学びと証し

聖書メッセージ

2018年08月12日 ローマ人への手紙7章14~25節より

 パウロはここで、『私は、したいと願っている善を行わないで、したくない悪を行っています。』(19節)と自身の過去の苦しい体験を語っています。すなわち、神様に喜ばれることを行いたいという願いに反して、罪ばかり犯してしまっていたのです。さて、私たちは、イエス様を信じた時に、永遠のいのちが与えられました。その新しいいのちには、「神様を礼拝したい」「神様に従って歩みたい」など、神様の喜ばれることを望む、新しい願いが与えられています。ところが私たちは、その願いに反して、しばしばしたくない罪を犯してしまいます。それは『今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。』(17~18節)とあるように、クリスチャンの内にも「肉」と呼ばれる、生まれながらの人間性が残っているからです。この肉は罪に支配されており、決して善を行うことができません。そして、この2つの性質が戦うならば、勝利するのは肉です。なぜなら、新しいいのちには、願いはあっても力がないからです。一方で肉には罪という凶悪な力があります。ですから、もし私たちが、自分の意志の力で頑張って肉を抑え込もうとしても、決して勝利することができません。そればかりか、一生懸命頑張って「〇〇しなければならない」「〇〇してはならない」と言って戒めるなら、肉はむしろ活発になり、私たちは打ち負かされてしまいます。「罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。…戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。…罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。(8~11節)」と、パウロも過去の経験を通して語っている通りです。喜んで歩み始めていたパウロが、「私は死にました」と語るほどに、落胆し、力を失ってしまったのです。そして私たちもまた、努力によって歩もうとするならば、同じことになってしまいます。私たちには、罪に勝利する力はありません。善を行う力も全くないのです。だからこそ、パウロが『私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』(24節)と語ったように、無力な私たちも、自分以外のお方に目を向けなければなりません。その方とは『私たちの主イエス・キリスト(25節)』です。
 神様は私たちを愛しておられます。ですから、私たちが罪の力に敗北して、苦しみながら歩むことを望んでおられません。そして、私たちに罪の力からの勝利を与え続けてくださる、救い主を与えてくださいました。それが私たちの主イエス・キリストです。キリストは今、御霊を通して私たちの内に生きておられます。「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。…キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのち(の力)となっています。」とある通りです。私たちが主イエス様に頼り続けるなら、このお方が新しいいのちの力となってくださいます。そして日々私たちを助け導き、罪に対する勝利を与えてくださいます。そして、このイエス様の助けによって、私たちは善を行い、喜びと感謝に満ちた生涯を歩むことが出来ます。どうか、自分の無力さを率直に認め、主イエスに頼り続けて歩む者でありましょう。

2018年07月22日 テトスへの手紙1章1~15節より

 この手紙は、使徒パウロからクレタ島の伝道者テトスに宛てて書かれました。1節を見ると、神様は「神に選ばれた人々が信仰にすすみ、敬虔にふさわしい真理の知識を得るため(1節)」に、パウロを使徒としてお立てになられたと書かれています。すなわち私たちクリスチャンは、救われて終わりではありません。神様は、すべてのクリスチャンに対して、敬虔に歩むこと、すなわち神様を愛し、神様を崇め、恐れ敬って生きることを求めておられます。そして、私たちに与えられた新しい命にも、そのように歩みたいという願いがあります。では、私たちはどうすれば敬虔にふさわしく歩めるのでしょうか。
 そのために必要なものは、「真理の知識」、すなわち神様のみことばです。そして、神様はその真理を伝えるために、パウロを使徒として選ばれ、多くの真理を独占的にお与えになりました。彼は新約聖書中の14もの書簡を書き記し、私たちにそれらを伝えました。そして使徒であるパウロがテトスをクレタ島の伝道者に立て、テトスもまた「町ごとに長老たちを任命(5節)」するよう命じられました。そして彼らは、真理を人々に伝えたのです。7~9節には監督の資質が記されています。まずは長老たち自身がみことばにふさわしく歩み、「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。(9節)」そして、「健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりする(9節)」ことが責任として与えられています。しかし同時に、御言葉を聞く側にも、責任があります。それは語られるみことばを神のことばとして素直に受け入れ、従うことです。そうするならば、私たちはそのみことばを通して、敬虔な者へと必ず成長させられます。みことばには力があるからです。
 しかし、私たちは自分自身を見た時に、「こんな私が敬虔になることは不可能だ」と、考えてしまうことがあります。テトスも、自分が遣わされたクレタ島の人々を見るならば、同じように考えたかもしれません。クレタの島民は「クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠け者の大食漢。(12節)」と言われる人々で、島には様々な不道徳がはびこり、彼らは「悪い獣」と言われるほどの、欲望のまま生きる人たちでした。これが彼らの「国民性」であったのです。私たちにも、日本人としての国民性や大阪人の気質など、環境がもたらす性質や価値観があります。それらはなかなか変えがたいものに思えます。そういった自分の「肉」に目を向けるなら、敬虔に歩むなど、自分には不可能だと思えてしまいます。しかし、それは大きな間違いです。神様はクレタ人を見捨てられませんでした。「彼らに関しては救われただけで十分奇蹟だから、それ以上多くは求めまい」とは語られませんでした。むしろ、「彼らを戒めて、その信仰を健全にしなさい(13節)」と、パウロはテトスに命じています。それは、たとえクレタ人であっても、みことばの力が発揮されるなら、彼らも必ず敬虔な者へと成長させられるからです。
 ですから、自分の生い立ちや性格がどうであれ、私たちに必要なのは、このみことばの力を信じ、「真理の知識を得る」ことです。これは、ただ単に頭で理解するというだけではありません。むしろ、神様との深い交わりを通して知るような、深い知識を指します。私たちは真理を学んだならば、それを信じて実際に歩まなければなりません。そうするならば、私たちは御霊の助けによって、経験を通して真理の力を知り、敬虔な者へと成長させられていきます。どうか、私たちの一人一人がみことばの力を確信し、ますます真理の知識を得ることを求めて歩みましょう。

2018年07月15日 マルコの福音書6章46~52節より

 この箇所から、イエス様に目を留め続けることの大切さを学びたいと思います。
 五つのパンと二匹の魚の奇蹟の直後、「イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ(45節)」られました。彼らの中には、元々ガリラヤ湖の漁師だった者たちもいました。しかし、慣れ親しんだ船旅であったはずが、船は嵐に遭い、夕方から明け方ごろまで、湖の真ん中で立ち往生することになりました。サタンが彼らの行く手を阻んだのです。
 これと同じように、信仰者が主に従い歩むとき、嵐が訪れるときがあります。ある人は病気に、ある人は周りの人々からの反対や迫害、あるいは首も回らないほどの多忙など、色々な困難が訪れることがあります。私たちの敵である悪魔は、様々な妨害によって、信仰者たちをつまづかせ、神様の栄光が表されないようにしようと日夜働いているのです。
 弟子たちは、嵐の中で自分の経験や知識、テクニックの限りを尽くし、様々な努力をしたことでしょう。ところが状況は悪くなる一方です。体力も無くなり、どんどん辺りは暗くなり、その中で彼らはイエス様を幽霊と勘違いするほど、恐れていました。そして、彼らがそこまで恐れてしまった原因は、彼らがイエス様から目をそらしてしまったことにあります。実にこれこそが、悪魔の目的であったのです。
 彼らはイエス様に目を留め続けるべきでした。なぜ、弟子たちは舟に乗ったのでしょう?イエス様が命令されたからです。それに従った結果嵐に遭ったのですから、そこにも、イエス様のご計画があると信じるべきでした。実際イエス様は、彼らを訓練するためにこのことを許されたのです。イエス様が天に帰られた後弟子たちは、目に見えないイエス様に信頼して歩まなければなりませんでした。しかも、彼らはより一層激しくなる悪魔との戦いを、信仰によって戦わなければならなかったのです。そして、その時の準備のために、イエス様はこの嵐をお許しになられたのです。
 イエス様は彼らが嵐に遭っている間、様々な形で彼らを助けておられました。まずイエス様は、弟子たちを送り出した後、「祈るために山に向かわれた(46節)」とあります。この祈りは弟子たちのために捧げられたものだったでしょう。イエス様は今も私たちの大祭司として、とりなしの祈りを捧げておられます。
 さらに、「イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、…湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。(48節)」と書かれてあります。イエス様は、苦しむ弟子たちを見捨てず、助けにこられました。ご自身の姿を見せ、彼らの信仰に訴え、イエス様を思い出すことができるようにするためでした。
 そして、それでも恐れている弟子たちを、なおも見捨てられず、「イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。(50節)」のです。この「わたしだ。」という言葉は、ギリシャ語で見るならば「エゴー エイミー」という言葉です。これは、神様が燃える柴の中からモーセに語られた『わたしはある。』という御名と同じ言葉です。すなわちイエス様は、「神であるわたしがいるのだから恐れてはいけない。」と語られたのです。実際に、「そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。(51節)」とあるように、イエス様の御心の時が来るならば、どんな嵐も即座に終わります。
 この出来事、またイエス様の「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉は、どれだけ弟子たちを支えたことでしょうか。迫害・投獄・島流し・殉教といった苦難の中伝道する彼らを、大いに励まし続けたことでしょう。彼らはイエス様に目を留め続け、その信仰のレースを走り通したのです。
 そして、私たちにとってもイエス様の「わたしだ。恐れることはない」というみことばは、大きな励ましです。私たちがどんな苦難の嵐の中にあっても、神の御子であるイエス様が、私たちをとりなし続け、共にいてくださいます。イエス様のご愛と御力を知っていながら、心を頑なにした弟子たちのようではなく、彼らの失敗を反面教師として、常にイエス様に目を留め続ける一人ひとりでありましょう。

2018年07月01日 ヨハネの黙示録3章14~22節より

 ここに出てくる御使いは、いわゆる天使ではなく、この地域の伝道の責任を負っていた一人のクリスチャンです。そして、彼はここでイエス様から、「生ぬるい」と叱責を受けなければなりませんでした。彼は「わたしはあなたの行いを知っている。(15節)」と語られたとおり、様々な働きをしていました。しかし彼は、熱い愛を持って仕えていた訳でもなく、「冷たくもなく、熱くもない(15節)」中途半端な状態でした。私たちは、彼と同じように「生ぬるい」と言われる状態に陥ってはいないでしょうか?
 生ぬるい水というのは、飲む人を潤し、喜ばせることができません。ですから彼はイエス様から、「わたしは口からあなたを吐き出す。(16節)』と言われなければならなかったのです。責任ある働きに立てられたからには、初めは熱心に、イエス様の御足跡に倣っていたはずです。その彼が熱を奪われてしまったのは、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っている(17節)」とあるように、この世を愛して歩んでしまっていたからです。彼はずいぶんと裕福になり、この世での良い生活、自分の目に慕わしいと思える物に、心を奪われてしまったのです。そして、初めは主への忠実さゆえに送っていた質素な生活をやめ、徐々に贅沢さを追い求めるようになっていき、遂には「足りないものは何もない」と言うほどにまでなりました。そしてそれと同時に、イエス様との親しい交わりと、豊かな霊的祝福を悪魔から奪われてしまったのです。その彼の状態は、イエス様から『あなたは…実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。』と言われなければならないほどに、悲惨な状態でした。彼は、霊的な目でもって、自分の状態を見なければならなかったのです。そして私たちは、彼に語られたイエス様からの警告を、自分自身のこととして聞かなければなりません。『耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』(22節)とイエス様が言われたからです。
 イエス様は、全てのクリスチャンが、ご自身を熱く愛して歩むことを望んでおられます。そして、私たちは決してこの世を愛して歩んではなりません。なぜならば聖書には「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。(1ヨハネ2:15)」と書かれてあるからです。この世は、神様を拒み、神の御子イエス・キリスト様を十字架に付けました世です。その神に敵対する世を愛することは「世を愛することは神に敵対することだ(ヤコブ4:4)」と書かれてあります。そのような世を愛しながら、イエス様を愛していますと告白することは矛盾しています。そして、今は悪魔がこの世を「空中の権威を持つ支配者」として支配しています。悪魔が私たちに良いものを与えるはずがありません。むしろ、私たちは悪魔から時間・お金・体力・そして永遠の祝福を奪い取られることになるのです。
 このような彼に、イエス様は『火で精錬された金』、『裸の恥を隠す白い衣』、『よく見えるようになる目薬』を買うように命じられました。純粋な信仰と、肉を曝け出すのではなく世との分離を求める聖い生活と、永遠に価値あるものを見分ける霊的な理解力が、彼には必要でした。そして、もうすぐにでもイエス様が迎えに来られることを覚え、ただイエス様を見つめて歩むことを、イエス様ご自身が望まれたのです。そしてイエス様は、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。」と語られました。伝道者であったにも関わらず、彼は心の戸の外にイエス様を追い出していたのです。なんと恐るべき情景でしょうか。しかし、イエス様がその彼を叱責し、厳しく命じられたのは、彼への愛ゆえでした。「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(19節)そのために、彼は誤りが暴露され、非を認めさせられる必要がありました。もし、彼が悔い改めるなら、イエス様は彼ともう一度親しい交わりをもち、永遠に価値ある人生を送らせ、より一層祝福したいと願っておられました。そしてイエス様は、ご自身に信頼して歩む者を、必ず助け続けてくださるのです。
 ですから私たちも、自分自身をよく吟味しましょう。もしも生ぬるい状態であるなら、即座にそれを認め、悔い改めなければいけません。そして、熱心になり、この世の朽ちるものではなく、永遠に価値あるものを求めて、イエス様との愛の交わりの内を歩む者でありましょう。

2018年06月17日 ヨハネの福音書2章1~11節より

 「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。(11節)」イエス様はその御業に際して、「給仕の者たち」を用いられました。今もイエス様は、ご自身の栄光を表す御業に、私たちクリスチャンが協力する機会を与えてくださいます。そこで、この箇所からイエス様がどのような者を用いられるかを学びましょう。
 「イエスの母」すなわちマリアは、婚礼を主催する側の立場であったようです。ですから彼女は、ぶどう酒が不足していることを知り、イエス様に「ぶどう酒がありません(3節)」と言いました。しかし、この発言は信仰からというよりも、母としての立場からイエス様への指示でした。ですから、イエス様はマリアに対して、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。(4節)」と、他人行儀に言われ、その申し出を拒否されました。マリアの指示に従って働きをなされたなら、マリアに栄光が帰されてしまうからです。同じように、もし私たちが、自分の考え・自分のアイデアをイエス様に押し付けるなら、イエス様はその者を用いることができません。
 しかしマリアは、イエス様の発言から自身の誤りに気づき、給仕人に対して、「あの方が言われることは、何でもしてください。(5節)」と指示しました。これこそ、私たちに必要な姿勢です。私たちが、「イエス様が仰ることならば、何でもいたします」とへりくだるなら、イエス様はなすべきことを必ず教えてくださいます。そのような従順な下僕を、イエス様は求めておられるのです。実際にイエス様は給仕人たちになすべきことを伝えられました。「イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」(7節)」
 これはたやすいことではなかったはずです。「二あるいは三メトレテス入りのものであった(7節)」この6つの水がめの容積は、それぞれ風呂桶のようなものです。しかも、ぶどう酒が無くなった切迫した状況であるのに、満たすのは水です。しかし、給仕人たちは、イエス様の指示に即座に従いました。そして、その水を世話役のところに持っていくよう言われたときも、結果を恐れず、即座に従いました。これも私たちが見習うべき姿勢です。
 「こんなことをして、何の意味があるのだろう」「こんなことをして、大丈夫だろうか」と、イエス様に従っていくうえで思うことがあるかも知れません。しかし、私たちも彼らの従順さを見習い、イエス様の言われることに躊躇せず従うべきです。イエス様を信頼し、従うならば、私たちが失望することはありません。その働きが無駄になることも、決してあり得ません。
 イエス様は給仕人の労苦に報いられ、水を最上級のぶどう酒に変えられました。この奇蹟を目の当たりにして最も驚いたのは、この給仕人であったはずです。世話役はぶどう酒を飲んでも「それがどこから来たのかを…世話役は知らなかった。(9節)」のです。「思ったより良い酒だった。」と驚くことしかできませんでした。しかし、給仕人たちはイエス様の御力を目の当たりにできたのです。これは、イエス様に従順に従った者の特権です。空の水がめのように何もない者である私たちも、「どうぞ用いてください。」と自身をイエス様に明け渡すならば、主の恵みを最前列で味わうことが出来ます。イエス様が、ご自身の御力をもって、私たちを助けてくださるからです。どうか、イエス様に従い、その御力と導きを常に味わう、幸いな生涯を送る者でありましょう。

2018年06月3日 ペテロの手紙第一3章18節より

 キリストの死について、聖書は「正しい方が正しくない者たちの身代わりになられた」と語っています。身代わりというのは、誰かの罰を代わりに受けるということです。そして、身代わりとなるためには、その人自身に罪があってはなりません。しかし、イエス・キリスト様には、人間の身代わりとなって死ぬ資格があられます。なぜなら、この御方は「正しい方」であられ、「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。」(2:22)からです。このように、罪が全くない神の御子であられるキリストが、十字架にかかられました。それは、「正しくない者たち」、すなわち私たち人間の罪を背負って、神様からの罪に対する刑罰を受けられた、身代わりの死であったのです。
 人間はみな、神様の前に罪人です。神様は、聖く正しいお方であられ、人間の心の中まですべて知っておられる、全知全能のお方です。その神様の前で、「自分は正しい人間です」と言える人はひとりもいません。全ての人が、真の神様を無視して、自分の欲望を神として、自分勝手に生きています。平気で人を欺き、心の中で罵り、互いに争いながら生きているのです。そして、それら全ての罪を知っておられる神様は、聖書を通して「全ての人は罪を犯し」たと語っておられます。そして神様は、人間は死後永遠の地獄において、その罪に対する刑罰を受けなければならないと語っておられます。皆様は、ご自分がこの裁きに相応しい罪人であることを認めておられるでしょうか。
 しかし、神の御子イエス・キリスト様は、愛される価値のない私たちを憐れまれ、十字架において私たちの罪を負い、私たちが受けるべき罪の刑罰をその身に受けて死なれました。
 そして聖書には、「それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて」と書かれてあります。すなわち、キリストは死後三日目によみがえられたのです。「霊においては生かされて」とありますが、キリストが霊の状態でよみがえったという意味ではありません。キリストは、確かに肉体をもってよみがえられました。ですから、キリストの墓は空になったのです。そしてキリストは、多くの弟子たちの前に復活された肉体をもって現れました。この手紙の著者ペテロもその目撃証人です。そして彼らは、命を懸けて、キリストの復活を証しました。それは、キリストの復活が歴史的事実である証拠です。そして、その復活を通して、キリストが神の御子であるということが、はっきりと証明されました。そして、「イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。」(ペテロ3:22) とも書かれてあります。よみがえられたキリストは、弟子たちの見ている前で天へと帰って行かれました。そして、このお方は、今も生きておられる神であられます。そして、全ての権威のはるか上に座しておられる、主権者であられます。この偉大なる神の御子が、私たちの罪を背負い、十字架で死なれました。自らの命を惜しまずに捨てるほどに、キリストは私たちのことを愛されたのです。
 皆様は、このキリストを信じておられるでしょうか。このお方が、ご自分の神であられ、ご自分の救い主であると、受け入れておられるでしょうか。誰であっても、このお方を信じ受け入れるならば、すべての罪が完全に赦されて、死後地獄ではなく、天国に入ることができます。死よりよみがえられ、今も永遠に生きておられるキリスト様が、皆様にも永遠のいのちを与え、神の元へ導いてくださるのです。ぜひ、この救いを受け取る方であってください。

2018年05月28日 ピリピ人への手紙1章12~21節より

 パウロは、聖書の中で「私に倣う者となってください。(3:17)」と語りました。すなわち神様ご自身が、聖書を通して、私たちにパウロを模範として歩むようにと語っておられます。
 このときパウロは、福音を宣べ伝えた結果「キリストのゆえに投獄されて(13節)」いました。しかし、彼は牢の中にあって「私はそのことを喜んでいます。 (18節)」と語ることができました。それは、この投獄を通して、「私の身によってキリストがあがめられること(20節)」という、彼の人生の目的、願いが叶えられていたからです。彼の投獄は「かえって福音の前進に役立った(12節)」上に、その証が用いられ、他のクリスチャンの励ましともなっていました(12-14節)。ですから彼は、投獄の苦しみの中にあって、心から喜ぶことができたのです。
 かつてパウロは迫害者でした。その彼に、イエス様は直接語りかけられ、救いへと導き、そればかりか、福音を宣べ伝える宣教者にまでされました。そのイエス様の愛と恵みに心を捉えられた彼は、「私の身によってキリストがあがめられること(20節)」 を求め続け、殉教の死に至るまで、キリストにお仕えしました。そして、このパウロに倣うようにと、神様は語っておられます。
 私たちも、キリストの尊い血によって贖われ、神様にお仕えする特権を与えられました。そして、私たちの内にもパウロと同じ「私の願いは、…私の身によってキリストがあがめられることです。(20節)」という願いが与えられているはずです。しかし自分の弱さや愚かさを見た時に、「パウロのような歩みは自分にはできない」と考えてしまうかもしれません。
 しかし、その考えは間違いです。パウロは、自分の精神力や体力で、神様にお仕えしていたのではありません。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り(20節)」とあるように、彼の内にも、キリストを証しすることを恥じる弱さや、臆病な思いがありました。彼自身の内に、何の力もありませんでした。そのパウロがキリストに仕え続けることが出来たのは、彼がキリストを力の源として歩んだからです。
 「私にとって(私の中で働いておられる)キリストが生命活動(の源泉)であり、(肉体が)死ぬことは益であるからです。【21節、エマオ訳聖書より】」とパウロは語りました。
 キリストは、御霊を通して、パウロの中で生きておられました。そして、パウロは常に、このキリストに頼り、キリストの力によって歩んでいました。そして、私たちの内にも同じキリストが生きておられます。これは例えでもただの教えでもなく、現実です。ですから私たちであっても、キリストにお頼りするならば、パウロのように歩むことができます。
 私たちも、キリストのゆえに親戚や職場から、迫害を受けることがあります。その中でキリストを証して歩むことに、恐れを感じるかもしれません。しかしキリストが、私たちの生きる力です。このお方に助けを祈り求めるならば、キリストが、証する勇気、語るべき言葉をお与えくださいます。自分を見るなら知恵も勇気もありません。しかし、自分の無力さを認め、キリストに信頼し、拠り頼みさえすれば、必ずキリストが私たちの力となってくださいます。その人がどんなに弱く愚かであっても、このお方に信頼し続けている限り、誰であってもキリストのために生きることが可能であるのです。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」 と書かれてある通りです。
 どうか私たち皆が、この真理を信じ、パウロと同じ原則によって歩む者でありますように。そして、私たちの身によっても、キリストがあがめられることを求めて歩みましょう。

2018年05月20日 ローマ人への手紙13章11~14節より

 神様は私たちに、『あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。』(11節)と語られています。この救いとは、罪の裁きからの救いではありません。それはイエス様を信じた時に、すでに得てしまっているからです。むしろこれは、イエス様がクリスチャンを罪汚れた地上から天へと引き上げてくださる救い、すなわち空中再臨を意味しています。  
 聖書の他の箇所でイエス様ご自身は、『しかり、わたしはすぐにくる。』(黙示録22:20)と約束されました。その時から二千年たった今は、「救いがもっと私たちに近づいてい」ます。主は、今日にでも迎えに来られうるのです。
 ですから私たちは、『眠りからさめるべき』です。眠っているならば、なすべき働きができません。私たちには、主イエス様の福音を、人々に宣べ伝える責任があります。そのチャンスは空中再臨までのわずかな期間しかありません。明日イエス様が来られるなら、私たちが、地獄に向かっている愛する家族に対して福音を語るチャンスは、今日しかありません。
 その重要な働きを妨げる霊的な眠りが『遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活』(13節)を送ることです。自分の趣味に没頭し、欲望のままに生き、喧嘩ばかりして、「欲望を満たそうと、肉に心を用いて」いるならば、私たちの霊は眠ってしまっているのです。このような人に、主イエスを証しすることは不可能です。そればかりか、眠った姿というのは恥ずかしい状態です。誰も寝巻きのまま外出しようとは思いません。公的な場に出ようとする人は、正装をするはずです。私たちが霊的に眠っているならば、それは「品位のある生き方」ではなく、下品な生き方なのです。
 ですから私たちは、目を覚まさなければなりません。「夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。」
『闇のわざを脱ぎ捨て』(12節)、という言葉は、「直ちに脱ぎ捨てる」を意味する強い表現が用いられています。なぜなら、私たちには悩んでいる時間すらないからです。そして、同じ表現が「光の武具を身に着けようではありませんか。」にも用いられています。私たちは、兵士として戦うために、この地上に置かれていることを、自覚しなければならないのです。そして『主イエス・キリストを着』(13節)ること、すなわち、主イエス・キリストに見習って歩むことが、求められています。「昼は近づいている」以上、私たちは、直ちに福音を語ると言うなすべきことをするために、武器をとって、悪魔に対しキリストの兵士として戦わないといけません。
 神様は私たちが主イエス様に習って歩めるように、聖霊なる神様をお与えくださいました。そして、聖霊を通して主イエスが私たちの内に住み着いてくださり、日々導き、私たちの力となってくださっています。ですから後は、私たちが主イエスに頼って歩みだすだけです。そして、日々イエス様と交わり、イエス様を知っていくならば、イエス様に似せられていきます。実にイエス様には下品なところ、批判されるべき罪などは全くありません。私たちも『昼らしい、品位のある生き方』(13節)ができるのです。そしてその人を、主はご自身の証人として、必ず用いてくださいます。もうすぐ、間もなく主は来られます。私たちは、その時に主の御前で恥じ入ることのないよう、目を覚まして、戦い続ける者たちでありましょう。

2018年05月06日 ルカの福音書12章16~21節より

 このたとえ話に出てくる金持ちは、人生最後の日に神様から『愚か者』と言われました。神様に、人生をこのように評価されることは恐ろしいことです。しかしこれは、あなたにとっても他人事ではありません。なぜなら聖書には「人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。」(へブル9:27)とあり、「自分の行いに応じてさばかれ」(黙示録20:12)ると書かれています。そのさばきとは、燃える火の池、地獄に投げ入れられ、永遠に苦しみ続けることです。そのように、死んだ後に人間を地獄に投げ込む権威を持っておられる神様から、「愚か者」と判決を受けるほど恐ろしいことはありません。あなたの生き方は、果たしてどうでしょうか?
 金持ちは人間的に見れば賢く生きていたようにみえました。このたとえ話は「ある金持ちの畑が豊作であった」(16節)ことから始まっています。作物を豊かに実らせるためには、怠けていてはできません。一日中働き、日々豊作になるよう努力して、その努力が実を結ぶものです。彼は努力家でした。さらに、蓄えを無駄にしないように倉庫をたてよう先に備える知恵もありました。彼のように、一生懸命生きている人は、現代もたくさんいます。
 しかし、彼の人生設計は、神様の目から見るならば、「愚か」であり、全く誤っていました。なぜならば、彼の考えの中には、神様が全く考慮されていなかったからです。彼は『私の作物』、『私の財産』、『自分のたましい』と、さも全てが自分の所有物であるかのように発言しています。そして、実に彼の人生の目的は『安楽に』『食べて飲んで楽しむ』ことであったのです。
 人に命を与えられるのは、神様です。作物を与え、必要を満たし、人を生かしておられるのも神様です。ですからこの金持ちは、その神様に感謝し、礼拝すべきであったのです。それこそが彼の人生の目的であるべきでした。そして、それは金持ちに限った話ではありません。実に神様は、全ての人間を、様々な恵みによって生かしておられます。日々の糧、住居、いのちに至るまで。そして、自然を見て美しいと感じる心も。それら全てが神様の愛を知るために、神様から与えられたものです。それにも関わらず、その神様を無視し、欲望に従って生きることは神様を侮辱する大きな罪です。神様はその罪を永遠の地獄に入れることによってさばかれるのです。ですからイエス様はそのような愚かな生き方をしないように私たちが罪を認め、悔い改め、へりくだって神様のみもとにくるよう警告されました。そして、神様は憐れみ深い方ですので、悔い改めるなら地獄から救い天国へ行けるよう、御子イエス様をお与えになったのです。 
 イエス様は人生で一度も罪を犯さず、人々に善を施し続けられた真に正しい方であられるにも関わらず、神様から離れ、羊のようにさまよっていた私たちを救うために、十字架にかかられました。それは、私たちが負うべき罪の裁きを、身代わりに負い罰を受けるためでした。たとえ人々からののしられ、苦しみを増し加えられても、十字架に真っ直ぐにすすまれたのは、私たちへの大きな愛ゆえでした。そしてイエス様は、十字架の上で死なれ、三日目によみがえられました。このキリストを信じ受け入れるものは、だれであっても必ず救われます。死後に地獄ではなく、天国へ行くことができます。どうか、愚かな生き方を悔い改め、イエス様を信じ、神様に立ち返る者であってください。

