、悔い改めて救い主イエス・キリストを信じることを願っておられます。悔い改めとは人生の方向を転換させることです。あなたの今までの歩みの方向が間違っていたことを認め、真の神様を信じ崇める方向に向きを変えることです。ここに天国に至る道が備えられているのです。
イエス・キリストは真の神の御ひとり子であられ、この世に遣わされ人間となってくださいました。それは世人のために十字架の上で死ぬためであったのです。イエス・キリストは私たちに罪の赦しを与え、永遠のいのちを与えるために、私たちの罪のために死んでくださったのです。あなたを間違った空しい無意味な、地獄に至る人生から救い出し、永遠に生きるいのちと、価値ある、真に喜びと希望のある人生を与えるために、イエス・キリストは十字架の上で死んで下さったのです。そして死後三日目に、よみがえられ、御自分こそ真の救い主であると示して下さいました。主イエス・キリストは、救いを求めて御自分の所に来る者を全て救うことができる方であられることを証明してくださったのです。
万物の創造主、人類の造り主でいます真の神が、あなたの救いのために御自分の愛する御子を十字架に付けてくださったという、驚くべき事実があったということをぜひ知ってください。そして、この真の神様を信じ、イエス・キリストを救い主として受け入れ、神の子とされて生きる方となって下さい。
どうかイエス・キリストのもとに来てください。イエス・キリストはあなたをお救いになります。そして永遠のいのちを与え、永遠に天国で生きるいのちを与えてくださいます。それが本当に幸せないのちなのです。



