ふくいん10号 -2000.4-

人のいのちの軽視
近年、犯罪の低年齢化が進んでいるといわれます。さらに恐ろしいことに、少年犯罪の中でさえ人の命が軽く取り扱われているということです。小遣い欲しさ、憂さ晴らしなどの本当に些細な理由で、ごく普通の子供たちがいとも簡単に人の命を奪ってしまっています。母親のうでに抱かれて幸せそうにミルクを飲んでいる赤ん坊を見るとき、誰もが「この子の命が奪われてはならない。」と思うことでしょう。しかし、「どうして?」と尋ねられると明確に答えられる人は多くないようです。
美術館に勤める人は、美術品・芸術品が自分の物でなくても、大切に取り扱い、それを損なわないように万全の注意を払います。それは、美術品・芸術品の価値を知っているからです。しかし、その価値を知らない人は、他人のものは言うまでもなく、自分のものまでも粗末に取り扱い、不注意に価値ある芸術品を壊してしまいます。
人の命を粗末に扱う人は、命の本当の値打ちを知らないから、簡単に殺人行為におよんでしまうのです。つまり、他人の命を粗末に扱う人間は、自分の命の値打ちも理解していないのです。イエス・キリストは
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。
マタイの福音書16章26節
とおっしゃいました。
人のいのちとは、そんなに尊いものなのでしょうか。確かに、尊く価値のあるものです。それは、人間が神様の創造された、素晴らしい芸術品だからです。人間の体の仕組みを見ても、それがいかに素晴らしい芸術品であるかが分かります。つい数日前、卵を割ることの出来るロボットが開発されたとニュースで報道されていました。私たちは卵焼きをつくるときに、何気なく卵を割っていますが、実は非常に微妙な制御が必要だそうです。2000年になって初めてロボットに出来るようになった制御能力が、人間には、何千年も前から備えられていたのです。人間の体は、確かに神様の素晴らしい作品です。
さらに最近はソニーのアイボのように感情を示すコンピューターも出現してきました。人間に感情があるからこそ、人間は自分の感情を分析し、それをコンピューターにプログラミングすることが出来たのです。言いかえれば、卵も割れない、感情も持たない人間に(それが人間かどうかは疑問ですが)、卵を割れるロボットや、感情を持つアイボは造れないということです。
人間は、本当に細やかな愛情を持ち、また繊細な動きをすることが出来ます。これは、情を持ち、また秩序を与えることの出来る知性を持っておられる造り主の存在を明確に証明しています。

なぜ人のいのちが軽く見られるのか
現代の世相は無神論が作り出したと言えます。無神論は、人間は猿から進化したものであり、激しい弱肉強食の生存競争を戦って来て人間になったと教えています。進化論では、人間の価値を決めるのは頭の良さ、筋肉の強さであり、それらを持っていないものは人間としての価値がないことになります。従ってこの世界は、強い人間のためにあり、エリートのみが幸せになる資格を持っていることになります。そして弱い者や、能力のない者は強い人間が幸せになるための肥やしか餌にすぎないとなってしまいます。このような考え方を持てば、自分勝手な判断で、人の命を奪うのもたいした問題ではなくなるのもうなずけます。
アメリカは現代でこそ、犯罪大国ですが20世紀の初期までは道徳的に高い犯罪の少ない国でした。それは、かつてアメリカでは聖書に基づいた教育がなされてきたからです。宇宙の造り主、絶対的な主権者の存在がしっかりと教えられていたため、人々はお互いのいのちを尊び、罪を犯すことを恐れていたのです。
ところが1950年代頃から凶悪犯罪、マリファナ、フリーセックス、ヒッピー等、今につながる問題が山のように起こってきました。また、古き良き時代と呼ばれ経済的に非常に繁栄したのも同じ時です。なぜならば、1926年以降、アメリカでは進化論が教えられ始めたためです。絶対者を失った結果、人々は、自分の欲望を満たすために生き、金、金、金を求めるようになり、願ったものを得たかに見えましたが、もっと大事なものを失ってしまったのです。
現代ではますます、新聞、テレビ、ラジオを通して、毎日無神論を元にした唯物論が語られ、学校でも教師たちは無神論があたかも真理であるかのように語っています。科学は無神論を支持していると思い込んだ人々は、科学は真理だ、だから無神論は真理だと思い込み、神の存在を信じる者をあざけっています。
これは恐るべき反人間的、非人道的な悪魔的な考えです。このような思想の元は無神論であるのです。無神論が行き着くところはこのような人間軽視、人間無視、刹那的快楽主義、動物主義でしかないのです。このように恐ろしい無神論が真理であると言えるでしょうか。いいえ、絶対に言えません。
神が存在されないとする考えは絶対に間違いです。もし皆さまもこの間違った教えを受け入れてこられたならば、ぜひこの間違いを捨ててください。これほど恐ろしい誤りは他にありません。神様のご存在とその力を認めようとしないことは大きな罪であり、そのまま死んでしまうならば、神様の主権をあなどった代償として火の池である地獄で永遠に苦しまなければなりません。
私たちはどうしたら良いのでしょうか
それは何よりも、絶対的な主権者であられる神様を認めることです。そして、神様がひとりひとりを造られ、それぞれに命を与えておられることを認めることです。宇宙とその中にある全てのものは神様によって造られたのです。人間は神様によって創造されたがゆえに尊厳があり、価値があるのです。
次に、私たちは、神様を無視しつづけてきたために、神様の怒りのもとにあることを認めなければなりません。仏教では、戒名をお金で買い取って、極楽へ行くことが出来るなどと言うそうですが、善行や涙や金で救いを買うことは出来ません。
しかし、まことの神様はお金に困るような方ではありません。義と真実のお方です。その神様は、愛と恵みの神様でもあられます。神様が私たちに救いを用意してくださいました。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
ヨハネの手紙第14章9節
とあるとおりです。神様は、私たちに永遠のいのちを与えたいがために、ご自分の最も愛する御子をこの世に遣わし、十字架にかけてくださったのです。私たちをさばく代わりに、御子の上に激しい怒りを下されたのです。イエス・キリストは、私たちの身代わりとして、私たちの罪を背負って十字架で死んでくださいました。そればかりではなく、死後三日目の朝に、死の力を打ち破ってよみがえってくださいました。そのゆえに、私たちは、御子イエス・キリストを信じるならば、地獄から救われて、天国に行けるのです。ぜひ皆さまも、イエス・キリストを信じてくださいますようにお勧めします。