2018年04月22日 テサロニケ人への手紙第一5章16~18節より

 この聖句はクリスチャンに暗唱され、家庭などで飾られる有名な御言葉のひとつです。しかし、実際にこの命令にしたがって「いつも喜び」「絶えず祈り」「すべてのことにおいて感謝」して歩めているでしょうか。祈りをもって始めた奉仕であっても、時間の経過とともに喜びや感謝の思いが薄れ、いつの間にか不平不満を言っていた、そして気がつけば祈りを忘れているというようなことがないでしょうか。あるいは、私たちの歩みの中で、困難や試練のときは必ず訪れます。その中で、自分の置かれた状況に目を奪われ、残念ながら喜びや感謝を失ってしまうことも、しばしば起こります。
 しかし、もしそのような時に前述の命令を忘れてしまうなら、もっと危険な状況に身をおくことになります。なぜなら「敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って(Ⅰペテロ5:8)」いるからです。ライオンが獲物として狙うのは、群れの中の弱ったものです。喜びを失って神様を見上げることができないクリスチャンは、まさに悪魔にとって絶好の餌食です。悪魔は壊滅的な霊的ダメージを与えようと、そのようなクリスチャンに更なる攻撃をしかけます。ですから、私たちは苦しい時にこそ、これらの御言葉に心を向け、天を見上げて歩まねばなりません。では、私たちは、どうすれば常に喜びをもって歩むことができるのでしょうか。
 まず第一に、神様は実行不可能な命令を与える御方では決してありません。神様が命じられた以上、実行する力も、神様は与えてくださっています。なぜなら、私たちは神様の恵みによって取り扱われているからです。その私たちに対して神様は「私はすでにあなた方にそのような生涯を歩むことができる立場を与えました。そしてその力も与えます。だから、その立場に相応しく、私を信じて私の命令に従いなさい。」と語られるのです。すなわち神様は、「いつも喜び」「絶えず祈り」「すべてのことにおいて感謝」するための、十分な恵みを常に注いでくださっています。
 神様は、地獄での裁きが相応しかった「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された(ローマ8:32)」御方です。それほどまでに大きな愛でもって、神様は私たちを愛してくださったのです。その神様が、「どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)」。神様は今も同じ愛でもって、私たちを愛しておられます。神様は御子イエス様の十字架の故に、これまでもそうであったように、これから天に入る瞬間まで、私たちをその大きな愛と深い恵みによって助け導き続けてくださいます。ですから、たとえ私たちが、どんな状況に置かれたとしても、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう(31節)」と言って、喜び続けることができます。
 さらに神様は、「私たちは、神が、神を愛する者たちのために、神の目的に従って召されている者たちと共に、全てのことを益に向けて動かしておられることを知っています(ローマ8:28)【エマオ訳聖書】。」とも語っておられます。神様は私たちクリスチャンを、ますますイエス様に似た者へ成長させようとしてくださっています。そしてその私たちを、より一層祝福しようとしておられるのです。そして、神様はそのご計画に基づき、「全てのことを益に向けて動かしておられる」と約束してくださっています。ですから私たちは、どんな出来事が起こっても、それも私たちの益のためであると信じ、感謝することができます。そして、これらのみことばに基づき、私たちはいつでも神様に信頼し続け、祈り続けて歩んでいくことができるのです。
 私たちは、これらの恵み深い約束に目を留めるものでありましょう。どんな時でも、状況に目を奪われるのではなく、神様に目を留め続けましょう。そして、「いつも喜び」「絶えず祈り」「すべてのことにおいて感謝」というご命令に従うひとり一人でありましょう。

2018年04月15日 ローマ人への手紙1章18~25節より

 みなさまはこの世界を創造された、まことの神様が御存在されることをお認めになっておられるでしょうか。世の中には「神はたくさんあるのだ」という考え方があります。歴史上の有名な人物や、蛇や狐を神として拝む人が多くいます。またある人は、「私は神を見たことがないから信じない」と、言います。しかし私たちは、神様が創られた世界を見るなら、唯一まことの、偉大なる神様がおられることがわかります。
 たとえば、この世界には、花を咲かせる植物はおよそ25万種あるそうです。それほど多くの植物に、デザインや、受粉の仕組みが備えられています。そこにも偉大なる神様の御力が現されています。聖書が「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。(19.20 節)」と語っている通り、神様はご自身が創造されたこの秩序ある世界を通して、ご自分のご存在をはっきりと私たちに知らせておられます。ですから、誰一人として、神様がおられることがわからない、とは言えないのです。
 ではなぜ人間は、石や木でつくられた、偽の神々を拝むのでしょうか?
 それは人間が、まことの神様のご存在を認めたくないからです。もし神様を認めれば、必然的にその権威を認め、神様に従わなければなりません。しかし人間は、支配されることを嫌います。だから多くの人は、偽物の神々を拝み、宗教行事に参加するなどして、「私は神を無視していない」と、ごまかしているのです。すなわち、多くの人々は、故意にまことの神様を無視しているのです。神様は今も、あなたの命を保っておられます。日々全ての必要を満たしてくださっています。それにも関わらず、「神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず(21 節)」「造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕え(25 節)」るというならば、それは神様の前に大きな罪です。そして神様は、皆様に対して、その生き方は間違っているのだ、早く悔い改めて私に立ち返りなさい、と語っておられます。
 正しい神様は、罪を決して見逃さず、必ずお裁きになられます。「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている(1:18)」「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」「罪の報酬は死です(ローマ6:23)」と、聖書は罪の裁きが死後に必ずあることを警告します。そしてその裁きとは、地獄です。罪人は死んだ後に、火と硫黄の燃える地獄で永遠に神様から裁かれ続けなければならないのです。神様はこのように、神様を無視している罪人に対して、警告を語っておられます。しかしそれは、私たちに救いを与えるためです。ちょうど、大きな病気になった人に対して、「あなたは病気です、そのままでは死んでしまいます、早く治療を受けてください。」と勧めるように、神様は皆様が地獄に行って手遅れになる前に、警告しておられるのです。神様は、人間を愛の対象としてお創りになられました。その人間が地獄に行くことを、神様は決して望んでおられません。そして神様は、私たちのために、素晴らしい救いを用意してくださいました。「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。(3:22)」
 神様は、キリスト・イエスによるの贖いの御業を通して、私たちの罪を赦してくださいます。私たちは、罪を犯しました。その代価として、命を差し出し、永遠の地獄へ行かなければなりませんでした。しかし、キリスト・イエス様が、その代価を支払ってくださったのです。イエス様は、神の御子が人なられたお方です。そしてその神の御子が、私たちの身代わりとして、十字架上で尊い血を流してくださいました。神の御子イエス様の命は、全ての人を贖って、なお余りある尊い価値があります。そのような素晴らしい代価を、イエス様は支払ってくださったのです。そして神様はその代価を受け取られました。ですから、誰であっても「信じるすべての人に」罪の赦しが与えられるのです。そしてイエス様は、死後三日目に死よりよみがえられ、救い主であられることを証明されました。
 このように、誰でも悔い改めてイエス様を信じるならば、救いを得ることができます。「そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです(ローマ3:22~24)。どうかあなたもイエス様を信じ、罪の赦しを得て永遠の天国と行く方となられますよう、心よりお勧めいたします。

2018年04月01日 コリント人への手紙第二5章18~21節より

 「これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
 この手紙を書き記したのは、使徒パウロです。しかし彼は、決して自分の考えを手紙に記したのではありません。「こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。(20節)」とあるように、聖書のまことの著者は神様であって、聖書は神様から人間に宛てられたメッセ-ジです。そしてここで神様は、「神と和解させていただきなさい(20節)」と語っておられます。また、ここで使用されている「和解」という言葉には、いわゆる日本語の「当事者が互いに譲歩して仲直りをする」という意味ではなく、「一方的に、心のあり方を変えさせられる」という意味があります。つまり神様は人間に対し「あなたの神に対する態度は、根本的に間違っています。即座にその態度を変えなさい。」と語っておられるのです。
 まず初めに、私たちは神様と人間との関係を、正しく知らなければなりません。「はじめに神が天と地を創造された。(創世記1:1)」とあるように、神様は天地万物の創造主なる御方です。複雑な仕組みをもつものを見れば、製造者がいることは明らかです。そうであれば、製品よりはるかに精巧で、素晴らしい秩序を備えた自然界や人間の身体を見れば、創造主なる神様のご存在はいっそう明らかです。私たち人間は、神様によって創られました。そればかりか神様は、水や空気や食物など、人間にとって必要なものすべてをお与えくださり、私たちの命を日々保ってくださっています。ですから、本来人間は、この神様に心から感謝し、神様を誉め称えるのが当然です。これが人間が取るべき態度です。
しかし多くの人間は、まことの神様を無視しています。そればかりか、創造主なる神様に反逆して、自らの欲望を満たすために生きています。自分たちの手でこしらえた偽の神々(偶像)を拝み、また、人を憎んだり嘘をついたりして、神様の忌み嫌われる数多くの罪を、毎日平気で犯し続けています。神様は、それらの罪に対して怒っておられます。そして、聖く正しい神様は、人間の罪を必ず裁かれる御方です。神様は聖書を通して、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と警告しておられます。神様の前に罪人である皆様は、死んだ後に火と硫黄の燃える池(永遠の地獄)で、神様からこれら罪の裁きを受けなければなりません。そして、地獄に投げ込まれた人間は、そこから二度とでることができません。昼も夜も永遠に、神様の怒りをその身に受け続けなければなりません。まことの神様に背く生き方には、取り返しのつかない代償が伴うのです。ですから、私たちには「和解」が必要です。自分の生き方が間違っていたことを認め、神様に立ち返らなければならないのです。私たちを愛される神様は、人間がそのように悔い改めることを願っておられるのです。そして罪人である私たちを救うために、「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。(21節)」
 神様は、ご自分のひとり子であるイエス・キリスト様を、救い主としてこの世に遣わされました。そして、すべての人間の罪を、罪のないこの御方に負わせ、私たちの身代わりとして、十字架上で裁いてくださいました。そして死後3日目の朝に、イエス様を死よりよみがえらせ、私たちに救いの道を設けてくださったのです。誰であっても、これまでの神様に対する間違った態度を悔い改め、イエス様を自分の救い主として信じるなら、すべての罪が赦されます。そして、永遠のいのちが与えられて、死後に神様の御国である天国に入る者とされます。どうか一刻も早くイエス様をお信じください。神様との和解を得て、恐るべき永遠の地獄ではなく、天国へ行く方となってくださいますように。「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(コリント人への手紙第二6章2節)」

2018年03月18日 民数記9章15~10章13節より

 イスラエルの民は、困難の多い荒野を、道しるべもなく旅しました。それは、神様の導きがあったからなしえたことです。神様は目に見える雲(9:17)と、耳に聞こえる銀のラッパの音(10:2-10)によって導かれました。信仰のない者にとって、このような旅は不安で仕方なかったかも知れません。しかし信仰者にとって、これほど確かで安全な旅はありませんでした。なぜなら、神様のみこころが、常にはっきりと示されていたからです。
 さて、このイスラエルの旅路は、私たちにも適応されなければなりません。神様は私たちに対しても、「あなたがたは旅人、寄留者なのです」(1ペテロ2:11)と語っておられます。私たちは悪魔が支配するこの地上を、天を目指して歩まなければなりません。その歩みにおいてもやはり、神様の導きが不可欠です。私たちには、イスラエルのように雲や、ラッパの音はありません。しかし、イスラエルの民を愛し導かれた神様は、私たちにもみこころを示し、必ず天に至るまで導いてくださいます。「幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった」(15節)この雲は、神様のご臨在の証しでした。神様は荒野の旅を、彼らと共に歩まれたのです。同様に、私たちとも神様は共に歩んでくださいます。いま神様は、私たちの内に聖霊を通して住んでくださっています。私たちは、この御霊を通して、みこころを知ることができます。神様は、イスラエル以上に私たちの近く、私たちの内にいて導いておられるのです。また、私たちにラッパの音は聞こえませんが、聖書を通して神様のみことばを聞くことができます。その聖書のみことばを、聖霊は私たちに理解させ、私たちの心に留めてくださいます。これらを通して、私たちもまたはっきりと神様のみこころを知って、天を目指して歩むことができるのです。
 しかし、イスラエルの民には1つだけ責任がありました。それは、神様のみこころに従うということです。ここには何度も繰り返して「【主】の命により」イスラエルが行動したという原則が、表されています。「昼でも夜でも、雲が上れば旅立った」(21節)のであり、「二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった」(22節)のです。「いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った」(17節)とある通り、雲が先でそのあとでイスラエルです。自分の思いがどのようであれ、神様に従うことこそが、唯一の安全な道であったのです。しかし、彼らはほどなくして、カデシュ・バルネアの地で、神様の導きに従うことを拒みました(民数記13章)。その結果、エジプトを出たときに20歳以上であった者たちは、ヨシュアとカレブの二人を除いて、全員荒野で屍をさらしたのです。神様のみこころを知りながら、それに従わなかった者の結末がここにあります。
 神様は私たちにも、行くべきか、留まるべきか、神様のみこころを必ず教えてくださいます。そして私たちは神様のみこころが示されたなら、そのみこころに従わなければならないのです。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り‥(ガラテヤ6:8)」「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」と聖書が警告するように、神様の導きを無視して自分の肉を優先させて歩むなら、必ずその報いを受け取ります。イエス様を信じているなら、天国に入り損なうことは決してありませんが、その人生は何の価値もないものとなります。その人は、永遠の損失を、「滅び」を刈り取らなければなりません。そればかりか、悪魔の道具として利用され、神様のご栄光を汚す生涯となるのです。これは絶対にあってはならないことです。これほど残念で、神様を悲しませることはありません。
 神さまは、私たちを愛しておられます。私たちはこの地上においても、神様と共に歩み、神様の愛や恵みを味わい、喜びと平安と祝福の日々を送ることができるのです。どうか、神様のみこころに喜んで従う生涯を選び取る者でありますように。聖霊に拠り頼み、力をいただいて、最も確かで安全な地上の歩みを全うさせていただく者でありましょう。

2018年03月11日 エペソ人への手紙1章15~23節より

 「教会はキリストのからだであ」る(23節)と神様は語られました。私たちクリスチャンは、与えられた御霊によって、キリストに結び合わせられました。そして私たちはキリストにあって一つであり、地上にひとつだけの目に見えない「キリストのからだ」をなしています。このことから、私たちクリスチャンが地上におかれている理由が分かります。人間の体が、頭が考えていることを実行するためにあるように、教会もかしらであるキリストの願うことを行うために存在しています。そして、キリストの願いとは、父なる神様の栄光が表されることです。つまり、私たちは神様の栄光を表すために地上にいるのです。そして、私たちは地域ごとに集まり働きをなすことによって、この真理を具体的に表現しています。そして、その教会には「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(19節)が働かされています。私たちはそのことをよく覚えておくべきです。
 と言うのも、私たちの現在の状況を見るなら、教会は小さく、弱い存在に思えるからです。学校や職場を見るなら、周りが全員未信者という人が多いと思います。彼らは悪魔のしもべであり、悪魔は彼らを好きに扱うことができます。この世の権威者たちも同様です。このことで、伝道が妨害されることもあります。また、資金が足りないために、新たな地での伝道の拠点探しに苦労することもあります。海外では、悪魔が支配している権威者によって伝道ができなくなることもあります。ですから私たちには、全世界への福音伝道の働きをなし、神様の栄光を表すことはできない、と思ってしまうことがあるのです。だからこそ、私たちは「心の目がはっきり見えるようになって」、神の御力に目をとめないといけません。神様は「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ」なさいました。私たちの内に働くのは、キリストを死者の中からよみがえらせた力、死に対して完全に勝利された、復活の力なのです。私たちの敵である悪魔の、最大の武器が死の力です。しかしその力を打ち破り、悪魔の頭を踏み砕かれたのが、キリストです。そして、よみがえられたキリストは全ての権威の遥か上におられる方です。神様は、このキリストを「すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられ」ました。ですから教会はどんな悪魔の力にも打ち勝つことができるのです。
 では、なぜそれにも関わらず、実際の伝道では妨害が数多くあるのでしょうか。それは、神様は今ご自身の力を、私たちの内に目に見えない形で働かせておられるからです。「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」は、「潜在力」とも訳される言葉です。この「力」はダイナマイトの語源となった単語です。ダイナマイトは、一見するとそんなに強力なものには見えません。けれども一度火をつけるなら山をも崩す強大な力を発揮します。神様はその強大な力を、私たちの信仰を強めるという形で働かせておられます。そして、信仰によって悪魔に勝利させることによって、ご自身のご栄光を表そうとしておられるのです。教会の歴史の中で、数々の国家的な迫害も行われました。しかしその中で神様は、クリスチャンが命がけで神様を証して、殉教していく姿すらお用いになり、より多くの人を救いへと導かれました。教会は政府の目論見とは違い、滅びるどころかますます建て上げられ、今日にいたるまで守られてきました。これこそが神様の偉大な御力です。そして、全世界への福音伝道の働きを、かしらなるキリストご自身が、今も進めておられるのです。
 私たちはこの目に見えない偉大な力に目をとめ、福音伝道をつづけていきましょう。開拓伝道にいくクリスチャン達は、少人数で多くの人々に福音を伝えようとしています。私たちは、祈りをもって彼らと共にその働きをなすことができます。そしてその中で働かされる、神様のすぐれた力をますます知ることができます。この神様の偉大な御力を信じ続けて、主のご栄光のために歩む者たちでありましょう。

2018年03月04日 詩篇22篇1~31節より

 「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか(1節)」に始まり、「主が義を行われた(31節)」(完了した)で終わるこの詩篇は、まさにイエス様の十字架上での御思いが記された歌です。私たちは、イエス様の十字架の御苦しみを、全ては理解できません。しかし、この歌を通してその一部を学びたいと思います。私たちは、自分が犯すひとつひとつの罪のために、主がどれほど苦しまれたのかを、よく覚えなければなりません。
 まず一番目に主は、「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか(1節)」と叫ばれました。御子イエス様は、永遠の昔から御父との親しい愛の交わりの中におられました。しかし十字架において、御子は罪そのものと見なされ、御父の愛から完全に絶たれ、罪に対する激しい怒りを受けられました。イエス様にとって、御父から見捨てられるということが、最も大きな苦しみであったのです。そして本来神様から捨てられなければならなかったのは、私たちです。私たちが地獄において味わうべきその恐ろしい苦しみを、イエス様は身代わりに受けてくださいました。
 2番目にイエス様は、精神的にも苦しまれました。(6-8節)神の御子であられる御方が、ご自身を「しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です(6節)」と言われたのです。十字架の前、また十字架の上において人々から多くの屈辱を受け、その尊厳を無視されたのです。主はその辱めにも耐え忍ばれました。そればかりかイエス様は、そのような罪人たちのためにも「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)」と、とりなしの祈りを捧げられました。その罪に対する裁きすら、その身に受けられたのです。
 そして三番目に、イエス様は身体的にも極限まで苦しみを味わわれました。詩篇が書かれたダビデの時代、すなわちイエス様の十字架のおよそ千年ほど前、ローマ帝国も十字架刑もまだ存在していませんでした。しかし、22篇にはイエス様の十字架を取り巻く周囲の状況や、イエス様の身体的苦痛が、実に正確に描かれています(ヨハネ19:31-37をお読みください)。「犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです(16節)」とありますが、この「かみつく」という言葉には「貫く、刺し通す」という意味があり、十字架で手足を釘付けにされたイエス様の姿が、ものの見事に預言されています。イエス様が通常十字架刑では考えられない短時間(約6時間)で死に至ったことからも、その身体的苦痛が私たちの想像を絶するものであったことがうかがえます。
 私たちはただ信じるだけで、罪の赦しを得、恐ろしい地獄から救われました。しかもその信仰も神様の一方的な恵みにより、与えられたものです。(エペソ2:8)しかし、私たちにとっては無償であっても、主は大きな犠牲を支払われたのです。その贖いが成し遂げられるために、罪なき神の御子が、恐怖と屈辱と苦痛を味わわれました。私たちが犯すたったひとつの罪のためにも、神様の側ではこれほど大きな犠牲が支払われなければならなかったのです。私たちは、どれほどの愛で自分が愛されているのか、よく覚えなければなりません。決して軽い気持ちで罪を犯したり、イエス様のご愛をもう一度侮辱するような歩みをすべきではありません。
 そして、私たちはどのようにして、このご愛に応えるべきでしょうか。「【主】を恐れる人々よ主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔よ主の前におののけ。(23節)」と書かれてあります。主はこれらすべてを、御父のご栄光のためになさいました。ですから私たちのなすべきことは、主を賛美することです。主の驚くべき恵みの御業を覚え、真心からの感謝と礼拝を捧げることです。それこそが、贖われた私たちにふさわしい態度であり、主のご愛にお応えすることです。ますますな真実な礼拝者として歩んでいきましょう。

2018年02月25日 ヤコブの手紙1章1~3節より

 ヤコブの手紙は、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」から、「離散している十二部族」、すなわちユダヤ人信者に向けて書かれた手紙です。彼らはこの時、大変な苦難と試練の中にありました。同様に、私たちも信仰によって歩もうとするならば、必ず試練に合うことになります。ですから私たちにとって、この箇所から試練について学んでおくことは、非常に大切なことです。
 この箇所の原語をみると、試練には二つの側面があることが分かります。2節の「試練」と3節の「試される」では、別の原語が用いられているからです。
 試練のひとつ目の側面は、悪魔が信仰者をつまづかせるために持ってくる、という面です。(2節)救われる前の私たちは、悪魔の支配下にあり、その手駒でした。しかし、イエス様を信じることによって悪魔から解放され、反対に以前は敵対していた神様を崇め、お喜ばせする者へとかえられました。これは悪魔にとって不愉快きわまりないことです。だから悪魔は、信仰者をつまづかせようと試練を持ってくるのです。その試練によって、私たちから神様のご栄光を証をする意欲、力を奪おうとしているのです。
 ヨブに与えられた試練を例にとるとよくわかります。ヨブは神様から「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。(ヨブ記1:8)」と言われる信仰者でした。しかし悪魔は「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。…しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。(9~11節)」と神様に訴えて、ヨブから持っているものを奪いました。悪魔は同様に、私たちからも神様への信仰を奪おうと様々な試練を用います。ヨブにしたように、人間や災害、病気を通して試練に遭わせます。
 しかし試練にはもう一つの側面があります。それは神様が、私たちの信仰が確かなものであることが明らかになるようにと試練をお与えになるのです。(3節)そして、神様を信じ続けることによって私たちに忍耐が養われ、神様のためにより一層用いられる、整えられた者に成長させられるのです。ですからヨブの場合も、神様はあえて悪魔が試練を与えることをお許しになられたのです。
 ですから、私たちが試練の中にあってなすべきことは、神様を信じ続けることです。ヨブは家族、財産、健康を奪われても「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」と言って神様を信頼し続けました。私たちが神様を堅く信じ続けるなら、悪魔はそれ以上手出しできません。実にヨブの堅い信仰に悪魔は手出しできませんでした。このことによって、彼の信仰の確かさが明らかにされました。そして、そのことにより働き出された忍耐を完全に働かせた人に対して、神様はより大きな祝福をもって答えてくださいます。ヨブは試練を耐えた後、今まで持っていたものの二倍のものを神様から頂きました。私たちにも神様は祝福を与えようとしておられます。この事実に目を留めているなら、たとえ試練の中にあっても喜ぶことができます。このことを覚え、神様を信頼し続ける一人一人でありましょう。

2018年02月18日 テモテへの手紙第二3章16~17節より

 この箇所から、私たちにとって聖書を学ぶことがいかに大切かを共に学びましょう。
 まず、聖書とは「聖書はすべて神の息吹によるもの(16節欄外直訳)」であると書かれています。この「神の息吹」について創世記を見るならば、「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)」と記されています。すなわち、神様の息は、いのちの無いものにいのちを与え、生きた力を与えることができます。その息吹が聖書には吹き込まれています。
イエス様を信じる前の私たちは霊的に死んでいた者でした。しかし、聖書を通して福音を聞かされ私たちは、神様から新しいいのち(永遠のいのち)が与えられました。
 また、聖書はその新しいいのちを養うことができる、唯一の霊的糧です。私たちは聖書を通して必要な力を得て、神様にお仕えすることができます。しかし反対に、もし私たちがこの聖書から栄養を得ていないならば、元気も喜びもどんどん失われ、歩むことができなくなってしまいます。だから私たちには聖書のみことばが必要なのです。
 また、聖書は「神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者(17節)」へと成長させる力もあります。私たちの新しいいのちには、新しい願望があります。それは、神様をお喜ばせしたいという願いです。十字架で私たちのために死なれたイエス様の、大きな愛にお応えしたい、神様のご栄光を表す者として用いられたいという願望です。そして、より一層神様に用いて頂くためには、聖書を通して霊的に成長させられることが必要です。
 では、聖書は私たちをどのように整えるのでしょうか。この箇所には聖書の「教えと戒めと矯正と義の訓練(16節後半)」という4つの力が記されています。
聖書はまず私たちがあるべき姿を教えてくれます。神様がどんなお方であり、どのような願いをお持ちであられるか、また私たちはこの地上でどう考え、いかに歩めばよいのかを教えます。反対に、私たちに間違った点があるならば、聖書はそれを戒めます。残念ながら私たちは、この世から出た誤った思想、常識、価値観などの影響を受けています。聖書はそれらすべてを戒め、私たちの罪を指し示します。そして私たちの内に曲がってしまった部分があるならば、聖書はそれを矯正します。聖書は、神様に信頼し従順であるよう私たちを励まし続け、矯正します。さらに聖書は、私たちが学んだことを実行し、正しく歩むことができるように、日々私たちを訓練し続けてくれます。そして私たちは、「すべての」働きのために「十分に」整えられることができます。 
 これらの聖書の力を信じておられるでしょうか。聖書を学ぶことの大切さを私たちは軽んじていないでしょうか。あるいは聖書を学ぶ時間を、悪魔に奪われてしまってはいないでしょうか。私たちは、より一層聖書の力を信頼しましょう。そしていっそう聖書を学び、神様に用いられる者たちでありましょう。

2018年02月04日 ペテロの手紙第二3章3~14節より

 イエス様は私たち(教会)を迎えに来てくださると、約束されました。そしてそれは「しかり、わたしはすぐに来る。(黙22:20)」と語られたみことばの通り、またパウロが「生き残っている私たちが、…空中で主と会うのです。(Ⅰテサ4:17)」と信じていたように、今日にでも起こりうることです。
 しかし、ペテロは「彼の来臨の約束はどこにあるのか。(4節)」と言ってその約束を信じない者たちが現れると警告しました。現代はまさにその「終わりの時」であると言わなければなりません。イエス様の空中再臨を信じないものがたくさんいるからです。彼らは「自分たちの欲望に従いながら(3節)」語ります。これが「嘲る者たち」の特徴です。この世を愛する生き方と、空中再臨を待ち望む生き方は、絶対両立できません。なぜなら、今日にでも空中再臨があると信じるなら、この世を愛することは実に愚かであり、またその生き方に何の価値もないと認めなければならないからです。たとえ私たちがこの世で何か追い求めて生きたとしても、来臨の時には全てを手放すことになります。そして、その人は空中でイエス様にお会いした時に、地上での自分の生き様をどのような顔で報告するのでしょうか。その人は必ず恥じ入ることとなります。だから、自分の欲望を追い求める者たちは、主の来臨を受け入れられないのです。しかし反対に、「私はあなたを待ち望み、あなたを愛して歩んでいました」と答えられるなら、これほど幸いな瞬間はありません。
 更に来臨の約束は、空中再臨以降の世界についても語られています。「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(10節)」とあるように、聖書に預言された神様のご計画の最後、この世界は完全に滅ぼし尽くしてしまわれます。その後に「神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地(13節)」が訪れるのです。「嘲る者たち」はこの最後をも否定します。
 しかし、神様の約束は決して違えられることなく、必ず成就します。かつて世界は神様が語られた通りに「そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました(6節)」。「ノアの大洪水」が歴史的事実であることは、様々な証拠も残っています。人間の観点から見れば、来臨の約束が「すぐに」訪れていないように思えます。しかしそれは人間と神様との時間感覚の違いであり(8節)、何より「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んで(9節)」おられる神様の忍耐のゆえです。私たちもこの忍耐のゆえに、救いに与る者とされたことを決して忘れてはなりません。そして、最後の一人が救われたなら、主はすぐに来られます。それは、今日かもしれませんし、明日かもしれません。そうであるならば、私たちはどのように歩むべきでしょうか。
 「あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。(11節)」「しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。(14節)」これらのみことばは、私たちの取るべき姿勢を明示しています。もし今日イエス様が迎えに来られたら、私たちは平安の内にイエス様とお会いできるでしょうか。私たちは自分の今の歩みを吟味すべきです。そして「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい(15節)」と語られています。滅びゆく魂への主の忍耐のゆえに、私たちにもまだ主にお仕えする機会が与えられているのです。今日からでもみことばの勧めに従って歩むなら、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長(18節)」させていただくことができます。イエス様の再臨を待ち望みつつ、主にお仕えし、福音伝道に励み、この世ではなく天に望みをおく人生以上に、価値ある人生はありません。どうか、このような最も幸いな生涯を歩む者たちでありましょう。

2018年01月28日 ローマ人への手紙4章1節~8節より

 聖書には「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです(エペソ2:8)」「人は…信仰によって義と認められる(ローマ3:28)」と書かれてあります。私たちは、信仰によって救われたばかりか、完全に正しい神様の基準に照らして義であると認められ、神様に完全に受け入れられていると、聖書は明確に語っています。それでは、信仰とは何でしょうか?このことについて聖書から見るならば、私たちはより一層神様の恵みを知ることができます。
 神様は「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた(ローマ4:3)」とあるように、信仰によって義と認められた例としてアブラハムに目を向けておられます。アブラハムは、神様によって祝福が約束されていましたが、長い間子がいませんでした。それで、彼が神様に「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。(創15:3)」と言ったとき、神様は「『さあ…星を数えられるなら数えなさい。』…『あなたの子孫は、このようになる。』(創15:5)」と約束されました。アブラハムはその約束を素直に受けいれ、その通りになると信じました。神様はその時、アブラハムを義とお認めになられました。ここから私たちは、信仰とは、神様の約束をそのまま信じ受け入れることだと知ることができます。神様がアブラハムを義であるとお認めになったのは、アブラハムがたった318人で連合国の軍隊と戦い勝利したときではありません。もしそうであったら「信仰とは勇気をもって行動することだ」となるかもしれません。あるいは、アブラハムが自分の息子イサクを捧げたとき義と認められたなら、「信仰とは、従順な行いをすることだ」となるでしょう。しかし、そうではありません。彼が義と認められたのは、ただ神様の約束を信じた時であったのです。
 では、私たちが信仰によって救われたというならば、どのような約束を信じたのでしょうか。私たちにも次のような約束が与えられています。「御子を信じる者はさばかれない。(ヨハネ3:17)」「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている(3:36)」これらは一例です。私たちは、聖書を通して語られた神様の約束をただ信じただけで救われたのです。
 アブラハムが自分の状況を見るならば、子孫がおびただしく与えられるとは信じられなかったでしょう。しかし、彼はただ神様の約束に目を留めました。私たちも自分自身を見るならば「こんな罪深い私が、ただ信じるだけで救われるなんて虫が良すぎる」と思えてしまいます。しかし私たちも、ただ神様の約束に目を留めなければなりません。どれほど罪深い者でも、神様はご自身の約束に基づいて、信仰によって救ってくださいます。だからこそこの救いは、神様の恵みによるものです。「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(4.5節)」とある通りです。なんの働きもなく、不敬虔な罪人であった私たちが、信仰のみによって義と認められたとは、何と素晴らしい恵みではないでしょうか。私たちは「幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。(8節)」本当に幸いな者たちです。私たちは改めて、信仰によって救われ、義と認められたことを心から喜びましょう。そしてこの喜びをもって心からの礼拝を神様に捧げる一人ひとりでありましょう。

2018年01月21日 創世記1章1節より

 はじめに神が天と地を創造された
 皆様は、私たちの創り主である、まことの神様のご存在を認めておられるでしょうか。神様の姿は目に見えませんが、神様がお創りになった物を見るなら、その御存在は明白です。例えばマイクや時計などの製品を見るなら、それを作ったメーカーがあることは誰にでもわかります。そうであるならば、素晴らしい仕組みを持った人間の身体や動植物、天体などを見るならば、創り主なる神様のご存在は、誰の目にも明らかです。そして神様は私たちを愛の対象として創られました。人間は神様の愛を喜び、神様を愛するために造られたのです。ですから、人間の本当の幸せ、喜びは神様と共に生きることにあります。
 ところが人間には、非常に大きな問題があります。それは人間が犯している罪です。「義人はいない。一人もいない。(ロ-マ3:10)」とあるように、全ての人は神様から見るなら罪人です。神様は、人間の心の中まで全てご存じの御方です。完全な聖さ、正しさをご性質とされる神様の基準に照らせば、その神様の御前に、正しいと言える人間は一人もいません。そして、聖い神様は、罪に対して必ず裁きを下されます。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:22)」
 これが神様の、罪に対する裁きの基準です。他者への憎しみや怒りは、たとえそれが表面に出なくても殺人の根となる恐ろしい罪です。そして神様は人の心をご覧になられます。ですから神様は、人殺しも人を憎むことも、同じ種類の罪だと判断されるのです。そして罪人は死後に、燃えるゲヘナ(地獄)で、罪の裁きを永遠に受けなければならないのです。
 未だかつて地獄を見た人間はいません。しかし、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」というみことばを始め、神様は聖書を通して地獄の存在を、何度も警告しておられます。まことの神様の御存在を無視する、無神論や偶像崇拝は罪です。しかしそれだけではなく、たとえ神様のご存在を認めていたとしても、神様のご支配を拒み自分の欲望に従って生きること、これも神様への背きの罪です。全ての人間は神様に逆らって生きているので、死後に地獄において裁きを受けなければなりません。
 しかし聖書には、神様ご自身が用意された、素晴らしい救いについて書かれています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」ここに、神様が私たち罪人を愛されたと書かれてあります。そして神様は、私たちを救うために、愛するひとり子のイエス様を救い主としてこの世に遣わされました。罪の無い神の御子が、あなたの罪をその身に負われ、私たちの身代わりに、罪の刑罰を神様からお受けくださったのです。そして、イエス様は死後三日目の朝、死の力を打ち破って復活されたのです。このお方こそまことの神であられ、私たちの救い主です。誰でもイエス様を自分の救い主と信じ受け入れる人は、「滅びることがない」すなわち、地獄に行くことがありません。そして、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられて、死後も天において永遠に神様と愛し合う者とされるのです。どうかこれを読む全ての人が、イエス様を信じる方であってください。

2018年01月20日 へブル人への手紙11章5節~6節より

 「エノクは死を見ることがないように移されました(5節)」とあるように、エノクは死を経験することなく天に引き上げられた、数少ない人物です。そして神様が彼を引き上げられた理由は「彼が神に喜ばれていた(5節)」からです。エノクも私たちと同じように肉がある、罪人でした。しかも彼は、ノアの洪水前の、非常に堕落した時代を生きていました。その悪の世の中において、エノクは大いに神様をお喜ばせして歩んでいたのです。
 この事実は、私たちにとって励ましです。私たちにも肉があり、罪があります。また私たちの生きる現代も、悪に満ちています。私たちを取り巻く世の中を見ても、それどころかキリスト教会全体でさえも、非常に堕落しています。しかしその中にあっても、私たちは神様をお喜ばせして歩むことができるのです。そしてこれは、驚くべきことです。
 人間社会で考えても、身分の高い人を喜ばせることは難しいです。例えば、私たちがアメリカの大統領を全力でもてなしたとしても、大した喜びにはなりません。彼は普段もっと良いものを味わっているからです。身分の高い人、力を持った人を心から喜ばせるというのは、決して簡単なことではありません。ましてや神様は、天地万物の創り主です。全宇宙の支配者であられ、全知全能の偉大なる御方です。その神様を、私たちのようなものがお喜ばせできるということは、何と驚くべきことでしょう。
 またこれは、私たちにとって喜びでもあります。なぜなら、私たちは神様を愛しているからです。御子をさえ惜しまず与えてくださった神様を、また私たちを愛し私たちのために命を捨てられた主イエス様を、お喜ばせすることができるとは、これほど嬉しいことはありません。「だったら神を喜ばせることが、私たちの人生の目的だ」と言っても過言ではないほどに、喜ばしいことです。
 ではどうすれば神様をお喜ばせできるのでしょう。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。(6節)」とあります。裏を返せば、「信仰によるならば、神に喜ばれることが可能である」ということです。信仰こそが、神様をお喜ばせする方法です。もしこれが「賢くなければ神に喜ばれることはできません」であったなら、多くのクリスチャンが諦めざるを得ません。あるいは「能力がなければ」であっても、私たちにとって絶望的です。私たちには何もないからです。しかし神様がご覧になるのは、その人の信仰なのです。そして、「神に近づく者は…神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(6節)」と書かれてあるように、神様が喜ばれるのは、「神様は求めるものに報いてくださるお方である」と信じる信仰です。
 私たちは日々多くのことを神様に求めます。その際に必要なのは、信仰です。ただ習慣的に、祈りの言葉を繰り返しているだけであるなら、意味がありません。しかし、自分の新しいいのちの成長であれ、神様により一層用いられることであれ、私たちが「神様はこの求めにも必ず応え、報いてくださる」と信じて求めるならば、神様はその信仰を喜んでくださいます。そしてこれは、どんな人でもできることです。ですから、私たちクリスチャンは、誰であっても神様をお喜ばせすることができるのです。なんと素晴らしいことではないでしょうか。
 私たちは、今すぐに、この信仰による歩みを始めましょう。神様をお喜ばせし、その信仰に応えてくださる神様の御業を見させて頂きましょう。それは、神と共に歩む人生です。そのように歩んでいる中で、主イエス様が空中まで迎えに来られ天に引き上げてくださるならば、これこそが私たちにとって最も幸いな人生です。エノクの歩みは私たちの模範です。私たちもまた、信仰によって歩む者たちでありましょう。

2018年01月07日 ヨハネの福音書6章1節~14節より

 イエス様は、「男だけで五千人(10 節)」もいた群衆の空腹を、少年が差し出したわずか5つのパンと2匹の魚を用いて満たされました。これは、イエス様が彼らを「羊飼いのいない羊の群れのようであったので…彼らを深くあわれ(ルカ6:34)」まれ、ご自身から始められた働きでした。しかし同時にこの御業は、弟子たちの訓練のためでもありました。
この働きは、弟子たちの目にはどう見ても不可能に見えたことでしょう。しかし、イエス様が天に上られた後に、弟子たちにはもっと大きな働き、すなわち「「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝え(マルコ16:15)」る働きが与えられようとしていました。イエス様は、弟子たちが将来、目で見えないイエス様に頼ってその働きをなせるように、まだ共にいるこの時に、彼らの信仰を訓練しようとしておられたのです。
そして、この働きは教会、つまり私たちクリスチャン全員に与えられています。ですから、私たちも弟子たちの失敗、また少年の純粋な信仰から大切な教訓を得ることができます。
イエス様から「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。(6 節)」と言われたピリポは、現状を手早く計算し「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。(7 節)」言い換えれば、とても無理ですと答えました。アンデレも手元にあるわずかな食料に目を留め、「こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。(9節)」と言いました。ピリポは現状、アンデレは持ち物を見て、それぞれ不可能だと結論付けたのです。彼らは、目の前にいるイエス様を計算に入れることができなかったのです。
この二人はこれまで何度もイエス様の奇蹟をその目で見ていました。しかし、その彼らでさえ、信仰によってイエス様に目を向けることができませんでした。しかし、実に私たちも彼らと同じ失敗をしばしば犯します。すなわち、イエス様が全知全能の神様であられること知ってはいても、自分の現状や捧げもの小ささに目を奪われることが多いのです。こんな私が何の役に立つのだろう、自分のような者が少しぐらい捧げても何の意味もないのではと、つい考えてしまうことが皆様にもないでしょうか。
ですから私たちは、この少年の純粋な信仰を見習わなければなりません。少年がささげた質素でわずかなお弁当がイエス様によって大いに用いられたこの出来事は、私たちに強い励ましを与えないでしょうか。「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。(9 節)」と言ったアンデレに対し、少年の信仰は素直で単純でした。それは彼がイエス様を信頼していたからです。そしてイエス様は、この少年の捧げものを用いられました。「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。『一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。』そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。(12,13 節)」少年の捧げものは人々を満腹にしたばかりか、最後までイエス様に大切に取り扱われ、一切無駄にはされませんでした。
世界宣教の働きの中で、ひとり一人のはたらきや捧げものは、ごくわずかかも知れません。しかし、信仰をもってイエス様にお捧げするなら、イエス様はたましいの救いのため、御父のご栄光のために、必ず用いて下さいます。私たちはこのことを堅く信じましょう。そして、このお方に増々自分自身を捧げる者たちでありましょう。

2017年12月31日 ローマ人への手紙6章1節~11節より

 クリスチャンの歩みの中で、罪の力は大きな問題となります。私たちは、残念ながら今でも肉があります。ですから、罪を犯したくないのに犯してしまうことがあるのです。そして私たちが罪を犯すなら、神様との交わりが途絶えてしまいます。そして、私たちの心も咎め、次第に喜びも力も失ってしまいます。ですから私たちは、この罪の力に対する勝利の秘訣を知らなければ、歩んでいくことができません。そこで私たちが知らなければならないのが、この「罪に対して死んだ」という真理です。
 「罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか(2節)」とあるように、罪の中に生きていた私たちは、もう死んでしまっています。ここに書かれてあるのは、私たちの立場に関する真理です。すなわち、今神様は私たちをどう見ておられるのか、神様は私たちをどのような者としてくださったのか、ということが語られています。これは、私たちが、経験や感覚によって知ることができるものではありません。しかし、例え私たちが感じられなくても、神様がそうであると語っておられる以上、これが現実です。私たちは、聖書を神のみことばと信じ、そこに書かれてあることが全て真理であるとして、受け入れなければなりません。神様が私たちは罪に対して死んでおり、「もはや罪の奴隷では無く(6節)」なったと語っておられます。アダムが罪を犯して以来、全ての人は罪の支配下にありました。私たちも、以前は罪の奴隷として、罪を犯して生きることしかできない、哀れな罪人であったのです。しかし、私たちはその罪との主従関係においては死んでしまったのです。
 ではどのようにして、私たちは罪に対して死んだのでしょう。それは、キリストと一つとされることによってです。イエス様は、処女マリアの胎を通して、私たちと同じアダムの子孫としてお生まれになられました。罪はありませんでしたが、私たちと同じ肉体、私たちと同じ立場をとり、罪という主人に対して死んでくださったのです。クリスチャンである私たちは、そのキリストと一つとされています。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けた(3節)」「私たちは…キリストとともに葬られたのです(4節)」「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。(6節)」と、繰り返し語られている通りです。私たちはキリストに結び合わされ、神様は今、私たちをキリストの内にあると見ておられます。ですから私たちは、キリストと共に、罪との主従関係においては死んでしまっています。これは、イエス様を信じた者から罪がなくなる、罪を犯すことがもうない、という意味ではありません。依然としてその可能性はありますが、立場においてはもう罪の奴隷ではなくなってしまっているのです。
 そして、感謝すべきかな、私たちはキリストの復活とも結び合わせられています。「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。(5節)」「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。(8節)」とある通りです。これが、神様の観点から見た私たちの姿です。神様は私たちを、キリストの内にあるものとして見ておられます。そして、今私たちは、その復活されたキリストのいのちの力によって歩むという、幸いな生涯を頂いているのです。
 神様が求めておられることは、私たちがこの真理を日々覚えて歩むことです。「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。(11節)」
私たちがこの真理を信じ、神様が与えてくださった立場を認め、日々勘定して歩み続けるならば、キリストが私たちを助けてくださいます。私たちに必要なのは、ただ信じることです。「どうかこの立場にふさわしく歩ませてください。」とキリストに日々より頼むならば、キリストが私たちの力となってくださいます。私たちはこの主の助けによってのみ、罪に対して勝利し、神のご栄光のために生きることができるのです。どうか、私たち皆が、信仰によって、勝利と喜びの中を歩むものでありますように。

2017年12月24日 マタイの福音書15章21節~28節より

 この箇所に登場するカナン人の女性は、異邦人であり名も無き女性でした。しかしイエス様は彼女を「あなたの信仰はりっぱです(28 節)」と評価されました。私たちは、他の兄姉の歩みと自分を比べて、落ち込むことが多いです。しかし、イエス様が賞賛された彼女の信仰にこそ、私たちは目を留めるべきです。では、イエス様が喜ばれたのは、どのような信仰なのでしょう。
 彼女は、イエス様のあわれみを求めて、何度も叫び続けました。(22節)この態度が良かったのでしょうか。そうではありません。そのような行為は、偶像礼拝者でも行います。もちろん、私たちが信仰によって、神様に求め続けること、また熱心にお仕えすることは決して間違いではありません。しかし、一生懸命何かを行うことが信仰ではないのです。
 イエス様は彼女に、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません(24 節)」「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです(26 節)」すなわち、「異邦人であるあなたが、メシアである私にあわれみを求めることは、不相応です」と、二度彼女に語られました。もし彼女がプライドの高い女性であったなら、イエス様の言葉を聞いて、怒って帰ってしまったかも知れません。しかし彼女は「主よ、そのとおりです」とイエス様のみことばを肯定し、「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます(27 節)」と、主の御前にへりくだったうえで、なおイエス様に憐れみを求めました。その時イエス様は、「あなたの信仰はりっぱです」と語られました。イエス様が喜ばれたのは、彼女のこのへりくだった態度であったのです。そして、聖書はこの箇所を通して、私たちにへりくだることの大切さを教えています。
 かつて罪と裁きのメッセージを聞かされた私たちも、「そのとおりです」と神様の御前にへりくだらされ、イエス様を救い主として信じ受け入れました。イエス様を信じることは、ひなが雌鳥の翼の下に集められることにも例えられます(23:37)。ひなが、身を低くし頭を垂れて、雌鳥の翼の下にもぐり込むようにして、私たちも救いを頂きました。ですから、私たちにとってへりくだることは、難しいことではないはずです。むしろ私たちの信仰は、へりくだるところからスタートしたのです。またルツ記を見るなら、ボアズはルツが身をかがめ落ち穂を拾う姿を見て、「あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。(ルツ2:12)」と言いました。ここにも神様が、ご自身のあわれみを謙遜な態度で求める者を、喜ばれることが表されています。
 へりくだることは、だれもができる信仰の表現です。その者を神様は喜ばれ、必ず豊かに報い、大いに祝福してくださいます。私たちも、彼女たちを見習い、ますます身を低くして主により頼むものでありましょう。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(Ⅰペテロ5:6)」

2017年12月17日 ローマ人への手紙5章1節~5節より

 ここで使徒パウロは、自分が喜んでいることを繰り返し強調しています。しかし、彼の人生は、多くの苦しみがあり、死に直面することもしばしばでした。(コリント人への手紙第二11章23節~28節)しかもそれらは、彼が神様に忠実に仕えるがゆえに味わった苦しみです。しかし彼はその中で、神様を疑うことも、文句を言うこともせず、常に喜び続けることができたのです。私たちもこの箇所から、彼がいかなる状況でも喜ぶことができた、素晴らしい神様の恵みについて学ぶ必要があります。なぜなら私たちの歩みの中でも、病、迫害、困窮などの、患難が訪れることがしばしばあるからです。
 まず、私たちは神との平和を持っています (2節)。かつて私たちは一方的に神様に敵対していました。ですから苦難に遭うとき、それが神様からの裁きではないのかと恐れなければなりませんでしたが、今は違います。私たちは神様の敵ではなく、神が私たちの味方である(8:31)からです。そして、神様はその私たちをいま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れ(5:2)て下さいました。今神様は私たちを、恵みをもって取り扱っておられ、その恵みに基づいて、素晴らしいご計画をなされています。すなわち、「私たちを御子イエス様と似た者にする」という栄光を与えようとしておられます。(ローマ8:28~30)。私たちの身体は、空中再臨の時にイエス様に似せられた、栄光の身体に変えられます。しかし神様は、私たちが地上にいる今も、本来イエス様とは全く異なる性質しか持っていない私たちを、イエス様と似た品性に与らせようと導いておられます。神様は、全てのことをこの益に向けて動かしておられます。これが神様の恵みの御業であるのです。そしてパウロは、この神の栄光を望んで大いに喜んでい(2節)ました。神様の恵みをいつも覚えて、前提として歩んでいたので、喜び続けることができたのです。私たちも同じです。
 私たちも、患難さえも神様のこのご計画のうちであると信じ、喜ぶことができます(5:3)。そのご目的は私たちの忍耐力を養うためです(3節)。私たちは患難に遭うとき祈りをもって神様に頼ります。そして、私たちの内にある肉的な弱さが練り整えられていくのです。あるクリスチャンは、問題があるとすぐに文句を言っていました。しかし、患難を通して忍耐力が養われ、以前のように文句を言わず、平安をもって神様に頼るようになりました。彼は主イエスと似た者へと変えられたのです。このように、患難の中で忍耐するクリスチャンは必ず、練られた品性(4節)が生み出され、主イエス様へと似せられます。そしてその中で、ますます神様に希望を置くものへと成長させられてゆきます。そして、この希望は失望に終わることがありません。(5節)なぜなら、御子をさえ惜しまずに与えてくださった神様の大きな愛が、今も私たちの心に注がれ続けているからです。私たちは神様の素晴らしい愛と恵みを覚え、常に喜びの内を歩ませていただきましょう。

2017年12月10日 レビ記1章1~9節より

 ここには、イスラエルの民の礼拝の規定が記されています。現在の私たちの礼拝とは無関係にも思える箇所ですが、ここから神様が求めておられる、私たちが礼拝で覚えるべきことがらについて知ることができます。
レビ記には様々ないけにえの規定が記されていますが、まず、これらのいけにえはイエス様を表す型であることを覚えましょう(ヘブル10:1-10)。そして神様が最初に示されたのは「全焼のいけにえ」でした。「これら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。(9節)」とあるように、このいけにえは、すべての部位が神様に献げられなければなりませんでした。それは「全焼のいけにえ」が、御父のご栄光のためにすべてを献げられた、イエス様の「献身」を表しているからです。そして、いけにえとなる動物の第一の条件は「家畜の中から(2節)」でした。家畜は野生動物とは違い、従順です。イエス様は、御父のご計画に喜んで従い、この世に来られ、また実に十字架の死にまでも従われた、誰よりも従順なお方です。第二の条件は「傷のない雄(3節)」であり、そのいけにえは、「皮をはぎ、いけにえを部分に切り分け(6節)」られます。イエス様の献身が外見のみならず、内面に至るまで完全であったことが表されています。イエス様は心から御父を愛され、喜んでご自身を御父に献げられたのです。そして、「これは、【主】へのなだめのかおりの火によるささげ物である。(9節)」とあるように、御父はイエス様の従順と献身を、甘く香しい香りとして、喜びをもって受け取られました。
 確かに、イエス様は罪人を愛され、私たちを永遠の地獄から救うために身代わりとなって十字架で死なれました。私たちは罪のために死んで下さったイエス様を覚え、心からの感謝と賛美をささげるべきです。これは決して忘れられてはならないことです。しかし、「罪のためのいけにえ」「罪過のためのいけにえ」となられたイエス様よりも、御父にとっては、「全焼のいけにえ」となられたイエス様こそが、第一の喜びなのです。
 イエス様が、神様の罪に対する怒りを全てお受けになったことにより、御父の義が表されました。また御子の血による贖いに基づき、信じるすべての者を救うことによって、神様の恵みの栄光が現されます。十字架によって、神様はご自身の愛を損なうことなく救いを拒む罪人を裁き、義を損なうことなくどんな罪人でも救うことが可能となりました。十字架によって、サタンの企みは完全に打ち砕かれ、御父のご栄光が完全に現されました。そして、これこそがイエス様の十字架の最大の目的でした。
 私たちはどのような礼拝を神様にささげているでしょう。自分の救いのためにだけ十字架を覚え、感謝をささげればそれでもう十分でしょうか。御父のご栄光のために喜んでご自身を献げ尽くされたイエス様が誉め称えられることこそが、神様が最も喜ばれる礼拝です。どうか、私たちのひとり一人がそのような礼拝をささげる者でありますように。

2017年12月03日 ローマ人への手紙1章16節~25節より

 神様は私たちに救いの福音を提示されるにあたって、まず私たち人間の罪に対してもっておられるご自身の怒りについて語られました。実に聖書の至るところに、人間の罪について書かれています。ある人が、聖書がどれだけ人間の罪について取り扱っているか数えようと考えました。しかし彼はすぐに、断念せざるを得ませんでした。それは、その数があまりにも多く、かえって罪について書かれていないところを探すほうが、難しいほどであったからです。それらの罪の中で、神様が第一に挙げておられるのは、『神を神としてあがめず、感謝もせず』(21節)とあるように、『神様を無視し、自分勝手に生きること』です。しかも『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(20節)とあるように、全ての人は神様について認めているにも関わらず、このことを行っているのです。神様については、『被造物によって知られ』とあるように、神様が造られたものによって、十分に知ることができます。例えば、満天の星空や灼熱の太陽、それらの天体が狂うことのないリズムで動いていること、そしてそれらを含む地球上の全ての条件が、私たち人間をはじめとした全ての生物が生きていく上で、最適な環境となるよう完全に整っています。それを見ても、造り主なる神様を、誰もが認めざるを得ません。同時に、私たちを生かすために、全てが整えられていることを見るならば、神様が私たち人間を、深く愛しておられることも分かります。それにも関わらず、神様を無視し生きることは罪であり、好き勝手に生きている私たちが死後神様の前で裁かれることは当然のことであるのです。『そのようなことを行えば、死罪に当たる』(32節)『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』(へブル9:27)と聖書にも書かれてあります。その裁きとは永遠の地獄です。私たちは神様に背を向け行き続ける人生が罪であり、完全に間違っていることを率直に認め、神様の方に心の向きを変える必要があります。しかし、その私たちを神様がすぐに裁かず生かしておられるのは、私たちを永遠の地獄から救いたいと願っておられるからです。そして神様は私たちを救うために、最愛の御子イエス様を私たちにお与えになりました。そして、全く罪のないイエス様を十字架につけ、私たちが地獄で永遠に受けるべき罪の裁きを、そのイエス様に下してくださいました。これが神様の示された愛です。そして、イエス様もまた、私たちへの愛ゆえに十字架でその罪の罰を身代わりに受け、死なれました。そして神様は、イエス様を死後三日目によみがえらせることで、このお方が真の神の御子、救い主であることを明確に示されました。私たちがこのイエス様を信じるなら、全ての罪がゆるされ天国へ行くことができます。ですから、まだイエス様を信じていない人がおられましたら、ぜひイエス様を救い主として信じ受け入れる方であってください。神様からのご愛を受け取り、死後に地獄ではなく、天国へ行く方となってください。

2017年11月26日 テモテへの手紙第二1章1~14節より

 この書簡は、使徒パウロが伝道者テモテに宛てて書いた最後の手紙です(1,2節)。パウロは獄中にあっても死を恐れず、テモテのために祈り、彼を励まそうとしました(3-5節)。しかし、一方のテモテはこのとき臆病になり落胆していたのです。彼は与えられた賜物を生かし、神様に十分お仕えできていませんでした(6,7節)。彼はなぜそのような状態に陥っていたのでしょう。原因のひとつに、ローマ帝国の迫害に対する彼自身の恐れがあげられます。いつか自分も捕らえられ殺される、彼はそう考えていたのでしょう。また、教会内部にも原因がありました。パウロを批判する偽教師たちの悪影響を受け、次々と多くの者がパウロ(聖書の教え)から離れて行ってしまっていたのです(15節)。さらに、テモテにとってパウロは最も尊敬すべき使徒でした。これまで福音宣教のため帝国中を共に旅し、数々の困難と祝福を分かち合って来た最も愛する師を、彼は今まさに失おうとしていたのです。テモテが置かれた状況は、どれも彼を落胆させるのに十分なものばかりでした。
 さて、様々な試練をくぐり抜けてきたテモテがこうなってしまうなら、当然、私たちも彼のように証しや伝道の力を失う危険があります。未信者からの反対や攻撃を受けて辛い目に遭ったり、熱心に教会に集っていた人が突然姿を消したり、尊敬し、頼りにしていたはずの牧師先生や兄姉と別の集まりに集う必要が生じたり、テモテの状態は決して人ごとではありません。では、パウロはこのテモテを、すなわち、神様はパウロを通してこのテモテを、どう励まされたのでしょう。
 結論から言えば、私たちは常に神様の御言葉に目を留め、それに基づいて歩む必要があるのです。テモテには「純粋な信仰(裏表のない信仰)(5節)」が宿っていました。「幼いころから聖書に親しんで(3:15)」来た彼は、状況ではなくパウロからの手紙(御言葉)に目を留めるべきでした。「神は私たちを救い、…聖なる招きをもって召してくださいました…私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです(9節)。」「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。(10節)」救われるよう選ばれていた私たちに与えられた恵みは、イエス様の十字架と復活によって実現しました。「私は、この福音のために、…任命された(11節)。」神様は各々に賜物と働きとお与えになり、福音伝道のために、ご自身の栄光のために私たちを任命されました。「…苦しみにも会っています。…恥とは思っていません。…信じて来た方をよく知っており、…その方が私に任されたものを、…守ってくださることができると確信しているからです(12節)。」私たちを任命された神様が賜物と働きを与えて下さり、最後の最後までその神様ご自身が責任をもって、私たちを守り導き通されるのです。さらに私たちは自分の力ではなく、聖霊の力によって歩む者である(14節)、これが神様の約束であり、パウロの確信でした。パウロはこうして愛するテモテを励ましたのです。
 私たちも同じ御言葉から励ましを得たいと思います。御言葉ではなく状況に目を留めるクリスチャンは、喜びや霊的な力を失ってしまいます。私たちはまず聖書の御言葉にしっかり目を留める者でありましょう。そして御言葉を信じましょう。そして聖霊がお与え下さる力によって、どんな状況にあっても、力強く歩ませていただく者でありましょう。

2017年11月12日 ルカの福音書16章19~31節より

 この箇所には、筆舌に尽くしがたい恐ろしい出来事、すなわちある金持ちが死後に永遠の地獄の炎の中でもだえ苦しむ様子が記されてあります(22-24節)。イエス様はこの出来事を、たとえ話としてではなく現実の話として、人々にお語りになられました。
 老若男女を問わず、人々は聖書の話に真剣になかなか耳を傾けようとしません。この金持ちも現代の多くの人と同様、自分が生きている間に聖書を読んだり、聖書の話を聞くチャンスが与えられていたのです。それにも関わらず彼は聖書を軽んじ、警告を無視した結果、罪に対する刑罰の場である地獄に投げ込まれました。彼は地獄の中で、まだ生きている兄弟たちを案じ、「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように」、天国にいるラザロを使者として父の家に送って欲しいと、アブラハムに願いました(27-28節)。それに対しアブラハムは「彼らには、モーセと預言者(聖書)があります。その言うことを聞くべきです。(29節)と答えましたが、そこで彼は「いいえ、父アブラハム。」と言っています(30節) 。つまり彼は聖書では不十分だと言っているのです。聖書は権威ある神の御言葉ではないという考えは、彼が地獄に行っても変わりませんでした。
 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」この聖書の警告を人間は絶対に無視すべきではありません。この金持ちは少なくとも犯罪者ではなかったでしょう。しかし、ユダヤ人であった彼は創造主なるまことの神様を知りながら、神様を無視し、自分の欲望に従って生きていました。聖書で罪は「無法」を意味します。神様の権威を認めず、その支配を拒み、自分の欲望を優先する生き方、これこそが無法です。人は嘘をつき、人を憎みます。表向きはいくら良い人間を演じていても、神様は人の心の中まですべてご存知です。この神様の御前に、私には罪がありませんと言える人間は一人もいません。神様は聖なる、義なる御方ですから、罪を憎まれ必ず罪を裁かれます。永遠の炎が燃える地獄は、神様が罪を裁かれる恐ろしい場所であり、神様の恵みや憐れみから完全に断ち切られた、まさに一滴の水すらもらえない苦しみの場所です(24節)。もしみなさまが、このまま神様を無視し、罪の中を歩み続けるなら、金持ち同様、恐るべき永遠を確実に自分の身に招くことになってしまいます。ですから、この地獄からの救いを真剣に求めていただきたいのです。
 一方、ラザロは天国に入れてもらえました。もちろん彼も罪人でした。しかし彼は聖書の警告に耳を傾け、神様が用意された救い主を信じたのです。この出来事を語られたイエス・キリストこそ、その救い主です。神様は私たちを愛するがゆえに、私たちを地獄から救うために、イエス様を救い主としてこの世に遣わされました。イエス様は私たちの罪を背負い、私たちに代わって十字架上で、罪の刑罰をその身にお受けくださったのです。そして、聖書の預言通り、死後三日目の朝に死の力を打ち破ってよみがえられ、ご自身が神であられ、まことの救い主であられることを公に証しされました。誰でも、イエス様を自分の救い主、まことの神様として信じ、心にお迎えするなら、死後の裁きである永遠の地獄から救われます。すなわち、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、ラザロと同じ天国で神様と共に永遠に生きる者とされるのです。死はいつ訪れるかわかりません。どうか聖書のメッセージを真剣に受け取られ、一刻も早くイエス様を救い主として信じ、救いを得る方となってくださいますよう、心からお勧めいたします。

2017年11月05日 ガラテヤ人への手紙2章20節より

 これは、クリスチャンの歩みの土台となるみことばです。私たちは「キリストとともに十字架につけられました。」という経験を実際にしたことはありません。しかし、神様は私たちをキリストとともに十字架につけられた者としてみておられます。そして十字架につけられたのは、私たちがイエス様を信じる前に持っていた人間性です。しかし、この真理はただ知っていればよいのではなく、実際に歩みに生かしてこそ意味のある真理です。
 かつて私たちが未信者であったとき、全てにおいて神様を無視していました。ですから、生きる目的も分からず、死後のことも知らず、自分の欲望を満たすことを第一として歩んでいました。その結末は罪を犯し続けた報いである永遠の地獄でした。多くの未信者が同じ歩みを今もしていますが、私たちはその歩みの誤りに気づき、悔い改めて神様を自分の人生の基礎として歩み始めました。ですから、私たちはクリスチャンとしてふさわしく、御言葉に従って歩もうとします。例えば、お祈りをしたり、聖書を読み、みことばを学んだり、礼拝を捧げたりしようと考えます。あるいは私たちは神様の御栄光をあらわすために、教会内で様々の奉仕をするでしょう。また、誰かに伝道しようと考えます。
 しかし、その願いに反して、神様の忌み嫌われる罪を犯したり、神様から与えられた奉仕で失敗してしまい落胆することがあるのではないでしょうか。誰かに伝道しようとしたけれど、うまく話せなかった。また、せっかくの機会であったにもかかわらずそもそも恐れてしまって伝道できなかったという経験もないでしょうか。そのような時私たちは失望してしまうこともあるでしょう。
 この真理は私たちをその失望や落胆から救い出すことができます。神様から忌み嫌われる私たちの罪深い性質や、失敗しやすい弱さをもつ人間性は、キリストとともに十字架につけられ、死んだものとされているからです。そして、ただ死んで終わりではなく、キリストとともに、神様のために生きるものとしてよみがえらされているのです。ですから、「いま私が肉にあって生きているのは…神の御子を信じる信仰によっているのです。」とあるように、このキリストに頼り、信じ続けるなら歩むために必要な力が必ず与えられ御心にかなった歩みをし続けることができます。
 神様に仕える上で私たちが何者であるかは問題ではありません。あくまで、キリストがどのような方であられるかが大切なのです。ですから、私たちはたとい失敗しても、全能の神様であられるキリストの力によりすがるなら落胆、失望から救われ、確信をもって神様に仕えることができます。また、私たちにとって誘惑となるのは、自分の力の無さを言い訳にして、神様に仕えることをためらうことです。しかし、この真理はその言い訳からも私たちを救ってくれます。たとい奉仕が自分の力では無理であると思えても、自分の力の源である古い性質が、すでに十字架につけられ死んだものとされていることに目を留めるなら、言い訳してしり込みする理由はなくなります。そして、キリストに頼り、信じ続けるならどんな奉仕もやり遂げることができます。神の御子を信じる信仰は私たちを地獄から救うだけでなく、クリスチャンとしての実際的な歩みの根拠となるものです。ですから、知って満足して終わることなく、キリストと一体とされているという真理をいつも覚え続け、常にキリストによりすがり歩む一人ひとりでありましょう。

2017年10月29日 サムエル記第一1章1~20節より

 今日はハンナの信仰から学びましょう。彼女には子どもがありませんでした。子どもが与えられるということは、当時、イスラエル人に対する神様の祝福です。ですから、信仰者であるハンナは大変つらかったはずです。しかも、彼女の夫のエルカナのもうひとりの妻「ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった(2 節)」ため、彼女は神様からの祝福を得られないのは自分のせいであると、日頃から思い悩んでいたでしょう。彼女は自分の力に頼ることはできませんでした。しかも彼女は本来喜ぶことができるはずの礼拝の時に、悲しまなければなりませんでした。息子や娘が多くいたペニンナには、夫エルカナから神様を礼拝するための多くの受ける分(捧げもの)が与えられましたが、子どものいないハンナにとって、それは実に辛いことでした。
 それに加え、ペニンナのハンナに対する振る舞いは、彼女をより悲しませ苛立たせたのです(6 節)。また夫のエルカナもハンナの心中を十分に理解してはいませんでした。ですから彼女は、身近にいる人たちにも頼ることができませんでした。
 さらに、主の宮で心を注いで泣きながら祈るハンナを見た祭司エリは、彼女が酔っているのではと注意を与えました(13 節)。本来神様にお仕えするはずの祭司にも、そのような不信仰な風潮が漂うイスラエルの国の中にも、彼女の信仰を励ましたり慰めたりするものは一切見当たりません。すなわち、ハンナは自分や周囲の者には全く頼ることができず、それらでは絶対に解決できない状況下におかれていたのです。
 私たちも信仰をもってこの世を歩む時、ハンナと同じような立場におかれることがあります。教会内外における人間関係、健康上の問題、未信者からの攻撃などで苦しみ嘆くことがあるでしょう。そして、自分や周囲の人や環境など、どこを見ても頼れるものがなく、全く望みが絶たれてしまったかのように感じる瞬間があるかも知れません。
 しかし、彼女は絶望したのでしょうか。そうではありません。ハンナは全知全能の神様に目を向け、神様だけがこの状況を解決することがお出来になると信じて祈り求めました(11 節)。彼女の祈りは神様との取引ではありません。彼女はもし自分に子どもが与えられたなら、それは神様の御力によるものでしかないので、与えられた子どもの一生を神様にお献げするのが当然であると、自分の信仰を祈りによって表明したのです。
 なぜ神様の子どもである私たちが、困難や苦難の中におかれるのでしょうか?それは、神様がそれらを通して、私たちを神様のみに拠り頼む者とし、さらに私たちが神様に感謝と賛美をささげ、それによって神様のご栄光がいっそう現されるために、神様はすべてのことを益に向けて動かしておられるのです。「【主】は彼女を心に留められた(19 節)」とあるように、彼女の祈りは聞かれ、念願の子ども、サムエルが与えられました。彼女はこの事を通して神様が全知全能の御方であられる事を、まさに経験を通して知ったのです。
 私たちもぜひハンナを見倣う者でありたいと願います。なぜなら、私たちに解決できない状況であっても、神様に不可能などないからです。人間的希望が全く無いからこそ、私たちは神様にお頼りすることができます。また神様を頼って解決が得られたからこそ、神様にのみ栄光が帰せられます。いま、私たちが問題の中にあるというなら、ぜひこの神様を信頼して、神様に祈り求め、神様に解決していただく者でありましょう。

2017年10月22日 創世記22章1節~19節より

 今週はこの箇所から、試練について学びたいと思います。神様は信仰者をしばしば試練に遭わせられます。その意味について信仰者アブラハムに与えられた試練と彼の行動を通して学んで行きましょう。彼の試練とは『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをささげなさい。』(2節)と神様から命じられたことです。これは彼にとって理解しがたいものでした。愛するわが子を全焼のいけにえとしてささげるということは、火で焼き尽くすことを意味しています。どんな家庭の親でも子どもをそのような目に合わせたくはありません。しかも、アブラハムにとってイサクは百歳のとき与えられた年寄り子であり、特別に愛していた子どもでした。また神様は、イサクの子孫が『空の星、海辺の砂のようにふえる』と祝福を約束されました。ですので人間的に考えれば、イサクを殺せば神様の祝福も果たされなくなるように思える状況であり、この命令は神様の約束に矛盾しているように思えるものでありました。
 しかし、アブラハムは躊躇せず、文句も言わず、すぐに従いました。アブラハムは「たといイサクが死んでも必ずよみがえらせてくださる。」とすら考えていました。彼は神様を単純に信頼していたからです。この考えは未信者には理解できません。盲目的であると非難することでしょう。しかし、彼は神様から目を離さずに従い続けました。
 その結果、アブラハムが心から神様をおそれていることが明らかにされました。神様は彼の信仰をお喜びになり、御自分にかけてアブラハムの祝福を約束されました。「自分にかけて誓う」というのは、約束を破るなら死ぬことを意味しています。永遠の存在である神様が死なれるはずはありませんから、この約束は必ず成就すると神様が確約されたということです。
 このようにして、信仰者に与えられる試練は、その人の信仰が本物であることを証明する良い機会になります。ですから、私たちも状況が悪くなったり、自分の弱さに気づかされるなどの試練にあわせられるなら、自分の信仰が試されていることに目を留め続ける者でありましょう。神様は私たちを必ず守ってくださいます。『わたしは決してあなたを忘れず、またあなたを捨てない。』(ヘブル13:6)、『彼(イエス様)に信頼する者は失望させられることはない。』(ローマ9:33)と書かれている通りです。病になったり、主に従い困難に遭わせられても、「主に見捨てられた。」と失望する必要はありません。私たちがイエス様に信頼して歩んで、後悔することは決してありません。必ず主の栄光となるように用いてくださいます。仮に神様が私たちとの約束を破られるというなら、そもそも私たちにイエス様が与えられることもなかったはずです。神様は私たちのためにイエス様を犠牲にされるほど、私たちを愛しておられます。ですから私たちは、どのような試練にあわせられても、ただ単純に神様を信頼する者でありましょう。

2017年10月15日 マタイの福音書14章22~33節より

 この時ペテロは、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。(28 節)」と願いました。彼らはこの時、真夜中の湖の上で、向かい風と波に悩まされていました。そこにイエス様が波の上を歩いて近づかれ、「しっかりしなさい。わたしだ(エゴエイミ)。恐れることはない(27 節)」と語られて、彼らを勇気づけられました。ペテロは困難の中にあって、イエス様が助けに来てくださったので嬉しかったのでしょう。彼は愛するイエス様の御そばに近づいて、ともに歩みたいと願い、彼は水の上を歩くという奇蹟を味わいました。
 私たちは、ペテロ以上の困難な状況からイエス様によって救い出されました。生来罪人である私たちにとって、死後に待ち受けている永遠の地獄での裁きから免れることは不可能でした。しかし、神の御子であられるイエス様が、私たちの身代わりに十字架で死なれ、3日目の朝に死の力を打ち破ってよみがえられました。私たちはこのイエス様を信じて救われたのです。ですから健全な信仰者であるならば、ペテロと同じようにイエス様と共に歩みたいと願います。しかしペテロが自分の力では水の上を歩くことができないように、私たちも自分の力では決してイエス様とともに歩めません。イエス様が力を与えてくださると信じる信仰が必要なのです。
 さて、この時イエス様はペテロに「来なさい(29 節)」とだけ語られ、その具体的な方法や、保証については一切説明なさいませんでした。しかしペテロは水の上に自分の足を踏み出しました。彼はイエス様が「来なさい」と命じられたのだから、必ず水の上を歩けると信じました。つまり信仰を働かせたのです。
 私たちも伝道をするときや、御言葉に従って歩むときに、本当にこんなことができるだろうか、こんなことをして問題が起こらないだろうか、と不安や心配が生じます。しかし、そのような時こそ、私たちも信仰を働かせるべきです。ペテロと同様、イエス様が自分に力をお与えになり、必ず最後まで導いて下さるのだと信じて、足を前に踏み出せば良いのです。聖書の中にある様々な勧めに従うときに必要なのは、神様からの細かな説明や詳しい方法でなく、イエス様に対する純粋な信仰です。私たちに信仰を求められる神様は、私たちの信仰を喜ばれ、さらにその信仰に必ず報いて下さる御方です。さらに、信仰によって歩むクリスチャンの姿は、周囲の兄弟姉妹にも良い影響を及ぼします(33 節)。
 また、イエス様を信頼して歩むことは、常に継続しなければなりません。水の上を歩いてイエス様のもとに向かっていたペテロですが、途中で目をイエス様から離した途端、水の中に沈みかけてしまいました(30 節)。私たちも信仰の目でイエス様を見ずに、肉の目で自分が置かれている状況を見るなら、その途端前進できなくなります。しかし、「主よ。助けてください(30 節)」と叫んだペテロを、イエス様は即座に助けて下さいました。弱い私たちであっても、イエス様に助けを求めさえすれば、イエス様は直ちに御手を伸ばして助けて下さるのです。
 ですから、私たちはこれからも熱心にイエス様だけを信頼し続ける者でありましょう。また、決して状況に目を奪われず、いつもイエス様に目を向ける者でありましょう。イエス様の御力と導きによって、天に入るその瞬間まで、信仰の道を歩ませていただく者でありましょう。

2017年10月08日 レビ記3章1節~5節より

 ここに、旧約時代のイスラエルの民が神様に捧げるいけにえについて書かれています。神様は様々な種類のいけにえを通して、後に行われるイエス様の十字架の御業のもつ様々な意味を予表されました。例えば、1章で語られる全焼のいけにえは、父なる神様の栄光を求められたイエス様の全き献身を表しています。
 今回は和解のいけにえが表すイエス様の十字架の御業の意味について学びましょう。イエス様が十字架にかかられた理由としてよく挙げられるのは私たちの罪を赦し、地獄から救うためであるということです。しかし、イエス様の十字架の意味は決してそれだけではありません。このことを知ることはとても大切です。それは、イエス様を信じ救われた人の中に、「自分は地獄から救われたからもう十分だ。」と満足する人がいるからです。しかしそれは間違っています。それは、この和解のいけにえが示しているように、イエス様が死なれたのが、私たちが神様と親しい交わりを持ち、喜ぶことができるようにするためでもあったからです。私たちは神様によって召されている、すなわち呼び出されていると聖書には書かれています。呼び出されるからには、目的があるはずです。そして神様が私たちを呼び出された理由の一つに、神様との親しい交わりをもつことがあるのです。
 さて、神様が私たちと持とうとしておられる交わりは非常に素晴らしいものです。和解のいけにえで捧げられる脂肪は神様にとって喜ばしい食物であり、すべて捧げなければなりませんでしたが、同時に人間も脂肪以外の部分を食べることが許されていました。つまり私たちは、神様と同じものを共有し、ともに喜ぶことができるのです。これは感謝なことです。放蕩息子が父親から罪を赦されただけでなく、同じ食卓で同じ肥えた子牛を食するようふるまわれた場面が、この感謝な状況を良く表しています。また、サムエル記に出てくるメフィボシェテについても同じことが言えます。彼は、ダビデ王の敵の子孫であったにも関わらず、ダビデによって家族として受け入れられ、同じ食卓で食することが許されたからです。
 私たちも神様によって罪が赦されただけでなく、神様の子どもとされ、家族のように親しく交わることができる特権が与えられました。そして、イエス様と言う最上の贈り物を共に喜び楽しもうと呼びかけておられるのです。私たちは神様が喜ばれる御方と同じ御方を喜ぶことが許されているのです。それを断ることは言葉にならないほどの大きな損失であり、神様を悲しませる行為です。そうではなく、心から感謝し受け取るものでありましょう。メフィボシェテが足萎えであるがゆえに、ダビデと交わるためにダビデのいるエルサレムまで引っ越したように、私たちも犠牲を払ってでも神様との親しい交わりを阻害するものを取り除くものでありましょう。その報いは代償を払って余りある大きな喜びです。ぜひ神様との親しい交わりを求める一人ひとりでありましょう。

2017年10月01日 詩篇85篇9,10節 ヨハネの福音書1章16.17節より

 イエス様は何のために十字架に架かられ、死なれたのでしょうか?私たちは「人間を救うため。」と考えがちです。この答えは決して間違いではありませんが、十分とは言えません。なぜなら、イエス様は父なる神様のご栄光を現すためにも、十字架で死なれ、三日目の朝に復活されたからです。もし私たちがこのことについて知らないならば、私たちはイエス様と父なる神様を十分にほめたたえることはできません。ですから、これについてよく知り、ますます神様のすばらしさを知って神様をほめたたえる者となりましょう。
 この箇所に出てくる「恵みとまこと」、「義と平和」とは、いずれも父なる神様のご性質を表す言葉です。父なる神様は罪を憎まれ必ずお裁きになる、真実で義なる御方であられ、それと同時に愛と平和に満ちた恵み深い御方でもあられます。この2つのご性質はどちらも素晴らしいものです。ところが、悪魔はこの神様のご性質を逆手にとり、神様のご栄光に傷をつけようと企みました。それで悪魔はエデンの園でアダムとエバを誘惑し、二人に罪を犯させたのです。神様は義なるご性質に基づいて、人間を裁かなければなりません。恵み深い神様であっても、少しでも罪を容認するならば、神様のまことは損なわれてしまいます。しかしその一方で、罪を犯した人間を裁くだけでは、神様の愛や恵みは損なわれ、平和は保たれません。このように悪魔は神様をそしる機会を手に入れようとしたのです。
 しかし、イエス様は、その十字架の死と復活によって、父なる神様の「恵みとまこと」を矛盾することなく、完全に実現されました(ヨハネ1:16-17)。父なる神様は罪のない最愛の御子を、私たちの身代わりとして十字架につけ、本来私たち罪人が受けるべきであった罪への怒り、呪い、裁きを容赦なくこの御子に下されました。十字架は神様の義が完全に実現した場所です。さらに、父なる神様は十字架で死なれた御子を3日目の朝に死からよみがえらされました。誰でもこの御子を信じる者に、神様は完全な罪の赦しと永遠のいのちをお与えくださいます。十字架は神様の無限の恵みが完全に実現した場所でもあるのです。「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。(10節)」とあるように、一見相反する神様の二つのご性質が、イエス様の十字架によって完全に一致したのです。悪魔の策略、人間の失敗、イエス様の十字架と復活、これらはすべて神様の永遠のご計画であったのです。神様は人智をはるかに超えたなんと素晴らしい御方ではないでしょうか。
 このようにイエス様は父なる神様の御栄光を現わすために、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられました。ですから私たちはまず、このように父なる神様の御栄光のためにご自身を捨てられた御子をほめたたえるものでありましょう。また何よりも、この御子の十字架の御業によって現わされた神様の恵みとまことをますますほめたたえる者でありましょう。

2017年09月24日 エペソ人への手紙2章11節~18節より

 ここに「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。」(11節)とあります。私たちにとって、自分の出生がどのようなもので、かつてどのような状態にあったのかをよく理解し、覚えておくことはとても大切なことです。なぜならば、私たちは罪赦され、恐ろしい地獄から救われたその素晴らしい救いについて、期間がたつうちに慣れてしまい、喜べなくなってしまうことがありえるからです。
 では私たちの出生である異邦人とは何でしょうか。聖書では異邦人は、イスラエル人以外の民族を意味しています。ですから日本人である私たちは異邦人なのです。一方、イスラエル人とは神様によってともに歩む者として選ばれた民族です。神様はイスラエル人を愛しておられ、共にいたいと望まれていました。しかし、神様は義なる方でもあられるので、直接顔と顔を合わせて彼らと交わることができませんでした。それで、イスラエル人と神様との間には壁があったのです。例えば、シナイ山において臨在された神様は、モーセに次のように命じられました。『あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。』(出エジプト19章12節~13節)また、彼らと共に旅をされるためにつくられた幕屋に入れる者は限られており、特に幕屋の中にある至聖所には、大祭司が年に一回入る以外は誰も入れませんでした。神様とイスラエル人の間にはこうした境があり、それを破ったがゆえに殺された者もいました。これがイスラエル人と神様との関係でした。
 一方、異邦人と神様との関係は一言で言うと『全くの無関係』です。神様と完全な親しい交わりが持てていたとは言えないイスラエル人ですら、異邦人のことを軽蔑の意味をこめて『無割礼の者』と呼ぶほどでしたから、神様の御前においてはなおのこと軽蔑の対象であったといえます。実に私たちの人生は、神様を完全に排除したものであり、偽りの神である偶像を神と呼んで拝む罪深く、虚しいものでした。確かに異邦人は神様から遠く離れています。私たちはまさに「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(12節)
 しかし、神様はその異邦人である私たちをも選び出し、罪の無いキリストの流された血のみによって、罪を赦し地獄から救い出してくださいました。そして、ただ救われただけでなく、『父のみもと』に近づくことすらゆるされているのです。神様はイスラエル人だけでなく、異邦人である私たちをも愛し、みそばに置こうとしてくださったからです。かつてイスラエル人と神様との間に壁があったように、私たちと神様の間にも罪という壁がありました。しかし、その壁は取り払われ、いつでも神様と交わることができる立場が与えられています。具体的には祈ることによって神様に自分の心を明らかにし、願いを捧げることがゆるされています。また神様は聖書の御言葉を通して私たちに語ってくださいます。このすばらしい特権を覚え、感謝する者でありましょう。そして、神様に近づき続け、親しい交わりをもつ者でありましょう。

2017年09月17日 ヘブル人への手紙10章32節~39節より

 この手紙は、イエス様が復活され天に昇られてからおよそ30年後に、ユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らの中には、実際に自分の目でイエス様の御姿や奇蹟を目撃し、その御声を聞いた人もいたことでしょう。イエス様が拒まれ十字架に付けられたエルサレムに住んでいた彼らは、当然ユダヤ社会やローマ帝国から排斥され、激しい迫害を受けている最中でした。彼らはかつて、信仰を命がけで守り通していました(32-34節)。しかし、この時には「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。(35節)」と言われなければなりませんでした。彼らは迫害を逃れるために、またこの世からの誘惑のゆえに、信仰が揺らぎ退歩していたのでしょう。(ヘブル5:11-12参照)その原因は彼らがイエス様から目を離してしまったからです。
 私たち自身についても考えてみましょう。私たちも「今」でなく、「かつて」熱心であったということはないでしょうか。もし私たちのイエス様に対する愛や信仰が退歩しているとしたら、それはゆゆしき事態です。当時のユダヤ人クリスチャンのように、もしかしたら私たちの中に、以前にも増して過酷な霊的戦いの中におかれている人、激しい誘惑を受けている人がいるかも知れません。しかしもし、私たちの目がその状況に奪われ、イエス様から目を離してしまうなら、私たちに勝利はありません。
 「わたしの義人は信仰によって生きる。(38節)」とあるように、イエス様を信じる信仰によって救われた私たちは、イエス様を信じる(信頼する)信仰によって歩まなければなりません。つまり、たとえどのような困難や誘惑の中にあっても、イエス様が自分を必ず最後まで守り、導き通して下さることを信じ続ける必要があるのです。これまでの信仰生活を振り返るとき、イエス様は常に私たちを御言葉で励まし、私たちの信仰に勇気と力を与え、助け続けて下さったのではないでしょうか。イエス様は多くの場面で私たちを誘惑から守り、罪に対する勝利を与え続けて下さったのではないでしょうか。では、イエス様はかつての問題から私たちを守ることはおできになっても、今の問題において勝利を与えることがおできにならないのでしょうか。そんなことはありえません。私たちが自分の信仰歴や知識、経験、他人の意見などでなく、イエス様に御頼りして歩むならばイエス様は必ず私たちを助けてくださいます。イエス様を信頼する者がイエス様から捨てられ、裏切られ、失望させられることは絶対にありません。クリスチャンの失敗の多くの原因は、口ではイエス様に頼ると言いながら、実際の心や行動において、イエス様以外のものに頼り、自分の力で歩もうとしたからです。
 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(36節)」とあるように、イエス様に頼り続けるには忍耐が必要です。悪魔はイエス様に従って歩みたいと願うクリスチャンへの攻撃の手を緩めません。困難や誘惑も次々と降りかかってくるでしょう。しかし「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。(37節)」、すなわち、イエス様の空中再臨はもう近いのです。
 ですから、私たちは最後の最後まで忍耐いたしましょう。私たちの歩みの秘訣はイエス様に頼り続けることです。イエス様に対する信仰です。ぜひこのことを覚え、大きな報いを得ることができる人生を歩むものでありましょう。

2017年09月10日 使徒の働き17章22節~31節より

 アテネにはギリシャ神話に登場する愛の神、海の神などといった神と呼ばれる物で満ちていました。しかも何か漏れているのではないかと考えた人々が、『知られない神に』と記された祭壇まで作り出しました。これは今の日本の状況と非常に良く似ています。日本人も受験の神、交通安全の神などといった様々な神を作り出し、「八百万の神々」と呼んで拝んでいるからです。パウロはそのような偶像礼拝者たちに対して、本当の神様について次のように語り、それらが偽物であることを指摘しました。『この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みにはなりません。』(24節)
 多くの人が神様のご存在について聞かれた時、『いない。』とか『いるかどうか分からない。』などと答えますが、つくられたものを良く見れば、それをつくられた神様が存在されることはすぐに分かることです。それは、建物に空調設備がつけられていれば、建物やその中にある空調設備を作った人が分かることと同じです。そこで住む人が暑すぎず寒すぎず、快適にすごすことができるようにという知恵がそこにあるからです。建物や空調設備は目的にかなったよい構造を持っているからです。実にこの世界に存在するものも非常に良くできています。それらはどれも、人間がつくったものよりもはるかに優れた構造と機能を持っています。例えば、太陽と地球の距離が少しでもずれるなら、地球は極寒の地か、灼熱の世界になっていたはずです。ですから、その絶妙な距離を決めて配置された神様がおられることは誰が考えても明らかなことです。
 それにもかかわらず、神様を認めない人たちがいるのはなぜでしょうか?私たちを造られた神様を認めるなら、その神様の主権を認めなければなりません。しかし多くの人々は、その神様に従って生きる人生を送りたくありません。真の神様を無視して、自分勝手に生きたいと願うことは神様に対する大きな罪です。神様は正しく、聖なる方ですからそのような罪を必ず裁かれます。神様は人が死んだ後、そのような神様を認めない人々、神様に逆らう罪びとたちを、火と硫黄が燃える池である地獄に投げ入れられます。そして、人はそこで永遠に苦しまないといけません。
 しかし、神様は人間が地獄に行かなくてもよくなるように、私たちに悔い改めを求めておられます。悔い改めとは今までの神様を無視した生き方が間違いだと認め、真の神様へと心の向きを180度変えることです。すなわち、自分が罪人であることを認め、今までの人生が全て誤りであることを認め、神様に救いを求めることです。神様は私たちの求めに応えるため、御子イエス様を十字架につけ、私たちが受けるべき罪の裁きを全て身代わりに下されました。そして死後三日目によみがえらせてくださいました。このイエス様を救い主として受け入れるなら、罪が赦され、地獄ではなく天国へ行くことができます。
どうか、間違っても地獄へ行くことがありませんように、イエス様を信じ救われ、天国へ行く者となられますように心からお勧めいたします。

2017年09月03日 出エジプト記24章1節~8節より

 イエス様を信じたクリスチャンに神様がお与え下さった新しいいのちには、神様にお従いしたい、神様をお喜ばせしたいという強い願望があります。聖書を学び、神様の恵みを知れば知れるほど、私たちのこの願望は一層強くなります。しかし、実際の自分の歩みを見れば失敗が多いことも事実です。では、どうすればこの願望に沿った幸いな歩みを実現できるのでしょうか?
 この箇所には、イスラエルの民と神様が律法の契約を結んだ様子が記されています。長い間、エジプトの苦役の下にあった民の叫びを聞かれた神様は、モーセを彼らの指導者としてお立てになり、彼らをエジプトから救い出して下さいました。これは神様の一方的な恵みの御業でした。当初、神様を褒め称え感謝を捧げた彼らでしたが、荒野の旅が始まるや否や繰り返し不信の罪を犯し、彼らは神様に逆らい始めました。そこで神様は彼らに聖い律法をお与えになったのです。それは、彼らに自分たちが本来恐ろしい罪人であることを気づかせ、神様にお従いするには神様の恵みに頼らなければならないことを教えようとされたからです。モーセが彼らに律法を守る意志を確認したとき、「民はみな声を一つにして答えて言った。『主の仰せられたことは、みな行います。』(3節)」と答えました。もし律法を守り行えなければ、ささげられた生け贄と同様に殺されてしまうという恐ろしい契約であったにもかかわらず、彼らは「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。(7節)」と言い、契約が交わされました。結果はどうであったでしょう。彼らは契約を守ることができたのでしょうか。モーセがシナイ山で律法の詳細を神様から授かっている間、その山の麓でイスラエルの民が行った愚行が32章に記されてあります。何と彼らは偶像(金の子牛の像)をこしらえ、乱痴騒ぎまで行っていました。神様の聖い律法を守る力は、元々彼らに全くなかったからです。
 私たちも、もし自分の意志や決断力、すなわち「肉」に頼って神様にお従いしようとするなら、イスラエルの民と同じ失敗を犯します。私たちクリスチャンとイスラエルの民との決定的な違いは、律法によってではなく、神様の恵みによって歩む者とされている点です。律法は上から私たちに命じるだけで、それを守ろうとする人間に力を与えません。しかし「あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(Ⅰペテロ2:21)」「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。(同2:24)」 とあるように、イエス様は私たちクリスチャンの前を歩いてくださり、模範を残されました。すなわちイエス様はご自身の神としての御力によってでなく、御父だけを信頼する信仰によって、この地上の生涯を歩み通されました。私たちはこのイエス様にならって歩むなら、新しい命の願望に沿った歩みを実現できるのです。それは、私たちの肉には絶対不可能です。
 またイエス様は私たちの前を歩んでくださっただけでなく、今私たちの内に働いてもくださいます。私たちが御言葉を信じ、イエス様にならって歩みたいと願うなら、イエス様は私たちの内で、聖霊なる神様を通して働き、力を与えてくださいます。私たちクリスチャンの健全な歩みとは、このようにイエス様にならい、イエス様に頼る歩みです。私たちはこの方法でのみ、新しいいのちから来る新しい願望を実現できるのです。ぜひ私たちは、自分の力ではなく、イエス様の御力によって歩まさせていただきましょう。

2017年08月27日 ヨハネの福音書15章1節~5節より

 イエス様は父なる神様を農夫に、ご自身をぶどうの木に、そして、私たちクリスチャンをその枝にたとえられました。2節のみことばによれば、神様も私たちが実を結ぶようにと働いておられることがわかります。農夫にとって作物が実ることが喜びであるのと同様に、私たちも実を結ぶことによって神様をお喜ばせすることができるのです。これは素晴らしいことです。人間の中でも身分の高い人や富を持っている人を喜ばせることは困難です。であるならば、万物の創造主であられる神様を喜ばせることはなおのこと不可能です。しかし、実を結ぶならそれが可能になるのです。
 では、私たちが結ぶ実とは何でしょうか?それは、ガラテヤ人への手紙の5章22節、23節に書かれている御霊の実のことです。その中に愛、平安などといった性質があります。これらの性質は一見未信者も持っていそうに思えます。例えば未信者でも誰かを愛することはあるでしょう。しかし、それは見返りを前提とした愛であり、何より神様に対する愛が全くありません。しかしクリスチャンの愛は見返りを前提とせず、全く背景の違う兄弟姉妹と互いに愛し合うことができます。そして何より、その愛は神様を愛する愛です。平安についても同様のことが言えます。未信者の平安は状況に左右されますが、クリスチャンの平安はそうではありません。これは死を目前にしたとき顕著です。それは罪の赦しを確信し、死後天国へ行けることを喜んでいるからです。他にも様々な実が挙げられていますが、それらすべてに共通しているのが、イエス様が持っておられた特徴であるということです。すなわち、御霊の実を結ぶほど、私たちはイエス様に似せられていくのです。実にイエス様は、十字架において死を目前にしても、平安を保ち、御父を賛美されました。こうしたイエス様の御性質を私たちも持つことができるのは感謝なことです。私たちが実を結ぶなら、私たち自身も喜ぶことができます。
 では、その実を結ぶにはどうすればいいのでしょうか?イエス様は「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(5節)」と語られました。イエス様にとどまる、というのはイエス様と愛の交わりを持つことです。具体的には祈ることと聖書を読むことです。それは祈ることで、自分の願いを神様に知っていただき、感謝を捧げることができるからです。また、聖書を読むことで、聖霊なる神様を通して、キリストが私たちに力を与えてくださるからです。もう一つはイエス様の戒めを守るということ、すなわち互いに愛し合うということです。(9,10節)
 これがなければ、いくら祈り、聖書を読んでもイエス様に留まっているとは言えません。木に結びついていない枝が枯れるように、イエス様に留まらないクリスチャンは力を失うのです。そうなれば、御父をお喜ばせすることはできません。反対に、私たちが教会に集まり、兄弟姉妹で互いに愛し合うなら、私たちはイエス様のうちに留まることができ、多くの実を結ぶことができ、御父をお喜ばせすることができます。これこそが私たちにとっての幸いです。ぜひイエス様に留まり続ける一人ひとりでありましょう。

2017年08月20日 コリント人への手紙第二12章5~10節より

 私たちは自分を見て、自分の弱さを感じることが多々あります。忍耐や寛容、思いやりや優しさがないといった内面的な弱さ、精神的な弱さ、あるいは肉体的、健康上の弱さなどを覚えるにつけ、私たちは自分に失望します。そして「もしそれらの弱さが無く、また自分にあれこれの能力が備わっていれば、もっと神様に喜ばれる歩みができるのでは」と考えがちです。しかし、手紙の著者であるパウロは、「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。(5節)」「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(9節)」と語りました。なぜ彼は自分の弱さを大いに喜んで、高く評価することができたのでしょうか?
 パウロは神様から「肉体に一つのとげ(7節)」、おそらくは目に何らかの重い障害を負わされていました(ガラテヤ4章、6章参照)。そして彼は自分のはたらきの妨げとならないよう、それを「去らせてくださるようにと、三度も主に願い(8節)」ました。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』(9節)」と彼に語られたのです。それはイエス様が、その人が弱ければ弱いほど、ご自身の恵みと力によって十分に用いることがお出来になる御方であるからです。
 もし、私たちがすべてを兼ね備えた強い人であったなら(実際にそのような人はひとりもいませんが)、イエス様に頼ることはまずしません。そしてはたらきの結果を見て、必ず自分を誇るでしょう。神様はそのような人を決して用いられません。なぜなら、その人がますます傲慢になり、神様に栄光を帰すことがないからです。パウロが「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました(7節)。」と語っているように、弱さは私たちにとって必要なのです。弱さがあるからこそ、私たちは謙遜にならされ、イエス様に頼って歩むことが出来、イエス様の御助けによってはたらきを成すことができるのです。重い障害を抱えながらも、神様に大いに用いられたパウロの生涯こそ、何よりその証拠です。パウロが「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(9節)」と、自分の弱さ(目の障害)を高く評価できた理由は、まさにここにあるのです。
 パウロに与えられた恵みは、いま私たち一人ひとりにも与えられています。私たちもキリストと一つとされており、今キリストの力によって神様にお仕えできます。また、弱い私たちが用いられるからこそ、神様の御栄光があらわされます。弱さがあるというのは、イエス様に頼って神様のご栄光のために用いられるチャンスが与えられているということです。さらに、自分の弱さを見て落胆する人は、自分の弱さの本当の意味での自覚が足りず、まだ自分に自信がある裏返しです。パウロが「キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(10節)」と証しているように、私たちもぜひ彼を見ならう人でありましょう。罪人が恵みによって救われ、その弱さゆえにイエス様に頼り、恵みによって整えられ、強められ、神様のご栄光のために用いられるなら、どれほど神様の御名が誉め称えられるでしょう。どうかますます神様に頼り、自分の弱さをおおって、なお力強くはたらかれる神様の素晴らしさを、身近で味わう人でありますように。ぜひこの真理を覚えて歩む者であらせていただきましょう。

2017年08月13日 出エジプト3章1節~4節、12節~19節より

 私たちしばしば失敗や罪を犯し、落胆し、神様との交わりを諦めてしまうことがあります。しかし、それは間違っています。イスラエル人たちも多くの罪を犯しました。ここでは神様に対して偶像礼拝の罪を犯したため、激しい御怒りを受け、モーセのとりなしにより滅ぼされることは免れたものの、『わたしはあなたがたのうちにあっては上らない。』(3節)と宣告される結果となりました。しかし、彼らにとって、モーセのとりなしは幸いでした。まず、彼は神様にこう求めました。『今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。』(13節)ここで、『お心にかなっている。』というのは、失敗や罪が全くないということではなく、神様がモーセを『名ざしで選びだし』たという事実をさしています。彼はその一方的な神様の憐れみに訴えたのです。それに対する神様のお答えは『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』(14節)でした。これは素晴らしい結果と言えます。しかし、この時点ではその恵みはモーセ個人に限定されていました。そこで、モーセは知恵を用いてさらなる恵みを神様から引き出しました。『私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。』(16節)ここで、注目すべきなのは『私とあなたの民』という言葉です。彼は自分を憐れむなら、自分と一体である民をも憐むようにとりなし、彼個人に対する神様の恵みを、民全体へと広げようとしたのです。こうして、モーセを導かれる神様は、一緒に行動しているイスラエルの民をも導かなければいけなくなり、『あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを選び出したのだから。』(17節)と言わざるを得なくなりました。
 このモーセのとりなしは、現在主イエスが天においてなしておられるとりなしの働きの型であるといえます。私たちクリスチャンは、自分の中に、神様の導きを得る資格は全くありません。しかし、主イエスはモーセのように、ご自身とクリスチャンたちを一体であるとして、ご自身を導くように私たちを導かれるよう、父なる神様にとりなされています。もちろん失敗や罪は犯すべきではありません。もし、犯したならすぐに悔い改めるべきです。しかし、私たちが主イエスと一体であるという事実は何があっても不変です。ですから、主イエスが神様によって完全に愛され、受け入れられているように、私たちも神様によって完全に受け入れられ、これ以上近づけないほど近いところにいることも事実なのです。このことを覚えましょう。そして、警告を無視し、罪を犯す者に対する懲らしめもまた、ご自身との親しい交わりを回復するため、悔い改めを促そうとする神様の御愛であるのです。私たちは『恵もうとする者を私は恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。』(19節)と言われた神様の主権に基づく、一方的な救いの御業に感謝し、その恵みによりすがり、ますます神様との親しい交わりを求める者でありましょう。

2017年08月06日 エペソ人への手紙6章18~20節より

 神様は私たちに「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。(18節)」と命じておられます。なぜなら、悪魔が私たちから喜びや力を奪おうと、常に攻撃をし続けているからです。私たちは、自分の力で空中の権威をもつ支配者である悪魔に立ち向かい、勝利を得ることはできません。無防備でいるならば、確実に私たちの人生は無価値なものとされてしまいます。ですから私たちは、この悪魔との戦いに勝利するために祈り、神様に助けていただかなければならないのです。また私たちは、ただ自分自身のために祈っていればいいわけでもありません。私たちは他の兄姉、すなわち「すべての聖徒(18節)」のために祈る必要があります。なぜなら、クリスチャンは皆悪魔との戦いの中にいるからです。
 パウロも、自分のために祈ってくれるように、この手紙の宛先人たちに願いました(19-20節)。私たちは献身を志して訓練を受けている兄や、重い病の中にある兄姉とその家族のためにも祈らなければなりません。特に、戦いの最前線で重い責任をもって働いておられる伝道者や牧会者の先生方、さらには海外に遣わされている宣教師家族のための祈りは、差し出がましい行為であるどころか、私たちの大切な任務です。なぜなら、福音伝道の戦いにおいて、祈りは絶対に無くてはならない後方支援であるからです。
 私たちが祈れることは、非常に感謝なことです。なぜなら私たちは、祈ることによって共に働きに参加できるからです。たとえその地に行けなくても、たとえ外国語が話せなくても、私たちは祈りと捧げものを通して、同じ神の兵士として戦いに参加できます。また、祈りは誰にでもできます。海外に行くことができなくても、メッセージを語ることができなくても、チラシを配ることができなくても、祈ることならできるはずです。私たちの中で誰も神様に祈ることができません、といえる者はいないのです。
 では、私たちはこの御言葉に従って、日々熱心に祈っているでしょうか?この祈るという素晴らしい働きにあずかっているでしょうか?「そのためには絶えず目をさましていて…忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい(18節)。」とあるように、もし私たちが霊的に眠ってしまうなら、祈り続けることはできません。海外に比べれば、日本国内は迫害や困難が少ないと言えます。しっかり目を覚まし、自分も戦場にいるのだ、という強い自覚がなければ、その人の祈りは疎かになるでしょう。また祈りには忍耐も必要です。すぐに応えられない祈り、目に見える結果が一向に得られない祈りも多々あります。神様にはご計画があり、祈りに応える時期もあります。忍耐をもって熱心に祈り続けるなら、私たちは神様への信仰を現わすことができるのです。神様は私たちの信仰を喜ばれ、必ず報いて下さる御方です。
 祈りは一部のクリスチャンの特権ではありません。詩篇や福音書を読めば、イエス様はこの地上でいつも祈っておられました。「御霊によって祈りなさい(18節)。」とあるように、イエス様ご自身が聖霊なる神様を通して、私たちを強め、祈り続けられるよう助けてくださいます。
 どうか、私たちのすべてが福音伝道の戦士として、自分自身のために、愛する兄姉のために、諸先生方のために、なおいっそうの忍耐と愛をもって、いつも熱心に祈り続ける者であらせていただきましょう。

2017年07月30日 詩篇22章1節~18節より

 私たちクリスチャンの信仰の土台は聖書です。そして、人間には罪があり、死後、神様から裁きを受け地獄へ行かなければならないことを聖書に基づいて受け入れています。なぜなら聖書が神様のみことばだからです。では、聖書に書かれていることが神様のみことばであると、どうして断言できるのでしょうか。この問いは大変重要です。なぜならもし、聖書が神様のみことばでなかったのなら、ただの人間の意見ということになってしまうからです。
 そこで聖書が神様のみことばであることを示す根拠を見てみましょう。その根拠の一つは、聖書には未来について書かれているということです。それを預言といいます。この箇所もその預言の一つです。この詩篇が書かれた時期は、今から約3000年前です。しかし、ここで示されている事が、その1000年後にイエス様が十字架にかかられた時実現しました。まず、『わが神。わが神。どうしてあなたは私をお見捨てになったのですか。』(1節)ということばは、十字架にかかられたイエス様が十字架で叫ばれた言葉そのものです(マタイ27章46節)。とはいえこれだけでは、イエス様がこの御言葉を覚えていて叫んだだけだと言えるかもしれません。しかし、『私を見るものはみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」』(7節)と書かれている通り、神様に敵対し、イエス様をののしった相手までもが書かれているとおりの行動をとりました(マタイ27章39節~43節)。極めつけは『彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。』(18節)と書かれている通り、実際にローマの兵隊たちがイエス様の着物を分けたのです(マタイ27章35節~36節)。 人間に未来のことを言い当てることは可能でしょうか。実に旧約聖書にはイエス様に関する預言が多数書かれており(300~350と言われています)、イエス様が誕生されるずっと以前に書かれたにも関わらず、全て成就したのです。これは明日のことすら分からない、ただの人間には決してできないことです。しかし、神様にはそれができます。ですから聖書は神のみことばであるのです。その聖書が確約していることが、イエス様が私たち人間の全ての罪を負い、十字架にかかり、死後三日目によみがえられたということであり、イエス様をまことの救い主、神様であると信じ受け入れるなら地獄から救われ、天国へ行けるということです。この聖書の約束をそのまま信じ受け入れる者でありましょう。
 そして、この聖書には私たちクリスチャンがこの人生をどう歩むべきかについて、必要なことが全てかかれています。ですから、どの勧めもえり好みすることなくそのまま受け入れ歩む者でありましょう。

2017年07月23日 テトスへの手紙2章11節~14節より

 十分な対価を払えない相手に、他人が無償で何かを提供するとき、私たちは「恵む」という言葉を使います。「恵み」とは何でしょう?それは受けるに値しない者が、相手の一方的な好意によって何かをいただくことです。神様は愛される値打ちの全くなかった私たちを憐れまれ、地獄から救い、天国に入る者とするために、イエス様を十字架におつけ下さいました。そしてこの御方を死からよみがえらせ、イエス様を救い主として信じる信仰を私たちにお与え下さったのです。罪人がイエス様を信じるだけで救われるには、神様の側でまず大きな犠牲が支払われなければなりませんでした。私たちはまさに「すべての人を救う神の恵み(11節)」によって永遠の救いを受けた者です。私たちはこの恵みの素晴らしさを、さらに聖書から学ぶ必要があります。
 ところが、クリスチャンの中には自分が救われたことに満足し、もっと聖書を学んだり、聖書の勧めに従って歩むことを願わない人がいます。あるいは、私は神様にお仕えしてきた、また今お仕えしているので十分ですと考える者もいます。また恵みを悪用して放縦に変え、恵みによって罪が赦されるのだったらもっと罪を犯そう、天国に入るまで残された人生を自分の好き勝手に楽しんで生きようと考える人までいます。しかし、これらの考え方を支持する聖句は聖書の何処にも見当たりません。完全に間違っています。なぜなら、「私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです(12-13節)。」とあるように、クリスチャンに相応しい生き方が、この箇所に明確に記されてあるからです。
 肉を喜ばすクリスチャンの生き方を見て、未信者はどう思うでしょう?自分たちの生き方とたいして変わらないのであれば、彼らはキリスト信仰も所詮ただの宗教と見なさないでしょうか?私たちの歩みを通して神様の御名が汚されてしまうとしたら、考えただけでも恐ろしいことです。神様はどのような時代であっても、キリストを主と信じた者、神の恵みを知った者に相応しい歩み、すなわち、神様を畏れつつ御言葉に従って日々キリストの空中再臨を待ち望むような、神様が喜ばれる生き方をするよう命じておられます。では私たちにそのような歩みは可能でしょうか?
 この手紙はクレテ島の伝道者テトスに宛てられて書かれました。クレテ人は自堕落、不道徳で有名でした。しかし、だからと言って、彼らのこれまでの生き方が肯定されてはいません。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。(14節)」とあるように、イエス様の十字架の目的は、クリスチャンを罪から離れさせ、神様の御心に従って熱心に歩ませるためでもあったのです。イエス様ご自身が私たちの内にその願望とその歩みを実現する力とを、聖霊を通して与え続けて下さるのです。どうか、神様の恵みについてよりいっそう深く学ばれ、神様の喜ばれる歩みをしたいと心から願う方でありますように。そして私たちの歩みを通して神様のご栄光が現されることを求めて歩む者でありましょう。

2017年07月16日 マタイの福音書14章22節~33節より

 この時イエス様は、弟子たちを強いて舟に乗り込ませられました。それは、弟子たちの信仰を鍛え、よりイエス様にのみ信頼する者とするためでした。信仰とは知識を増やせば成長するものではありません。それは丁度、スポーツを一度も経験したことのない人が、いくら解説書等で知識を蓄えたとしても、プレイできるようにはならないことと同じです。そうではなく、スポーツ選手が実際にスポーツを経験することによって、上達していくように、日々の生活の中で、みことばに信頼して歩む実地訓練を積んではじめて信仰は成長していくのです。ですから、私たちにとって信仰を働かせるべき試練が与えられることは喜ばしいことです。
 しかも、この試練は一回経験すれば十分なのではなく、天に至るまで何回も経験する必要があります。弟子たちはイエス様の御業をこれまでに何度も経験しました。例えばこの箇所の前には、イエス様が五つのパンと二匹の魚を増やされ、五千人に与えられる奇蹟を目の当たりにしていました。また、以前もイエス様が舟で眠られていたとき、弟子たちの求めに応じ、一声で嵐を静められたことも見ていたのですから、なおのことイエス様に頼ることもできたはずです。しかし、この時嵐の中で彼らはそうできませんでした。それは、状況が違ったからです。すなわち食事を増やすことと、嵐の中を安全に進むことは、状況としては全然別のことであり、嵐に遭った前の試練も、前回はイエス様が共におられたけれども、今回はおられなかったという点で状況が違っていました。このように、信仰による試練には様々な状況の違いがあるので、一回きりの試練では違った状況の試練には適用できないことが多いのです。そして、弟子たちが嵐の中、水の上を歩かれたイエス様を見て、「幽霊だ。」と妄想したように、試練による信仰の訓練がなければ、私たちは容易に不信仰に陥る弱さがあることも、試練が繰り返される大きな理由です。ですから、私たちは、天に至るまで鍛えられ続ける必要があるのです。
 そしてむしろ私たちは、信仰を働かせる場面に自ら踏み入ることが必要なのです。この場面ではペテロがイエス様に「水の上をあるかせてください。」と求めたことがそれにあたります。途中波を見て沈みそうになりましたが、信仰に基づいて一歩を踏み出すことでほんの少しでも水の上を歩くことができました。彼は一歩を踏み出したため、波を見る失敗をしました。しかし、安全な舟の上にいてイエス様が来るのを待っていた他の弟子たちには味わえない主の御力を味わうことができたのです。私たちも自分自身を主に捧げるなら、ペテロのように、困難や失敗を経験することもあるでしょう。しかし、ペテロがイエス様に助けを求めたとき、イエス様がすぐに彼を助けられたように、自分の弱さや失敗を見ても、憐れみ深く恵み深い神様に助けを求めるなら神様は必ず助けてくださいます。そして主の恵みを十分に味わうことができるのです。この神様を信じて、自分自身を神様に捧げる歩みをする者でありましょう。

2017年07月09日 使徒の働き17章16~34節より

 この箇所には、今から二千年ほど前にギリシヤのアテネでパウロが語ったメッセージが記されてあります。ギリシヤ神話でよく知られるこの町は、多くの偶像で満ち溢れていました。パウロは、人間の手でこしらえた木や石の偶像は本当の神様ではないこと、また、本当の神様はこの天地の造り主であられると、はっきり語りました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(24-25節)」日本にも数多くの神々と呼ばれるものがあり、多くの日本人はそれらを信仰の対象として熱心に拝んでいます。しかしこの行為は、まことの神様の御前に恐ろしい罪であるのです。
 天体の規則正しい運行、自然界に見られる美しい秩序と調和、生物がもつ多様な知恵と営み、これらはすべて、天地の主である偉大な神様がご存在される明らかな証拠です。神様は私たち人間をもお造りになられました。そして私たちに水、空気、食物を備え、今この瞬間も私たちの心臓を動かし、命を保って生かして下さっています。私たちの命は神様の手の中に握られています。神様は私たち人間に偶像崇拝を止め、まことの神様に立ち返るように、「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられ(30節)」ます。これまでの偶像を拝む生き方が間違っている、すなわち罪であることを認めて悔い改めるよう、神様は命じておられます。なぜなら、神様は罪を裁かれる御方であるからです。
 罪人は死後、神様の御前に立たされ有罪宣告を受け、永遠の地獄でその罪を裁かれなければなりません。この世界は明確に神様を拒んでいます。それは、この世界がイエス・キリストを十字架につけて殺した事実が物語っているのです。イエス様は処女マリアの胎を通してこの世に来られたまことの神の御子です。イエス様は病人を癒やし、死人を生き返らせ、自然界の法則を支配されるなど、多くの奇蹟と御言葉をもって、ご自分が人となられたまことの神であるとはっきり宣言されました。しかし、この御方を見て自分の罪深さと堕落が示された当時の人々(この世界)は、イエス様を受け入れず、かえってイエス様を憎み、ののしりとあざけりをもって十字架につけました。その態度は今日の日本を含めた世界中の人間の態度と何ら変わりありません。
 「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人〈イエス・キリスト〉により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。(31節)」しかし、イエス様の十字架は神様の救いのご計画でした。十字架で死なれたイエス様は3日目の朝に死の力を打ち破ってよみがえられ、ご自身が救い主であることを公に示されました。イエス様の復活ほど多くの証拠によって立証される出来事はありません。復活は紛れもない歴史的事実です。イエス様はすべての人間の罪をその身に負われ、十字架にかかられ、人間の罪に対する神様の怒りと呪いを身代わりに受けて死なれた救い主です。自分の罪を悔い改めて神様に立ち返る、すなわち復活され、今も生きておられるイエス様を救い主として信じ受け入れる者はだれでも罪が赦され、死後に永遠の天国に入る者とされます。どうか、このイエス様を救い主として信じ受け入れ、地獄からの救いを得る方となって下さいますよう、心からお勧めいたします。

2017年07月02日 ローマ人への手紙1章16節~17節より

 福音を聞くと、ここに神様の愛が示されていると多くの人は考えるでしょう。確かに、その通りです。罪人である人間を救うために、神様はご自身の大切な御子イエス様を私たち人間にお与えになり、無代価で救いへの道をお与えになりました。これほどの大きな愛はなく、私たち人間の想像をはるかに超えたものです。しかし、この福音には『神の義』すなわち、罪に対し、必ず刑罰を下される神様のご性質があらわされているということも見逃してはいけません。
 神様の義は聖書全体を通して明確に示されています。例えば、ノアの時代に神様は大洪水を起こされました。当時の人間は今の私たちよりも10倍ほど長く生きることができたため、自我の追求を今よりも徹底的に行い、大変堕落してしまいました。ですから神様は、ノアの家族八人を除く全ての人類をさばかれました。また、ソドムも暴虐に満ち、同性愛などを容認する堕落した社会であったため、天から火が降り、さばかれています。さらに、神様がお選びになったイスラエル民族でさえ、神様から離れ偶像を拝み、悔い改めることを拒んだとき、さばかれました。このように、神様の義が明確に表されている箇所は聖書のいたるところで確認することができます。
 しかし、こうした実例をはるかに超えて、神様の義が表されているのが福音なのです。今の時代も、昔と変わらず、全ての人間は罪人であり死後神様によって裁かれるべき存在です。しかし、神様はその裁きを罪人一人ひとりの上に下す代わりに、御子イエス様の上に十字架上において下されました。神様はご自身の愛する御子に対して、少しの容赦もせず徹底的に裁かれています。それほど、人間の神様に対する罪は深いのです。もし神様の罪に対する怒りがそれほど激しいものでなければ、イエス様は十字架にかかる必要はなかったはずです。ですから、イエス様を信じていると言っている人の中に地獄を否定する者たちがいますが、これは十字架の意味を全く理解していない者たちの発言であり、そのような者たちがたとえ「神様は愛なる方です。」と伝えたとしも、神様の愛を十分に語っているとはいえません。17節に『福音は信仰にはじまり、信仰に進ませる。』と書かれていますが、これは原語を正確に訳すと、『福音は信仰に基づき、信仰に対して啓示されている。』と言う意味になります。すなわち、この福音を通して信仰者たちに対して、ご自身の義を示しておられるということです。私たちは福音を良く学び、神様の義を良く知る者でありましょう。神様の義をよく知ることで、十字架の上でなされた神様の愛がどれだけ深いかを本当の意味で理解することができます。そして、神様の義と愛と恵みを未信者に対して正確に語ることができます。パウロ自身も『福音を恥にしていない。』と語り、この福音を真っ直ぐに伝えています。この福音の義の側面をはっきりと伝えず、愛の側面ばかりを伝えるなら、福音を恥じることになります。私たちもパウロのように、福音を恥にせず、福音を聖書が語っている通りに真っ直ぐに伝える者たちでありましょう。そして、神様の義と恵みと愛を正確に伝えましょう。

2017年06月25日 箴言1章7節;2章1~6節より

 この世に中には様々な知識があります。学校で学ぶ知識、家事や仕事に関する専門知識など、知識はどれも大切です。またクリスチャンであるならば、御言葉の知識も必要です。どの御言葉が聖書のどの箇所に記されてあるのか、この御言葉はどういう意味なのか、という知識を多く蓄えているなら、それは実に素晴らしいことです。
 では、一番大切な知識とは何でしょう。それは「主を恐れることは知識の初めである。(1:7)」とあるように、主、すなわち神様を恐れることです。「初め」とは「土台」、「根本」とも訳せます。土台となるべき知識は、実に神様を恐れることです。しかし、それはクリスチャンであっても地獄で刑罰を受けるかもしれない、と恐れるのではありません。そうではなく、全知全能の神様を畏れ敬いなさい、という意味です。読み書きの知識があっても、ただこの世の書物を読み耽けるのであれば、むしろ害です。学業であれ、家事や仕事で得た知識であれ、神様への恐れなしに用いるならば、得るのはこの世のものですから、価値がありません。なぜなら私たちが死ぬときには、この世のものはすべてこの地上においていかなければならないからです。
 また、御言葉の知識についても同じことが言えます。聖書の知識をもっていても、神様を恐れていないなら「神様はこう語っておられるけれど、私はそうは思わない。私は自分の考えに従って生きます。」となります。神様を恐れていないならば、従順に歩むことはできません。そしてむしろ、自分のことを棚上げにし、聖書から得た知識によって他人を裁く傲慢に陥るなら、その人は有害な存在となります。聖書に登場するパリサイ人や律法学者たちは、まさにそのような人物でした。聖書の知識という点では、彼らは確かに優れていたかも知れません。しかし、神様への恐れがない彼らは、神の御子であるイエス様を迫害し、最終的に十字架にかけて殺してしまったのです。正しい知識があるうえで神様に反抗する態度は、知識が無いまま反抗する態度より、もっと罪深いのです。
 では、私たちはどうすれば神様を恐れることが出来るのでしょうか?神様は「私のことば」「私の命令」「知恵」「英知」である聖書の御言葉を「受け入れ」「たくわえ」それらに「耳を傾け」「心を向け」、さらに「悟りを呼び求め」「銀のように、これを捜し」、「隠された宝のように、これを探り出す」とき、「 あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。」と語っておられます(2:1-5)。すなわち、「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる(2:6)」のです。神様が、聖書の御言葉を通して、私たちに神様を恐れる知識を与えてくださいます。確かに聖書を読むならば、創世記のノアの大洪水からヨハネの黙示録の患難時代の恐るべき裁きに至るまで、神様は罪に対して激しい憤りと強い憎しみをもつ御方であられ、恐ろしい方法で罪を必ずお裁きになる、聖い義なる御方であることがわかります。もちろん、同時に神様は愛と憐れみと恵みとに満ち溢れた御方です。私たちは神様の義なるご性質も愛なるご性質も、どちらも軽んじるべきではありません。しかし、主の愛を知ることが知識の初めではなく、主を恐れることが知識の初めなのです。どうか、この土台となる大切な知識を、聖書からますます学ぶ者であらせていただきましょう。そしてこの知識を土台として、より熱心に神様の御前を歩ませていただき、大いに祝福される者でありましょう。

2017年06月18日 コリント人への手紙第一12章12節~27節より

 イエス様は現在天におられます。そのイエス様が地上で福音を宣べ伝えるため、現在キリストのからだと呼ばれている、私たち教会を通して働きを成しておられます。このキリストのからだは全世界のクリスチャン全体で構成される一つの集合体です。私たちはキリストを信じた瞬間から、このキリストのからだに御霊によって入れられ、キリストのからだの器官の一つとして各々働きを任せられています。そして、その働きができるように、必要な賜物も与えくださっています。ですから、私たち全てがキリストのからだの一器官とされていることを忘れてはいけません。
 しかし、クリスチャンの中には「私は救われて天国へ行けるだけで十分なので、用いられなくてもいい。」と消極的になる人がいます。この考え方は間違っています。それは、私たちからだのある器官、例えばすい臓が「自分の働きは価値がないからやめてしまおう。」と考え、機能を停止させたらどうなるかを考えれば分かります。もし、そうなれば、血糖値をコントロールできなくなり、糖尿病のような症状が現れ、日常生活に支障をきたすことになるでしょう。同様に、どんなクリスチャンもキリストのからだの一器官とされている以上、与えられた働きを放棄するなら、その人の祝福にならないだけでなく、キリストのからだ全体に大きな損害を与えることになるのです。
 また、「私の働きは目立った働きでないから重要でない。」と考えることも間違っています。人の身体でも、手と足がそれぞれに独自の働きがあり、甲乙がつけられません。手は器用に物を掴む事ができ、足は重い身体を支えることができるからです。また、内臓をはじめとした身体の内側にある器官はしばしば、外側にある器官より生命維持において重要な働きをします。このように、どの器官も神様がお造り下さった尊い働き、機能が備わっているのです。これは、キリストのからだにおいても成り立ちます。一見目立たない器官がキリストのからだ全体に必要不可欠な働きを成しているからです。あるクリスチャンが病気になり、今までできていたチラシ配布などの働きができなくなりました。しかし、その病気の中で喜んで歩んでいることが証になって、兄弟姉妹の励ましを与え、未信者がその喜んでいる姿を見て福音に興味をもち導かれることが実際にあったのです。これは健康な信者にはできない尊い働きです。ですから、「自分は弱いから用いられない。」と考えるのではなく、「この弱さを神様は用いてくださる。」と確信し、後ろに下がらず、みことばを信じて前に進むものでありましょう。その歩みが全世界に及ぶキリストのからだなる教会のクリスチャンたちに必ず良い影響を与えます。その特権を覚えて日々歩むものでありましょう。

2017年06月11日 ペテロの手紙第一5章6節~7節より

 私たちクリスチャンも思い煩いや心配、気がかりな問題に悩まされるときがあります。証しや伝道をするとき、この世と分離して歩むとき、私たちは様々な不安や心配に陥りがちです。他にも仕事や進路、子育てや心身の病気で悩む人もいるでしょう。では、そのような状況に陥ったとき、私たちはいったいどうすれば良いのでしょう?聖書は明確に「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。(7節前)」と私たちに勧めます。では、私たちはこの勧めに実際に従って行動しているでしょうか?
 しかし、神様に祈ってゆだねる前に人に頼ったり、自分の力や知恵で何とか解決しようと努力する人がいるならば、それがたとえ無意識であったとしても、その人は本当の意味で神様を信頼して歩んでいるとは言えません。その人は、神様よりも周りの人間や自分に頼っているのです。これは傲慢な、間違った考えです。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです(6節)。」とあるように、私たちはまず自分の無力さを認め、神様の御前にへりくだって、すべてを神様にゆだねることが大切です。
 未信者は、何かの問題に遭遇したとき、自分や他人を当てにして問題の解決を図ろうとします。なぜなら彼らは全知全能の神様を知らないからです。しかし、クリスチャンであっても気をつけていなければ、彼らと同じ行動をとってしまいます。なぜなら、私たちは神様がどのような御方であるのかを忘れてしまったり、この世の未信者たちの考え方に影響を受けてしまった結果、無意識の内に神様ではなく他のモノに頼って、神様に頼らなくなってしまうからです。医者や病院に頼ることや、牧師や先輩のクリスチャンに助言を求めることは決して間違いではありません。しかし、人間は完全ではありません。間違う可能性もあります。また、力量不足から解決に至らないこともしばしばです。しかし、私たちが頼ることのできる神様は全知全能の御方です。
「神があなたがたのことを心配してくださるからです(7節後)。」とありますが、「心配してくださる」と訳されている語は「配慮しておられる」と訳すこともできます。つまり神様は、ただ心配しておられるだけでなく、いつも問題の解決のために働いてくださっているということです。神様に解決できない問題はありません。そして聖書の他の個所を見るならば、むしろ神様は、ご自身と私たちの益のために、すべてのことを働かせておられるということもわかります。問題が起こることも、それを解決することも、すべては神様の御支配の下にあるのです。
 これらのことを理解すれば、他人や自分に頼ることがいかに愚かで貧弱なのかがよくわかります。この御方にすべてをお委ねできるのは、私たちクリスチャンの特権です。先日も学んだように、神様は私たちをイエス様に似たものとするために、私たちと共に、全てのことを益に向けて動かしておられます。どうか、思い煩いの大きさに関わることなく、たとえどのように小さく思える問題であったとしても、高ぶってしまい、自分で解決しようとしてしまいませんように。そうではなく、いつもまずこの神様にお委ねして、歩ませていただくひとりひとりでありましょう。

2017年06月04日 詩篇14篇1節~3節より

 『善を行う者はいない。ひとりもいない。』(3節)と聞くと、「それは極端だ。ボランティア活動をしている人などは善いことをしている。」と言う人や「私にも悪いところはある。しかし、善いこともしてきた。」と言って3節のみことばを否定することがいます。しかし、聖書には間違いがありません。なぜならば、聖書は神様のみことばであるからです。では、3節はどういう意味でしょうか。2節によれば、『主は人の子らを見下ろして、神を尋ね求める悟りのある人がいるかどうかをご覧になった。』とあるように、善悪の判断をされる方は神様です。一方、上記の「善を行う人もいる。」という反論をした人は人間同士の比較によって善悪を判断しています。しかし、人間同士の比較では正しい善悪の判断はできません。なぜなら、比較する集団によって善悪の基準が変わってしまうからです。極端な例を挙げれば、刑務所に入る人たちの中ですら「私は犯罪の実行はしたが、犯罪をそそのかしたあの人に比べればまだ悪くない。」と主張する人が存在するのです。もちろん、私たちから見れば彼らは皆、悪人です。ですから、善悪の判断をするときは、人間同士のあやふやな基準ではなく、神様からの観点でしないといけません。そして、神様は人間を1節~3節の中で、三度も繰り返し「全人類は罪人である。」と評価されているのです。私たちはこのことを事実として受け入れなければなりません。したがって、人がどう思おうと、誰もそのままでは神様の住まわれる天国に行くことはできないのです。なぜなら、その決定権は神様にあるからです。だれでも、自分の家に、見知らぬ人が入ってくるなら追い返すはずです。その人が「私にはその資格がある。」「あなたは私をこの家に入れるべきだ。」と主張しても、その家の住人であるあなたが拒否するならば入れないのは当然です。同様に、いくら私たちが自分は天国に入れると考えても、神様が駄目だと言われるなら入れません。そして、天国へ行くことができない人は、地獄へ行かなければなりません。そこは、火と硫黄が燃える池で永遠に苦しみ続けるところです。実に私たちの罪はこの地獄に行かなければならないほどの罪なのです。誰でも腐ってしまった果実があるなら、ごみとして廃棄するはずです。私たちも神様から見れば、『だれもかれも腐り果てている。』のです。しかし、神様は私たちが、廃棄されることを望まれず、ご自身の最愛の御子イエス様を人としてこの地上に遣わし、十字架にかけ、その上で私たちの身代わりに罰してくださいました。その裁きには愛する御子だからという手加減は一切ありませんでした。それは、全人類の罪の裁きを完全に行うためだったのです。これは私たちの想像をはるかに超える大きな愛でした。そして、イエス様は三日目によみがえり、信じる全ての者を地獄から救う救い主としてご自身を証しされました。どうか自分の罪深さを認め、イエス様を救い主として受け入れてください。また、すでにイエス様を信じ、救われた人は、永遠の地獄からの救いを心から感謝し、罪人のためにいのちを投げ出されたイエス様の愛をなお一層知り、感謝するものでありましょう。

2017年05月28日 ローマ人への手紙8章28節~30節より

 神様はある「ご計画に従って(28節)」私たちを救って下さいました。その計画とは、私たちを「御子のかたちと同じ姿(29節)」すなわち、イエス様の姿に似せることです。同じ姿とは、私たちの外面の変化ではなく、内面(性質)がイエス様に似たものとされるという意味です。つまり神様は、私たちをイエス様のように愛があり、寛容で、柔和で、親切にしようとしておられるのです。また、イエス様のように世の汚れから分離し、完全に神様にお従いする従順などといった性質も与えようとしておられます。なんと素晴らしい計画ではないでしょうか。私たちは自分自身を見るならば、その醜さや罪深さに気づかされます。神様に従順に歩まれ、神様を本当にお喜ばせしたイエス様とは全く正反対です。神様に従いたいと思っても従えないのがあわれな私たちです。そのような私たちを神様の方からイエス様に似せようと計画してくださっているのです。この点だけを見ても私たちは神様を永遠にほめたたえることができます。
 しかし、私たちはイエス様の麗しさを深く学べば学ぶほど、自分の愚かさや罪深さもますます知るようになります。ですから、「本当にイエス様に似させていただくことができるのだろうか?」と、考えてしまう人がいるかも知れません。しかし、神様にとって不可能なことはありません。神様は私たちの生まれつきの性質である「肉」を改善されるのではないのです。イエス様を信じた私たちには、イエス様ご自身のご性質が宿った「新しいいのち」が与えられており、神様はこのいのちを成長へと導かれます。ですからイエス様を信じた人は誰でもイエス様に似た者とされうるのです。
 では、神様はどのように私たちを成長させてくださるのでしょうか。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(28節)」とあるように、神様はすべてのことを、私たちの新しいいのちを成長させ、よりいっそうイエス様に似たものとするという益のために働かせておられます。病気や失業、信仰の戦いなど、「どうして!?」と叫びたくなる出来事が私たちの人生に起こるのも、すべてこのご計画のためであるのです。
 私たちはこれらの御言葉を信じましょう。28節では「私たちは、神が、神を愛する者たちのために、神の目的に従って召されている者たちと共に、全てのことを益に向けて動かしておられることを知っています(エマオ出版訳)。」と訳されているように、私たち自身も、このご計画に同意して共に加わらなければなりません。つまり、たとえ自分がどのような状況におかれようと、それを自分の新しいいのちの成長の好機として捕らえ、神様のご愛の確かさ、ご計画と導きを決して疑わず、神様に全き信頼をよせて歩む責任が、私たちの側にも与えられているということです。苦難の中で祈り続ける者に、神様はイエス様のご性質である忍耐をお与え下さいます。神様は信仰をもって歩む者にご約束の真実さを明確に示され、その人の信仰をさらなる成長へと導かれます。しかし、御言葉に同意せず、苦難の本当の意味を取り違え不信仰に陥ってしまうなら、その人は自分の成長や訓練の機会を逃し、同時に神様にも不名誉をもたらす結果を招きます。
 どうか、神様がお与え下さる成長の機会、イエス様に似せられる機会を十分生かす者でありますように。自分自身の成長を願い、ますます御言葉を信じて、神様のご栄光にあずかる者とさせていただきましょう。

2017年05月24日 ヨハネの福音書6章1節~14節より

 ここに、イエス様が五千人分の食料をまかなうために、五つのパンと二匹の魚を増やされた奇蹟について書かれています。イエス様がこのような奇蹟を行うことがおできになることは、イエス様が真の神様であられることを信じている私たちにとって当然のことです。しかし、イエス様がこのような奇蹟をここで起こされた意図については良く考えなければなりません。理由の一つは、ユダヤ人たちにご自身が旧約聖書で預言されている救世主であることを示すことでした(14節)。しかし、もう一つは弟子たちを訓練するためでした。5~6節においてイエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」とあえてご自身の計画を知らせず、遠まわしな聞き方で尋ねられました。もし仮に『わたしにパンを増やすことができると思うか。』と尋ねられたなら、ピリポも『はい。』と答えたに違いありません。しかしイエス様は、ピリポの信仰を試し訓練をお与えになるためにこのような尋ね方をなさったのです。彼はこのように聞かれたことで、イエス様を考えから除外してしまいました。またアンデレは『ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。』(9節)と状況を見て答えてしまったのです。このことは私たちにとっても無関係ではありません。クリスチャンであるならば、『イエス様はどんなことでもおできになりますか?』というストレートな質問に対してはみなが『はい。』と答えるはずです。しかし、実際の自分の歩みに当てはめて、『自分自身を主に捧げるなら、必ず私をお用いになり、御栄光を表すことがおできになる。』と心から信じて全てをゆだねることができているでしょうか。『信仰を持った時期が遅すぎたから』、『自分には力がないから』『まだまだ経験不足だから』と自分の状況に目を留めて、『自分が用いられることはない。』とあきらめてしまってはいないでしょうか。実にその考えこそがイエス様を除外したアンデレの考え方なのです。そうではなく、そんな時こそ、『それでも主は私を用いてくださる。』とイエス様を信頼し、自分自身を捧げる良いチャンスなのです。そして、それを実践したのが前述の9節にも出てきた五つのパンと二匹の魚を捧げた少年です。イエス様の奇蹟を間近で見て、全ての人が驚いたとかかれていますが、その中でその奇蹟を最も驚き、喜びをもって味わったのはこの少年に違いありません。私たちもこの少年のように用いられることを望まないでしょうか。そして、私たちはイエス様から各々の果たすべき役割が与えられています。主は全ての人を用いることがおできになるのです。後は、私たちが自分自身を捧げるだけなのです。自分がどれほど用いられるかは、捧げなければわかりません。しかし、あるクリスチャンが身内に証しをし、伝道したことによって家族が救われただけでなく、開拓伝道が始まり教会が建て上げられるきっかけになったことが過去に何度もあります。神様は伝道をしたその人の信仰をおおいに用いられ、捧げた人の想像を大きく超える御業をなしてくださいます。自分の働きを「これが何になるのか。」と考え躊躇するのではなく、常にイエス様が働いてくださっておられることを確信して、常に用いられることを求め続け歩むものでありましょう。

2017年05月14日 コリント人への手紙第二4章17~18節より

 クリスチャンにとって、一度きりしかない人生を何を得るために使うのかは実に重要な問題です。もし、本当は価値ある人生を送れるはずであったのに、無駄なことに時間を費やしてしまったとしたら、それは後悔してもしきれません。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです(18節)」 とあるように、すべてのものは「見えるもの、一時的なもの」か「見えないもの、いつまでも続くもの」かのいずれかです。未信者は前者を追い求めて生きています。しかし、クリスチャンは後者に目を留める者であると、御言葉は語っているのです。
 ルカの福音書12章に登場する金持ちに対し、神様は「愚か者」と語られました。なぜなら彼は、この地上の目に見える一時的なものだけを追い求めていたからです。それらは多くの苦労を重ねてやっと得ても、全部この世においていかなければなりません。一時的なものは、決して人間に本当の満足、幸福を与えることができません。彼はまさに未信者としての生き方でした。
 ところが、残念ながら、クリスチャンの中にも未信者のような生き方をする人がいます。それは実に空しい生き方です。もしその人にイエス様を信じる信仰があるのであれば、死後天国には入れます。しかし永遠に続くもの、すなわちこの地上で神様に従った報いを得ることはできません。神様が私たちにお与え下さる報いは、それぞれ異なります。私たちが今まだ見ることができない、神様が与えようとしておられる天の報いは、この地上のものとは比べようのない、はるかに素晴らしいものであり、永遠に続くものです。地上のものを思わず、イエス様を愛してイエス様のために行ったありとあらゆる労苦に対し、神様は天で大いなる報いを用意しておられます。価値ある人生とは、この報いを得る人生です。私たちクリスチャンは、この報いを得るために一度きりしかない人生を使うべきなのです。
 しかし、そのような人生を歩むとき、必ずキリストにある困難や迫害もつきまといます。なぜなら、この世の神である悪魔は、クリスチャンとしての態度を明確にし、神様だけを信頼して、世と分離して歩むクリスチャンを、誘惑や試練をもって執拗に攻撃するからです。悪魔の攻撃を恐れる余り、「それじゃ、適当な歩みをすればいいのでは?報いは少なくても天国は保証されているし、悪魔も攻撃の手を緩めてくれるだろうから、私はそれで結構です。」と口には出さずとも、そう考えるクリスチャンが出てくるかも知れません。この書簡を書いたパウロが受けた患難は、私たちのそれとは比べものにはなりませんでした(参照:Ⅱコリ11章)。しかし、彼はキリストのゆえに受ける様々な苦しみを「今の時の軽い患難(17節前)」と表現しています。それは、「私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす(17節後)」とあるように、比較する永遠の栄光、つまり報いがあまりにも重すぎることを神様から教えられていたらかです。
 永遠から見れば人生はほんの一瞬であり、イエス様のご再臨も間近です。とすれば、残された貴重な時間を見えるもののために生きてしまっては、勿体ない、愚かな人生と言わざるを得ません。どうか、私たち皆が自分の人生を価値あるものとするために、これらの御言葉を信じて、実際にそのように歩む者とさせていただきましょう。

2017年05月07日 ヤコブの手紙1章12節~18節より

 私たちはイエス様を信じたとき、神様の子どもとされました。すなわち、神様を父と呼ぶことが許されたのです。しかし、私たちは自分たちが置かれた立場の特権と同時に、大きな危険性も認識しなければいけません。それは、神様を敵として憎む悪魔を敵に回したということです。私たちはイエス様を信じる前は悪魔の奴隷として、悪魔の望むことばかりを行うものでした。しかし、イエス様を信じ、神様の側に立ったことで、悪魔からは裏切り者として激しい敵意を持たれ、日々攻撃を受ける立場に置かれているのです。悪魔は私たちクリスチャンの救いを奪うことはできませんが、それ以外のものならば奪うことができます。たとえば、主にあって喜ぶことや、主を証したり神様の喜ばれることを行い、永遠に価値ある人生です。悪魔はそれらのものを私たちから奪おうと24時間365日、休むことなく攻撃をし続けてくるのです。
 私たちに対する悪魔の攻撃は「試練」と「誘惑」ということができます。私たちが神様に忠実に仕えて歩もうとすると、試練がやってくるのです。たとえば、未信者に福音を語るならば、反発されます。それは、人間の罪を指摘することになるからです。また、日曜礼拝を仕事より優先させようと、職場の人に証しするなら激しい迫害にあうことも珍しくありません。悪魔はそんな時、「あまり神様を優先すると、今の仕事を失うぞ。」とささやいてくるのです。また、私たちが世のものに興味をもつように、一人ひとりに適した誘惑を持ってくることもあります。悪魔は私たちの弱点を知り尽くしているので、餌によって鳥を罠におびき寄せるように、私たちが魅力的に思うような物を餌に罠をかけてくるのです。ですから、悪魔の試練に戸惑ったり、誘惑に引き付けられるなら、証ができなくなったり神様との親しい交わりを絶たれるなど、永遠に価値ある人生を送ることができなくされるのです。
 私たちはこういった悪魔のささやきに耳を貸すのではなく、神様が何と言われているのかに注目するものでありましょう。悪魔は私たちに神様に従うならば、「持っているものを失うぞ。」と脅してきます。そして、「この世のものを得なさい。」と誘惑してくるのです。しかし神様は、「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(16-17節)と、語っておられます。神様は私たちから奪おうと考えておられるのではなく、与えようとしておられます。神様は私たちが真に価値ある人生を歩み、天において喜べるように必要なものすべてをお与えになられる方です。実に御子イエス様を惜しまず、死に引き渡され、身代わりに罰してくださったのです。イエス様以上に素晴らしいものは存在しません。ですから、それ以下のもので神様が与えることを惜しまれることは決してありえないのです。神様は今も、昔も、永遠に不変の方です。そして、私たちを全被造物中の初穂、すなわち、最も愛する対象として私たちを導いておられます。悪魔がいかなる試練や誘惑をもってきても、この神様の御愛を信じ、神様の御言葉を信じましょう。そして、永遠に価値ある人生を勝ち取るものでありましょう。

2017年04月30日 ペテロの手紙第一3章18節より

 かつて、裁判官である男性が、自分の実の弟に死刑判決を宣告するという出来事がありました。しかし死刑執行の前夜、兄は弟のもとに行き、自分が着ていた裁判官の服を弟に着せ、自分は弟の囚人服を着たのです。そして弟に「二度とこのような恐ろしい罪を犯さないように。」と言い、自分だけが牢獄に残りました。翌日、裁判官であった兄が、犯罪者である弟の身代わりとなって処刑されました。数日後、このことが明らかになりましたが、弟が犯した罪に対する刑罰は、もうすでに兄が身代わりとなって受けた後でしたので、その後この弟には何の刑罰も科せられなかったそうです。この出来事は「身代わり」のわかりやすい実例です。
 さて、この箇所には「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。(18節)」とあるように、イエス・キリストが私たちの身代わりとなられ、十字架で死なれたことが記されています。この事実から私たちは、いくつかのことを知らなければなりません。まず、私たちに身代わりが必要であるということは、私たち人間は元々罰を受けなければならない、ということです。次に身代わりとなる側には、罰を受けなければならない理由があってはなりません。そして最後に、身代わりとなる側は、多大な犠牲が伴うため、相手に対する大きな愛がなければなりません。これら三つの要素がすべて揃って、身代わりは成立するのです。
 聖い神様の御前において、人は誰しも罪人です。すべての人間には、生きている間に自分が犯した罪の裁きを、死後、永遠の地獄の炎の中で神様から受けることが定まっています。罪ある人間が、他の人間の身代わりとなることはできません。しかし、正しい方、すなわち、罪のない神の御子であられるイエス様が、悪い人々である私たちの身代わりとなって十字架で死なれました。神の御子であられる御方が、私たちを救うために、生きたまま釘付けにされ、尊い血を流され、いのちまでもお捨てくださったのです。イエス様はそれほどに私たち罪人を愛してくださっています。また、父なる神様も私たちを愛され、私たちが地獄で滅びることを望まれません。ですから、最愛の御子を救い主としてこの世にお遣わしくださったのです。イエス様は3日目の朝に死の力を打ち破ってよみがえられ、ご自身がまことの神の御子であられ、また私たちの唯一の救い主であることを公に示されました。キリストの復活は、数多くの証人、証拠に基づく、疑いようのない歴史的事実です。
 このようにして、今もなお、罪人に対する救いの道が開かれています。誰であろうと、どのような罪深い人間であろうと、自分自身の罪を認め、悔い改めて、ただこのイエス様を自分の救い主として信じ受け入れるなら、神様から罪の赦しと永遠のいのちが与えられます。その人は神のこどもとされ、死後天国へ入れる者とされるのです。どうか、御父と御子が示された、この大きな愛を決して踏みにじるようなことがありませんように。イエス様を信じ、地獄から救われる方となってくださるよう、心よりお勧めいたします。

2017年04月23日 ローマ人への手紙6章1節~11節より

 私たちクリスチャンは、バプテスマという儀式を行います。これは、クリスチャンが水の中に全身を浸けられてから、もう一度引き上げられるというものです。ローマ書6章の前半部分には、この儀式が型としてあらわしている真理が記されています。そしてこの真理は、私たちクリスチャンの歩みにおいて非常に重要です。
 6章1節には「罪を犯しても救いを失うことはない。それどころか罪の中にとどまるなら、かえって神様の恵みが現される」という考え方が記されています。これは『しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。』(5章20節)という御言葉に基づく考えです。確かに人間が罪を犯し、神様から罰されることになったので、神様はイエス様の十字架上の御業による、無代価の救いを用意してくださいました。これによって神様の素晴らしい恵みがあらわされました。しかし、だからと言って私たちが罪にとどまり続けるべきかというと、神様の答えは『絶対にそんなことはありません。』(2節)であるのです。なぜならば、私たちはイエス様を信じたとき、罪に対して死んでしまっているからです。私たちが未信者のときには、罪は暴君が奴隷を支配するように私たちを強制的に支配し、私たちがそれに抵抗することは決してできませんでした。しかし、イエス様を信じたときもう罪は私たちをそのように支配し続けることができなくなりました。なぜなら私たちは『罪に対して死んだ』(2節)からです。
 私たちは『キリスト・イエスにつくバプテスマを受け』(3節)ました。バプテスマという言葉の元々の意味は「浸す」です。つまり私たちは救われたとき、イエス様と一つのものとされたのです。ですからイエス様に起こったことが私たちにも起こりました。イエス様は人類の代表として、支配者としての罪に対して死なれました。ですから私たちも、イエス様と同様に罪に対して死に、その支配から解放されたのです。これを経験や感覚で知ることはできません。しかし、みことばが語っている以上、信じ受け入れるべき真理です。そして、このことを型として現したのが、バプテスマなのです。
 バプテスマで水に浸けられ、そこから引き上げられることは、私たちがイエス様とともに十字架で罪に対して死んでしまい、イエス様とともに死から復活したことを現しています。私たちは罪に服従して生きる空しい生き方から解放され、神様に対して生きることができる立場に置かれました。ですから、私たちはバプテスマの語る意味をよく理解し、それを信じ歩む者でありましょう。11節に『神に対して生きる者であると思いなさい。』とありますが、原語の意味を詳しく取り込むなら、『神に対して生きる者であることを計算に入れなさい。』となります。このことは、一度心に留めれば済むのではなく、絶えずイエス様に頼りながら、常に覚え続ける必要のある真理です。そうするならば、実際上の歩みも立場にふさわしく、罪に対して常に勝利することができます。イエス様に頼り続け、罪に対して勝利し、神様のために歩み続ける一人ひとりでありましょう。

2017年04月16日 ローマ人への手紙3章9節~24節より

 皆様は、この世界を創造された、まことの神様のご存在を認めておられるでしょうか?神様を肉眼で見ることはできません。しかし、神様がご存在されることは明らかです。なぜなら、私たちの身の回りには、神様に創造されたとしか考えられないものが、あふれているからです。たとえば人間の胎児は、母胎の中にいる間、羊水という液体の中で過ごします。水中にいる胎児は肺呼吸ができないため、母親からへその緒を通して酸素や栄養分を受け取ります。そのために胎児の心臓には、血液が肺を通らない特別な仕組みがあるそうです。ところが出産の瞬間、この心臓の仕組みが変化し、胎児は産声と共に自力で肺呼吸を開始します。常識的に考えて、このような複雑な仕組みが偶然に出来たとは考えられません。むしろ、創造主なる神様がご存在され、最初から人間をそのように創造されたと考える方が、理に適っています。この事実だけでも、まことの神様のご存在の説明は十分です。人間はまことの神様のご存在を認めなければなりません。
 さて、この神様の御言葉である聖書は、すべての人間が神様の御前に罪人であると宣言しています(10-11節)。罪の絶対的基準、罪人であるか否かの決定権、これらを持ち合わせておられるのは、絶対者なる神様だけです。聖い神様の御目に、人間がどれほど罪深い存在であるのか、聖書はそのことも明確に宣言しています(13-17節)。人間の心の中まですべて見通すことのお出来になる神様を前に、「私は正しい人間です。私は罪人ではありません。」と、もし言える人がいたらどうでしょう?その人はまさしく聖書が語る通り、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。(18節)」という、神を恐れぬ人です。また同時に、その人は自分がどれほど罪深く、また神様から遠く離れてしまっているかを、自分で証言していることにもなります。
 神様は聖い御方ですので、必ず罪を裁かれます。人間は決して死んで終わりではありません。「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する(19節)」とあるように、人間は神様に逆らって犯した数々の罪に対する裁きを、死後火と硫黄の燃える地獄で、永遠に受けなければならないと、聖書は警告しています。罪人が自分の努力や善行によって、この地獄から救われることは絶対にありません。すべての人間は神様を恐れ、自分の罪を認めて神様に救いを求めなければならないのです。なぜなら、神様は救いを願う人には、愛と憐れみと恵みとをもって、永遠の地獄からの救いを、喜んでお与え下さる御方であるからです。
 今からおよそ2000年前、神のひとり子イエス・キリスト様が、私たちを贖うために、十字架に架かって死なれ、3日目の朝によみがえらえました。「贖(あがな)い(24節)」には、代価を払って買い戻すという意味があります。私たち人間が、自分の罪の代価を自分で支払うためには、永遠の地獄に行く以外、方法はありません。しかし、イエス様は私たちを地獄から救うため、ご自分の聖い血(いのち)を私たちの罪の代価としてくださいました。そしてよみがえられ、ご自分がまことの救い主であることを証明されたのです。ですから、神様は自分の罪を認め、悔い改めてイエス様を自分の神、救い主として信じ受け入れる者の罪を赦し、死後に永遠の天国に入れる者として下さいます。逆に、神様のご存在や自分の罪、死後の裁きを一切認めない者は、死後の永遠を恐ろしい地獄の炎の中で過ごさなければなりません。どうか、イエス様を信じられ、この救いをご自分のものとされますように、心からお勧めいたします。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(23-24節)」

2017年04月09日 創世記3章1節~7節より

 ここに、人類最初の罪の記録が書かれています。アダムとエバは神様によって「食べてはならない。」と命じられている善悪の知識の木の実を食べ、神様に逆らいました。それは、彼らが悪魔に騙されたからです。その結果、彼らは永遠に生きるのではなく、死ぬべき者になり、死後地獄へ行くべき者とされました。また、その悪影響は人類全体に及び全ての人が地獄へ行くべき者となったのです。その後、神様が彼らに救いの道を示され、御自身の栄光を現されましたが、一時的とはいえ、人間を創造された神様の御名に傷をつけました。実に人間に罪を犯させ神様の御名に傷をつけることこそ、悪魔が彼らを誘惑した目的でした。これは今も変わりません。悪魔は今も私たちクリスチャンを誘惑し、罪を犯させようと働いています。それは、私たちの罪によって神様の御栄光に傷をつけ、神様を侮辱するためです。もし私たちの人生を通して、神様が侮辱されることがあったならば、これほど恥ずべき人生はありません。ですから、私たちは悪魔の誘惑に常に警戒し、悪魔との戦い方を知る必要があります。
 まず、『蛇は狡猾であった。』(1節)とありますが、原語によると、『光り輝く物は美しかった。』とも訳し得ます。ここから蛇が警戒心を抱かせない外見であったことが分かります。そして悪魔はその外見で、『あなたがたは園のどんな木からも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。』と言いました。これは神様が人間に命令された『どんな木からも食べてよい。』という命令と全く異なります。こうして、エバに神様への疑いを抱かせたのです。その上で、神様が『食べたら必ず死ぬ。』と仰せられたみことばを曲げ、『あなたがたは決して死にません。』と断言しエバを騙しました。
 同じように、悪魔は私たちが悪魔への警戒心と解くようにと、無害を装って近づき、その次に神様を疑わせようとしてきます。そしてもし、私たちがそれに動揺するなら、悪魔は御言葉に反することを言い、私たちに罪を犯させるのです。例えば、悪魔は私たちに『この世のものを楽しむなと神様は本当に言われたのですか?』とささやいてきます。そして動揺すると、『この世のものを楽しんでもいいではないですか。』と畳み掛けて来ます。エバが騙されて善悪の知識の木の実を見たとき、その実がとても魅力的に見えたように、私たちにもこの世的なものを魅力的に感じてしまう性質があるのです。ですから、悪魔と戦わないなら、私たちもエバのように罪を犯してしまい、神様の御栄光を傷つける危険性があるのです。
 ですから、エバの失敗から悪魔との戦い方を学ぶ必要があります。2節~3節によると、エバは神様が語られていない命令を勝手に付け加え、神様が断言されたことを「~かもしれない。」と弱めて語りました。それはみことばを心に留めず、軽んじていたからです。悪魔と戦う唯一の方法は、みことばをしっかりと心に留め、それを実践することです。その良い実例がイエス様です。イエス様は悪魔に誘惑されたとき、御自身の御力を一切使われず、みことばのみで撃退されました。私たちもイエス様に習いみことばで悪魔に対抗しましょう。そのためにも、普段からみことばを学び、神様と深い交わりを持つものでありましょう。そして、神様の御栄光を現す人生を選び取るものでありましょう。

2017年04月02日 使徒の働き26章17-18節、20節より

 ここには、イエス様がパウロに語られた御言葉が記されてあります。その内容は、パウロに与えられた異邦人伝道の務めです。しかし、観点を変えて読むなら、イエス様を信じる前の私たちがどのような状態にあったのか、そしてそこから私たちが、どのようにして救われたのかを知ることができます。クリスチャンにとって、福音を繰り返し聞き、学び続けることは大切です。なぜなら、信仰歴が長くなると、自分の救いが当然であるとまでは思わなくても、自分と不信者の歩みが全く違うことが、さも当たり前であるかのように勘違いする傾向があるからです。では、救われる前の私たちはいったいどのような状況の中におかれていたのか、いま一度確認してみましょう。
 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ(18節前半)」とあるように、かつての私たちの霊的な目は完全に閉ざされ、自分の人生の目的や死後について全くの無知でした。暗闇の中を進み続けることは恐怖であり危険です。ところが、私たちは真っ暗な山道をライトも点けず猛スピードで走る車のように、無知のハンドルを手に、ただひたすら懸命に幸せを求めて人生という道を突っ走っていたのです。そしてその行き着く先は、罪の裁きであり、永遠の地獄でした。悪魔の狙いは、神様が愛しておられる人間達を、一人でも多く永遠の地獄に道連れにすることです。悪魔はありとあらゆる手段を用いて、人間の目を神様から反らそうとします。悪魔は偶像(宗教)や流行を生み出しては人間を騙し、それらをうまく利用して、その背後にいる自分を拝ませたいのです。悪魔の支配下におかれた罪人は、生きれば生きるほど聖い神様の前に罪を重ね、やがて自分に降りかかる永遠の裁きの呪いと苦しみを、日々自分の身に増し加え続けるしかありません。何と恐ろしい絶望的状況の中に、私たちはおかれていたことでしょう!
 しかし、感謝なことに、私たちは神様の憐れみと恵みとによって目が開かれ、神様に立ち返る者とされました。立ち返るとは「悔い改め」を意味します。すなわち、罪人の自分が地獄での裁きに相応しい者であることを完全に認め、心の向きを変え、身を低くしてイエス様を自分の救い主として信じ、心に受け入れたのです。「わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ(18節中)」とあるように、十字架で私たちの罪を負われ、身代わりとなって刑罰を受けて死なれ、さらに死後3日目の朝によみがえられた主イエス様を信じる信仰が私たちに与えられ、私たちは救われました。いま私たちは、すべての罪が赦され、死後、永遠の天国に入る者とされています。しかも、「聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(18節後半)」とあるように、素晴らしい祝福を受け継ぐ者とまでされているのです。
 パウロは「悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来た(20節)」と語っています。神様の願いは、悔い改めた者がそれにふさわしい歩みを願い、神様の力によってその歩みを全うすることです。私たちは悪魔が提供するモノに惑わされず、神様にのみ目を向け、神様の喜ばれる歩みをしているでしょうか?今一度、私たちがどこから、どのようにして救われたのか思い出し、神様の恵みに応えるひとり一人でありますように。

2017年03月26日 コリント人への手紙第一15章50節~58節より

 ここで語られている奥義とは、イエス様の空中再臨時に私たちクリスチャンのからだが新しいからだに変えられて、栄光のからだをもつということです。その時生きている信者たちは死を経ずに新しいからだに変えられ、死んだクリスチャンも霊やたましいだけの姿で過ごすのではなく、その時、栄光のからだにされるのです。では、このからだとはどのような性質をもっているのでしょうか。確かなことは、今私たちの中にある罪の性質を一切持っていないということです。現在、私たちは罪に対して勝利できる立場が与えられています。しかし、歩みにおいては罪を犯す危険を常に持っていて、残念ながら失敗することもあります。そのため、立場と実際の歩みに差が生じるのです。しかし、栄光のからだにはその罪がなくなるため、立場と状態が完全に一致するのです。また、栄光のからだとは、イエス様が復活されたときにもっておられたからだと同じ性質をもっています。イエス様は閉じられた空間に突如として現れ、話し終えられると消えることがおできになりました。また、弟子たちの目の前で天へと昇られました。このような特徴をもったからだを私たちも持つことができるのです。この真理を覚え続けることは大切です。それは、私たちがこの地上で持っている身体を必要以上に大切に扱いすぎて、主の働きに十分に与れなくならないためです。32節を読むならば、実際にコリントの教会の中に、死者たちの復活を否定して、飲み食いを主の働きより優先しようとする者たちがいたことが示唆されています。しかし、死者たちの復活は確実に起こり、私たちのからだは栄光のからだに新しくされるのです。私たちは物を買い換えるとき、古いものは捨てられる物として最後まで使い切り、いつまでも丁寧に使おうとはしないはずです。私たちのからだも、新しいからだに変えられることが確定しているのですから、ためらわず、主の働きのために今のからだを使い切る者でありましょう。危険な地域で伝道されている海外の宣教師たちはこのことを実践しているといえます。もし、今の身体を重視しすぎるなら、日本に留まることを選んだはずです。しかし、自分の身体の使用期間がわずかでありまもなく新しくされることを確信していたので、自分の身体が損なわれることを恐れず、主のみことばを宣べ伝える働きに熱心に仕える事ができたのです。私たちも自分の身体を出し惜しみせずに、神様に捧げつくす者でありましょう。この地で神様に熱心に仕えるあまり身体を損なうことがあったとしてもその働きが無駄になることは決してありません。悪魔は私たちに今の身体を必要以上に守るように誘惑しますが、動揺せず神様のために自分自身を捧げ尽くす者でありましょう。

2017年03月19日 ルカの福音書17章11節~19節より

 この箇所には十人のツァラアト(らい病・ハンセン氏病)に冒された人が、イエス様によって癒やされた出来事が記されてあります。実は、この十人と私たちクリスチャンには、いくつかの共通点があります。
 ツァラアトは、当時死に至る不治の病でした。彼らには自分でその問題を解決することができず、ただ死を待つだけでした。私たちも、自分で解決できない罪の問題があり、その結果死後の裁きである永遠の地獄に向かっていました。第一の共通点が、ここにあります。
 次に、彼らはイエス様に救っていただきました。彼らは「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(14節)」というイエス様の御言葉を信じ、祭司に見せに行く途中で癒やされました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。(19節)」というイエス様の御言葉からもわかるように、彼らは信仰によって不治の病が癒やされたのです。私たちも彼らと同様に、十字架上で私たちの身代わりとして死なれ、復活されたイエス様を信じる信仰によって、永遠の地獄からイエス様に救っていただきました。第二の共通点が、ここにあります。
 ここまでは、救われた私たちも、癒やされた十人も共通しています。しかし、この後の行動を見るとそこに大きな違いが生じます。十人のうち一人は、自分の癒やされたことがわかって、大声で神をほめたたえながら引き返し、イエス様の足もとにひれ伏して感謝しました(16節)。なぜなら、彼は自分を心からあわれみ、愛をもって癒やして下さった御方の存在に気づいたからです。
 人間社会でも、与えられた物を喜ぶだけではなく、その物を与えてくれた方に心から感謝し、また犠牲をはらってでもその物を与えた人自身を喜ぶ態度は、大切です。私たちの救いに関しては、これ以上のことが言えます。私たちの側にイエス様に愛される値打ちや資格は全くありませんでした。しかし、イエス様は私たちへの愛ゆえに、十字架上で私たちの罪を負われ、罪の刑罰をその身にお受け下さったのです。私たちは自分が救われたことを喜ぶことだけで満足していないでしょうか?私たちは、日々この御方に真心からの感謝を捧げて歩んでいるでしょうか?そして何より、私たちを永遠の地獄から救うために、いのちまでもお捨て下さったイエス様を喜び、このお方の愛にこたえたいと願っているでしょうか?この感謝と愛をあらわす場が、日曜日の礼拝です。ですから、本当のクリスチャンは礼拝を重んじます。そして、ただ週に一度だけイエス様に感謝し、イエス様に愛をあらわすだけでなく、私たちは毎日、自分の人生のすべてをかけてこのお方に感謝と愛をおささげするものでありましょう。
 さて、最後に、ではなぜこのサマリヤ人だけがイエス様のもとに戻ってきたのでしょうか?イエス様が、「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(18節)」 と語られているように、彼以外の者はみなユダヤ人でした。彼はユダヤ人から見れば部外者だったのです。それゆえ彼には強い罪の自覚もありました。ですから彼は、イエス様からあわれみを受けた時に、その喜びやイエス様への愛、感謝もひときわであったのです。この点でも、私たちは彼と同じような者であらせていただきたいと、主に願う一人ひとりでありたいと願います。

2017年03月12日 コリント人への手紙第一12章12節~27節より

 神様が私たちクリスチャンに願っておられることは、私たちが神様に熱心にお仕えし、神様のご栄光をあらわすために生きることです。しかし、全てのクリスチャンが熱心に神様に仕えたいと願っているわけではありません。ある人は自分の身体的弱さや、年齢、性別などの欠点を理由に、「神様は私のようなものを用いてくださらない」とあきらめてしまっています。また別の人は、開き直って「私は救われただけで十分です。残りの人生は好きに生きます。」と考えます。しかし、それらは神様が求めておられる姿ではありません。神様は私たちが「熱心な、世から分かたれ、聖別された特選の民」として、ふさわしく歩むことを求めておられるのです。そして、今日学ぶ箇所を見るならば、これらの考えが間違いであるとはっきりわかるのです。
 13節に私たちは、イエス様を信じた瞬間からキリストのからだに、聖霊なる神様の御働きによって組み入れられたとあります。そして、『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(27節)とあるように、全てのクリスチャンがキリストのからだの各器官とされています。このからだの頭はキリストです。つまりキリストは今、私たちというご自分のからだを通して、この地上で働いておられるのです。その目的は神様の御栄光をあらわすことであり、具体的には福音伝道と、教会の成長です。
 人間の器官を見るなら、眉毛や内臓と言った無益に見える器官や、働きが目に見える形で行われない器官にも、身体全体に不可欠な働きをすることが最近知られています。人間のからだに不必要な器官は一つもありません。当然それと同じように、キリストのからだにも不必要な器官、すなわち不必要なクリスチャンは一人もいません。すべてのクリスチャンが神様の御栄光のために用いていただくことができるのです。例えば伝道という働きについて考えると、私たちがおかれている場所は様々です。そして、その場所に赤の他人が行って伝道することは困難でしょう。そこで伝道できるのは、そこで働いている私たちだけなのです。ですから同じ伝道でも、その人にはその人しかできない働きがあたえられています。
 また、どの器官であっても、一つが機能しないなら、身体全体が望んでいることを十分行えません。同様に、あるクリスチャンが、自分もキリストのからだの器官だということを忘れ、与えられている働きを放棄するなら、キリストが望んでおられることを十分に行えなくなるのです。「救われたからそれで十分です。」と開き直ることは神様が私たちに与えてくださった特権を放棄することであり、キリストのからだの一器官としての責任を放棄することになります。
 私たちクリスチャンの働きの大小や、その結果の差は確かにあります。しかし、どの働きもキリストのからだの働き全体にとって不可欠であることを忘れてはいけません。
 では、他に教会の成長のために具体的に何をすればよいのでしょうか。もし、それが明らかでないなら祈りをもって働きを求めればよいのです。神様は私たちに最善の働きを用意しておられるからです。さらに、求める人には必ず、「この働きに与りたい。」と願う心も与えてくださいます。そして実際に訓練を与えて、その過程でさらに求める思いを強め、その働きができるようにと、必要な賜物もお与えになるのです。どうか、全てのクリスチャンが自分もキリストのからだの器官であることを覚え、神様から与えられた働きを信仰に基づいて行う一人ひとりでありましょう。

2017年03月05日 コリント人への手紙第一15章1節~8節より

 この箇所には人間にとって最も大切なこと、すなわち福音の内容が端的に記されています。神様は聖書を通して「この福音によって救われる(2節)」と、明確に語っておられます。では「救い」とは何でしょう。この世の人は病苦や貧困、人間関係の問題などからの救いを、宗教に求めようとします。クリスチャンと呼ばれる人の中にでも、その人が抱える目の前の悩みを解決することが、あたかも救いであるかのように考える人がいます。また、人間にとって耳あたりの良い「神様の愛」だけを伝えることが、その人の救いにつながると考える人もいるようです。それらは人間に一時的な気休めや満足感を与えることが出来るかも知れません。しかし、聖書が語る救いは、永遠の地獄で受ける罪に対する裁きからの救いです。この地上で生きている間の様々な問題が、たとえすべて解決したとしても、もし死後に永遠の地獄に行ってしまうならば、その人の人生は、決して恵まれた幸せな人生だったとは言えません。永遠に比べれば、人間の一生などほんの一瞬に過ぎません。ですから、私たちは人々に真剣に福音を伝えるのです。では、私たちが伝える福音とはどのようなものでしょう?
 「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた(3節)」とあるように、私たちはまず第一にその人に必要な救いが、いったい何からの、何処からの救いなのか、明確に語らなければなりません。すなわち相手の罪を指摘し、その結果の地獄でのさばきについて聖書から正確に語らなければならないのです。
 そして、「また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたこと(3-5節)」とあります。つまずきとなるという理由から、歴史的事実であるキリストの復活を公に語らない教会もあるようですが、論外です。どの宗教家も死んだならそれで終わりです。しかし、イエス様だけがまことの神であられ、救い主であられるので、その証明として復活されました。ですから、イエス様の復活について語ることも非常に重要です。
 さて、いわゆるキリスト教世界の中で、人々から尊敬を集めたマザーテレサという女性がいました。しかし彼女は、人を地獄から救う福音を語らなかったそうです。本当の救いを知らない彼女は、人に一時的な気休めを与えるだけの人物でしかなかったのです。彼女は死に臨む人に向かい、聖書から人間の罪と、その罪に対する刑罰である死後の永遠の地獄を伝え、そのうえで十字架の死と復活を通して、信じる者を救うことができるイエス様を伝えませんでした。むしろ、偶像礼拝を許容し、そのままで神様は受け入れてくださるというような騙しごとを語りました。ですから、彼女は人々を助け救おうとしたのかもしれませんが、その結果は何もなく、むしろ人々を地獄に行く手伝いをしてしまったことになるのです。
 そして「あなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われる(2節)」という御言葉も大切です。福音を十分理解せず、よく考えもしないで信じるといっただけであるなら、人は決して救われません。しかし、福音を神様によって理解させていただき、イエス様を信じた人は、神様がしっかりとその人を保って下さいます。どうか、私たちの一人ひとりが、まず福音を聖書から正確に理解する者でありますように。そして恐れることなく、ますます喜んで多くの人々に、この福音を宣べ伝える者としていただきましょう。

2017年02月26日 ヨハネの福音書14章1節~3節より

 イエス様は十字架にかかる前日、弟子たちに「心を騒がしてはならない。」(1節)と言われました。なぜなら、イエス様はもうすぐ十字架で死に、復活し、天に帰られる日が近づいていたからです。弟子たちは、今までのように見える形でイエス様に頼る事ができなくなりつつあったのです。しかも、イエス様を十字架にかけた世人に向かって、「自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主として信じ受け入れよ。」と福音を宣べ伝えて行かなければならなかったのです。だから、イエス様は弟子たちを励まされたのです。これは私たちクリスチャンにとっても励ましです。なぜなら、私たちも地上で主に忠実に歩み、福音を忠実に伝えようとするなら必ず、様々な迫害や問題に遭うからです。その時、心を騒がさないように主に頼ることができるよう、励ましとなるみことばがあります。それが、イエス様の「また来る」という約束です。実にイエス様は宣言通り、「ご自身天から下って来られ」るのです(第一テサロニケ人への手紙4章16、17節)。本来迎えに行く義務のないイエス様がわざわざ来られるのは、私たちを心から愛しておられるからです。また、親と引き離され悲しみの中にいる子どもが親と再会した時、大きな喜びをもって迎えるように、私たちにとって愛するイエス様が迎えにきて下さることは大きな喜びです。その時が来れば、たとい地上でどれだけ苦しい問題を抱えていてもその問題はすべてなくなるのです。さらに、私たちの身体も新しい身体に変えられると聖書は語っています。天に行けば、罪がなくなり、病や疲れからも解放され、心行くまでイエス様のみことばを聞き続け、仕え続け、賛美し続け「いつまでも主とともにいることになるのです。(Ⅰテサロニケ4章17節)」ですから、イエス様が迎えに来てくださることは私たちにとって大きな励ましなのです。
 1節~3節で語られている事はユダヤ人の男性が婚約した時、住む家を備えた後女性を迎え、結婚する習慣になぞらえたものです。イエス様は私たちクリスチャンを一人の花嫁として見てくださっているのです。そして早く私たちを迎えたいと現在天で住まいを備えて折られるのです。ですから、今の教会時代は婚約期間と言えます。そして、イエス様が迎えに来てくださるなら、天で結婚式が行われるのです。これは、私たちにとって、大きな祝福です。しかし、イエス様が私たちを迎えに来られた時、私たちがそれを待ち望まず世の物に目を向けているなら、イエス様は悲しまれます。それは丁度、男性が婚約者の女性を迎えに来たのに、当の女性がそれを余り喜んでいないので、男性が悲しむことと同様です。ですから、イエス様は黙示録22章で三度も「見よ。わたしはすぐに来る。」と語られている約束を覚え続けましょう。現在、このみことばが書かれて二千年もたっています。しかし、神様にとって、千年は一日のようであり、決して約束を遅らせようとしておられるのではありません。私たちは「アーメン。主イエスよ、すぐ来て下さい。」と日々待ち望むものでありましょう。

2017年02月19日 ペテロの手紙第一2章1節~2節より

 クリスチャンにとって、新しいいのちの成長はとても大切です。私たちは日々それを神様に求めなければなりません。イエス様を信じた人は、神様から新しいいのち、永遠のいのちをいただきました。このいのちは、神様を愛したい、神様にお従いしたい、神様をお喜ばせしたいなど、それまでの私たちになかった新しい願いを持っています。当然、イエス様を信じていない人に、このような願いは全くありません。そして、この新しいいのちの成長とともに、私たちの願いも日増しに強くなるのです。ところで、永遠の地獄からの救いは、決して新しいいのちの成長の結果ではありません。「救いを得るため(2節)」の本来の意味は、「救いに至るまで」であり、クリスチャンの新しいいのちは、救い、ここでは空中再臨の日まで成長をし続けるというのが本来の意味です。では、なぜ成長が大切だと言えるのでしょうか?
 人間の心身の成長を例に考えて見ましょう。幼い子供は騙されやすく、悪に対する抵抗力がない特徴を持っています。クリスチャンも同じです。悪魔は、罪の誘惑や誤った教えなどをもって、クリスチャンに攻撃をしかけてきます。神様を愛し、神様を信頼し、神様のご栄光を表して歩もうとするクリスチャンの人生を、悪魔は破壊しようと企んでいるからです。救いの確信を揺るがせ、神様への不信感を抱かせる、これらも悪魔の常套手段です。信仰の幼いクリスチャンは、悪魔の騙しごとに抵抗できません。霊的大人であるクリスチャンなら回避できる悪も、霊的幼子のクリスチャンだと、引っかかってしまうこともあります。しかし、成長を遂げたクリスチャンであるなら、神様から知恵と力をいただいて、悪魔に打ち勝ち、神様の役に立つ器として用いていただけるのです。
 また、人間の親にとって子供の成長は楽しみであり、大きな喜びです。神様も私たちの働きのみならず、私たちの成長そのものを喜ばれる御方なのです。罪人として生まれ、永遠の地獄の裁きが相応しかった私たちが、全知全能なる神様をお喜ばせ出来るというのは、実に驚きであり感謝です。ですから、私たちは熱心に新しいいのちの成長を、自分の信仰の成長を、いつも神様に願い求め続けなければなりません。
 では、そのために必要なことは何でしょう?「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。(1-2節)」この箇所で、神様は御言葉(聖書)を乳に例えられ、それを慕い求めるように語っておられます。乳飲み子は、大声で乳を求めます。乳が与えられるまで泣き止みません。そしてこの乳によって成長します。私たちにとって御言葉は、新しいいのちの成長を促す唯一の霊的食物です。新しいいのちの成長は、御言葉以外のものでは絶対に望めません。私たちは乳飲み子のように御言葉を慕い求めているでしょうか?救われたことに満足し、自分の信仰の成長を、神様に願ってなくはないでしょうか?それは神様を悲しませる誤った考えです。どうか、再臨の日に至るまで、私たちはますます御言葉を学び、神様に成長させていただく者でありましょう。霊的成長を遂げた者とされることを、熱心に求める者でありましょう。

2017年02月12日 マタイの福音書26章1節~12節より

 過越しの祭りの二日前、イエス様が十字架にかけられる直前に様々な人が登場します。彼らのイエス様への態度から、彼らがイエス様をどう評価し、その結果どう行動したのかを学ぶ事ができます。まず、祭司長について考えます。彼らは民を神様へ導くという役目を持っていたにも関わらず、神の御子であるイエス様を殺そうとしていました。別の福音書では彼らがイエス様の命を狙ったのが、自分の職を守るためであることが書かれています。彼らにとって大切なものはイエス様ではなく、お金や自分の生活であったのです。次に弟子たちについて考えます。彼らは一人の女が高価な香油をイエス様の頭に注いだとき、「無駄遣いだ。」と憤慨しました。彼らの言い分は貧しい人への施しというもっともらしいものですが、イエス様が彼女の行為を「立派だ。」と評価されていることから、弟子たちの言い分が間違っていることは明らかです。さらにもし、彼女が非常に高価な香油を売って、それら全てを施しに当てるなら、人々の目は恵みを与える神様ではなく、彼女自身に向いてしまうことになります。それは彼女の行動が非常に目立つからです。このことから、弟子たちが考えている価値のある行為は、香油をイエス様に注ぐという目立たない行為ではなく、大金を寄付するという目立つ行為であったのです。それは彼らが人から褒められたいと考えていたからです。彼らにとってイエス様よりも自分自身の名誉のほうが大切であったのです。そして、イスカリオテ・ユダについて考えます。彼はイエス様と三年半ともに行動し、イエス様の奇蹟を間近に見、みことばを聞き続け、自分でも奇蹟を行うことを許されるという特権に与りながら、最後には銀貨三十枚(約百万円)というはした金でイエス様を売ってしまったのです。このように、多くの者たちが、イエス様のすばらしさを目にしながら、イエス様ではなく自分を愛したのです。しかし、彼らとは全く違う行動をした一人の女について考えましょう。聖書には名前の記されていないこの女性は、自分の全収入である香油をイエス様の頭に注ぎました。その動機はイエス様の埋葬の準備であったことが、イエス様の発言から分かります。彼女はイエス様が十字架上で自分の罪を身代わりに負い、自分を死後の地獄の裁きから救う救い主である事を信じ受け入れていたのです。そして、イエス様の死が間近である事を知り、唯一の機会を十分に生かし、イエス様への感謝と愛を持てる限りの力をもって捧げたのです。そして、13節を読むならば、イエス様の評価が、彼女の人格ではなく彼女の行為に向けられている事が分かります。神様は彼女のイエス様への献身を非常に喜ばれていたのです。だから、イエス様によって永遠に記憶され、評価されると約束されたのです。これは他の者たちが愛した、金、仕事、名誉といった儚く消え去る空しいものとは著しく違うものです。私たちも、彼女のように、天においてイエス様が喜び、評価される働きを行うことができるのです。働きの大小や、人から見て目立つ働きかどうかではなく、「イエス様から見て喜ばしいものであるかどうか。」を考え、行動するなら、神様はその働きを覚えておられ、その結果を私たちに教えてくださいます。地上においては分からないかもしれませんが、天において必ず知らされます。その事に確信を持ち、日々神様に喜ばれる歩みをする者でありましょう。

2017年02月04日 エペソ人への手紙2章1~10節・1章23節より

 世の中には腕の良い職人と呼ばれる人が大勢います。彼らは作品を作る際、その材料や道具にこだわることでも知られています。しかしこの箇所には、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(10節前)。」とあるように、神様がご自身のご栄光を表すために造られる作品の材料が記されています。それは私たちクリスチャンです。では、材料とされる私たちとは、いったいどのような者でしょう?
 イエス様を信じる前の私たちは、「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」「空中の権威を持つ支配者(悪魔)…に従って歩んでいた者」「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(1-3節)でした。元来人間は、神様を愛し、神様を礼拝し、神様と共に歩むという目的のために、神様によって造られました。しかし人間は罪を犯し、神様の御前に生まれつき死んだ者となったのです。その結果私たちは、この目的から外れ、神様を無視し、偶像を拝み、欲望のまま生きる者となりました。また、罪人として生まれた私たちには、神様に喜ばれる歩みをしたいという願いも力も全くありません。むしろ救われる以前は、喜んで悪魔の命令に従い、神様の忌み嫌う罪を犯していたのです。死後、永遠の地獄で罪の裁きを受けることのみがふさわしい罪人、それが私たちでした。
 ところが、神様がこんな最悪の私たちを材料とされ、作品をお造りになるとは実に驚きです。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに(4節)」とあるように、神様は最愛の御子であるイエス様を、私たちの罪のために十字架におつけ下さることによって、まずその愛を余すところなくお示し下さいました。愛される価値のない私たちが、イエス様を信じて恐るべき地獄から救われたのは、神様の「ただ恵みによる(5節)」のです。さらに、イエス様を信じたすべてのクリスチャンには「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(6節)」という、素晴らしい立場が与えられています。私たちは天で着座しておられるキリスト様と、一体とさせられてしまっており、今、キリストにあって、神に対して生きる者とされてしまったのです。「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(8節)」
 そしてこのように私たちが恵みによって救われ、すばらしい立場が与えられたことは、ある目的のための下準備です。エペソ人への手紙の主題は「教会」であり、神様はこの地上において、キリストをかしらとする「キリストのからだなる教会(23節)」を造られ、そのからだを通して、ご栄光を表そうとしておられます。真実なクリスチャンは全員、キリストのからだの構成員とされ、この地上で神様のご栄光を表す特権に与っています。からだに不要な器官はひとつもありません。同様に、すべてのクリスチャンには必ず役割、すなわち賜物が与えられ、「良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備え(10節)」られています。ですから、私たちがこの御言葉を信じて神様に頼るなら、神様は私たちを通してはたらかれ、神様にご栄光が帰されます。どうか、自分の無力さにのみ目を向け、不信仰に陥ってこの恵みを無駄にする人がひとりもいませんように。ますます神の作品としての自覚を強めて下さり、神様の恵みに目を留め、恵みに頼り、より神様のご栄光を表す者として歩ませていただく者でありましょう。

2017年01月29日 伝道者の書7章2節より

 ある病院のポスターに「安穏死」についての講演の予告が書かれていました。要約すると、「人は皆、管につながれながら死にたくはない。しかし、家族は延命治療を望んでいる状況がある。だからどのように死を迎えるかについて考えることが大切だ。」というものです。
 実に神様も『祝宴の家に行くよりも、喪中の家に行くほうがよい。そこにはすべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。』と死について考えるべきであると言われています。一方人はできるだけ死について考えないように、目をそらそうとする傾向があります。しかし、死は自分が考えている時には来ません。ずっと先である場合もあるかもしれませんが、明日来るかもしれないのです。たとい、長生きするにしても、誕生日を向かえるごとに死に一歩ずつ近づいている事には変わりはありません。死を避けて通ることができないからです。また、聖書は人が死んでも、それで終わりではないと語っています。実に神様は、どのように死ぬかについてではなく、死後の問題について考えることを望んでおられるのです。
 ヘブル人への手紙9章27節には『人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。』とあります。罪を犯した人間は、神様の前で生前犯した罪の裁きを宣言され、永遠の火の池である地獄に行かなければならないのです。罪を犯した人と聞けば、人間的な感覚では「凶悪犯」を思い浮かべます。しかし、聖書に『義人はいない。』『全ての人は罪を犯した。』と書かれているように、全ての人が罪を犯したのであり、死後神様から裁かれるべき存在であるのです。神様の正しさの基準は人間よりもずっと高く、たとい人のものを「欲しい。」と心で思うだけで「盗み」の罪になるのです。そんな私たち人間が犯しうる最も重い罪は、神様を無視して生きる事です。なぜなら、私たちが生きて育つことができているのは全て、神様の御働きがあるからです。たとえば、私たちの心臓が止まらずに動いていること、日々食べる食料が与えられていること、この地球環境が人間の生きていける環境になっていることなど、挙げればきりがありません。その神様を無視し、自分の欲望に従って歩む事は神様に対する重大な罪です。ですから、死後私たち人間は皆、神様によって罪に対する刑罰を受けなければならないのです。
 しかし、神様は私たちを地獄から救うため、御子イエス様を人として、地上に遣わし、十字架につけられました。その上で、私たちが地獄で受けるべきすべての罪の裁きを注がれたのです。イエス様はこの十字架において言語を絶する苦しみに耐え、身代わりに罪を負い、死なれました。このイエス様を真の救い主として受け入れる人は、罪が赦され地獄から救われ、天国に行けます。後は、私たちがこのことを受け入れるかどうかにかかっています。地獄から救われることこそ、本当の安穏な人生であり、そればかりか喜びに満ち溢れた人生です。間違っても、地獄へ行く事のないように、イエス様を受け入れ天国へ行く者となってくださることを心からお願いします。

2017年01月22日 ヨハネの福音書10章24節~30節より

 自分が地獄からの救いを得ていると、確信することは非常に大切です。しかし、信仰告白をした後の自分の歩みを見て、あるいは将来の自分の状態に自信がもてず、不安を抱くことがあるかも知れません。「自分は本当に罪の赦しを得ているのだろうか、死後に永遠の地獄ではなく、必ず天国へ入れるのだろうか?」と、救いの確信をもてていないならば、平安をもってこの地上を歩むことは決してできません。また、自分が救われているかどうかわからないなら、神様に心からの感謝と喜びをもって、礼拝をお捧げすることも不可能です。さらに言えば、人に伝道もできなくなってしまいます。自分が確信していないことを、人に信じさせることは不可能です。
 さて、しかしイエス様はご自分を信じる者、すなわち一度救われた者は、決して救いを失うことはない、とはっきりお語りになりました。この箇所において、イエス様は「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。(27節)」とお語りになられました。私たちはまさに、福音を聞かされたときに、それが人間の考え出した宗教や哲学でなく、イエス様の十字架の死と復活が歴史的事実であり、イエス様こそ私たちを救う唯一の救い主だと信じ受け入れることができました。それは私たちがイエス様の羊とされていたからです。そしてイエス様は、信仰告白したご自身の羊である私たちについて、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(28節)」と、語られました。
イエス様ご自身が「決して滅びることがない」と約束され、「永遠のいのち」をお与え下さいました。クリスチャンの救いは「わたし[イエス様]の手」によって完全に守られ、永遠に保たれています。救いの保証は、私たちの意思の強さ、性格、熱意、努力とは関係ありません。なぜなら、イエス様ご自身が保証人となられ、責任を負っておられるからです。さらなる励ましの約束が続きます。「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(29節)」何と「すべてにまさって偉大な父の御手」によって、私たちは二重に守られていることが記されています。
 自分の罪深さを知れば知るほど、ある人は自分の救いを疑うかも知れません。しかし、神様は私たちの弱さ、愚かさ、醜さを十分ご存知じのうえで、なお私たちを愛されました。そして御子の御血を代価とされ、御子を信じる者に罪のゆるしと永遠のいのちを与え、神のこどもとし、その救いを今も永遠に保証しておられるのです。救いを疑うことは神様を悲しませる行為です。ですから、私たちはこれら約束の御言葉を信じ、自分の救いについて、いっそう強い確信をもつ者であらせていただきましょう。

2017年01月15日 出エジプト32章1節~14節より

 イスラエルの民はアロンに自分たちの神を造ってくれと願い、金の子牛を拝むという偶像礼拝の罪を犯してしまいました。神様はこの罪を最も憎まれます。なぜなら神様は全てを創造し、私達を生かし導かれている偉大な方であられるからです。そして、人間の手で作った無力な像を神として頼って生きようとする事はその神様に対する重大な冒涜であるからです。神様がその罪をいかに憎んでおられるかは、9節、10節でモーセ以外の全ての民を絶ち滅ぼすと仰せられるところを読むならば良く分かります。
 ではなぜ彼らは偶像を造ろうとしたのでしょうか。1節によると、彼らはモーセが山から降りてくるのに手間取っているのを見て、アロンに自分たちを導く神を作るよう頼んでいます。ここから、民はエジプトを出てから今に至るまで神様にではなくモーセに頼っていたことが分かるのです。以前エジプトを出るとき彼らを『わたしの民』と呼んでいた神様がここでは、『モーセの民』(7節、8節)と繰り返し表現しておられ、それに対して、モーセが、「あなたの民」と神様に訂正を求め、とりなさなければならないことからも分かります。
 さて、イスラエルの民が神様ではなく、モーセを見たように、私たちも神様以外の物に頼ってしまう危険性は十分にあります。そしてこの問題の難しいところは、自覚なしに長期間、神様以外のものに頼ってしまうことが多いことです。イスラエル人たちが堂々と偶像礼拝をしたのはこの時からでしたが、彼らが神様でなく目に見えるモーセに頼っていたのは、エジプトを出たその時からでした。実にイスラエルの民もエジプトを脱出するときには、神様に頼っているかのように振舞っていましたし、彼ら自身もそう考えていたでしょう。
 同様に私たちも知らず知らずのうちに神様以外の物に頼り、何か問題が起こり、その不信仰が発覚するまで気づかない危険性が十分にあるのです。例えば、ある人がお金に頼っているという自覚が無くても、貯金の残高が思った以上に下がったとき、不安になり献金を控えようと考えてしまうなら、その人は自覚の有無にかかわらずお金に頼っていると言えます。また、ある人が「自分には力がある」とあからさまに思っていなくても、働きが変わると自分の力に目が行き、働きを続ける事に不安を覚えてしまう事があるなら、自分自身に頼っていたと言わなければなりません。このように、神様ではない目に見えるものに頼っている人は必ず痛い目を見る事になります。しかし、私たちが目を留め頼り続けるべき方は神様だけです。そして神様のみに頼り、歩もうとする者に神様は必ず報いてくださいます。なぜなら、親が子から信頼されるならば、それを喜び、子の期待にこたえたいと全力を尽くすように、神様も御自身のみを信頼し、歩もうとする信仰者を喜び、それに応えたいと考え、全ての助けを必ず与えてくださる方だからです。私たちの周りにある問題と思える全てのことも神様にとって難しい問題ではありません。目に見えるものに頼らず、絶対に裏切らず助けてくださるこの神様に頼り歩む一人ひとりでありましょう。

2017年01月08日 創世記4章1節~2節より

 アダムとエバに二人の子供が与えられました。兄、カインの名前には「得る、獲得する」、弟、アベルの名前には「空しい」という意味があります。彼らにそのような名前がつけられた理由は、創世記3章の出来事に起因しています。神様は人間をそそのかした悪魔に、やがて救い主なるイエス様がひとりの女の子孫としてお生まれになり、悪魔に対する完全なる勝利を収められることを告げられました(創3:15)。ですからエバは、カインが生まれたとき、彼が悪魔の頭を踏み砕く約束の子孫だと考えました。それゆえ彼女は喜んで、息子にカインと名付けたのです(4:1)。しかし、自分たちの醜い罪がカインに受け継がれているのを見たとき、彼女はすっかり落胆してしまいました。自分の考えと神様の御計画が違ったときに彼女は悲しんで、次の息子にアベルと名付けてしまったのです(4:2)。
 さて、エバのこの行動は、私たちと決して無関係ではありません。なぜなら、エバ同様、私たちにも自分の願望に沿って神様がはたらかれると期待する傾向が大いにあるからです。しかし、時に、神様の御心と私たちの願望とが異なる場合があります。そんな時、もしかすると、私たちも不信仰に陥って、神様に不平不満を漏らしてしまうかも知れません。残念なことですが、クリスチャンの中には、自分の祈りに期待した結果を下さらない神様に失望して、神様に不信感を抱いてしまう人さえいるのです。
 しかし、私たちはどのような状況に置かれようとも、次のことを必ず覚えておく者でありましょう。それは神様に絶対間違いはないということです。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。(イザヤ55:8)」とあるように、神様のご計画と人間の計画が異なるケースは、実際によくあります。また続けて、「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(9節)」とあるように、全知全能なる神様のご計画はいつも最善です。さらに「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(11節)」とあるように、神様のご計画はすべて必ず成就します。
 ですから、私たちはこれらの御言葉にしっかり耳を傾ける者でありましょう。たとえ自分の願い通りに物事が進まなくても、たとえ祈りに反する結果が与えられようとも、決して近視眼的になって神様の愛を疑うことのないようにいたしましょう。どのような場合でも不信仰に陥ることなく、いつも神様だけを信頼し、最善なる神様のご計画を信じ、自分自身を委ね続ける者でありましょう。

2017年01月01日 ローマ人への手紙1章18節~21節より

 私たちの周りには様々な警告があります。その中には、無視してはならない非常に重要な警告があります。例えば、東北の沿岸近くの山のふもとにある、「ここより下に家を建てるな。」との警告文が書かれた石碑がそうです。実際に2011年3月11日に起こった津波が来たとき、ある地域ではこの石碑の上にある家が一軒も流されなかったが、その下の家々は流されてしまったことが報告されています。実に聖書にも決して無視してはいけない警告があります。それが、18節『不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている』です。私たち一人ひとりには罪があります。それは小さな子供にも理解できる事です。その罪とは心の中で人を憎む事や、うらやむこと、また喧嘩をしたり人を傷つける事などがそうです。神様はそれらの悪に対して、非常に厳しい基準をもってさばき、永遠の刑罰を与えられます。それが、永遠の火の池、地獄です。神様は18節にあるみことばをもって、御自身が下されるさばきの恐ろしさを警告しておられます。ところが、多くの人々が神様の御存在を認めず、警告を聞いても無視するのです。しかし、神様は実在されます。なぜならば、神様が創られた宇宙、地球、生物、そして特に私たち人間を見るならそこに驚くべき秩序があるからです。秩序あるものが偶然できることは決してなく、創造された創造主の存在をはっきりと示しているのです。「神様はいない。」と主張する人々はこの事を分かった上で神様を否定し、さらに神様で無いものを神様として崇め拝んでいます。この様な罪に対して神様が刑罰を下されないはずはありません。
 しかし、神様は私たちに警告を与えておられます。それは、私たち人間を裁くためではなく、救うために行っておられるのです。したがって、裁きの宣告と同時に、救いへの道も示しておられます。それが、ヨハネの福音書3章16節~18節『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じないものは神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』です。このひとり子、御子とはイエスキリストです。イエス様は神様であられるのに、人として世に来られました。それは十字架上で私たちの罪の裁きを身代わりに受けるためだったのです。そして、死なれ、三日目に復活されました。このとき、罪に対する刑罰は完了しているのです。後は、その福音を聞いた私たちがイエス様を自分の罪を贖ってくれた真の救い主であられることを信じ受け入れるだけで、必ず地獄から救われ天国へ行くことができます。しかし、信じないでそのまま死んでしまうなら『信じないものは神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』とあるように救われる事は決してありません。ですからイエス様を信じ受け入れてください。そして、地獄から救われ天国へ行く者となってください。

2016年12月25日 コリント人への手紙第一2章1節~5節より

 かつてパウロがコリントの町で伝道を行っていたとき、自分は「弱く、恐れおののいていました。(3節)」とあります。そのとき主はパウロに「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒18:10)」と励まされました。幾多の試練を乗り越え、福音伝道に生涯を捧げ尽くした神のしもべパウロに、恐れがあったことは実に驚きです。ではなぜ、彼は自分のはたらきに恐れを感じてしまったことがあったのでしょう?
 それにはいくつかの理由が考えられます。まず第一に、コリントの町は偶像崇拝が盛んで、道徳的に非常に堕落した町でした。そのような場所で伝道することは、現在でも多くの困難が伴います。また、彼は天幕職人という仕事をする傍ら、熱心に伝道に励んでいました。彼ほど伝道に時間を費やした人は類を見ません。肉体的にも、精神的にも苦しい、多忙な毎日の連続であったでしょう。さらに、反対者や迫害者は多くても、彼が語る福音に好意をもって耳を傾ける人や、イエス様を信じる人はわずかであったでしょう。ですから、パウロと言えども、ストレスやプレッシャーに心が折れ、押し潰されそうになり、黙ってしまいたくなる瞬間があったことは、十分うかがえます。
 私たちもパウロと同様、恐れてしまうことがあります。伝道や証しに恐れはつきものであるからです。恐れは私たちの口から言葉を奪います。しかし、もし私たちが福音を語ることを恐れたまま、身近な人への伝道を怠ればどうなるでしょう。もしかしたら、愛する人がイエス様を信じて救われる機会を逸してしまうかも知れないのです。地獄の裁きは永遠です。家族や友人が永遠の炎の中で、昼も夜も苦しみもだえ続けることに比べれば、愛する人たちとの摩擦や衝突など、取るに足りません。私たちは恐れ続けるのではなく、むしろ語り続けなければならないのです。
 主はパウロに「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから(10節)」と、御声をもって直接語られ、彼を励まされました。パウロは自分ひとりで伝道していたのではありません。イエス様がいつもパウロと共にいて、彼を守り、導いてくださっていたからです。これは私たちもまったく同じです。 イエス様は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」 と、御言葉をもって直接私たちにも語っておられるからです。イエス様こそが、私たちの証や伝道の力となって下さるのです。ですから、どうか恐れ続ける者ではなく、イエス様に拠り頼み、福音を語り続ける者であらせていただきましょう。私たちのすべてが、ひとりでも多くのたましいを、永遠の救いへと導き入れる、福音伝道という尊いはたらきに、与らせていただくよう、祈り求める者でありましょう。

2016年12月18日 ルカの福音書10章38節~42節より

 真のクリスチャンには新しいいのちが与えられているので、「イエス様をお喜ばせしたい。」という願いを持っています。なぜなら、イエス様がまず私たちを愛してくださったからです。イエス様は、自分が犯した罪のゆえに罰を受けて当然の人間を憐れみ、私たちの身代わりとなって父なる神様からの怒りと呪いを受けてくださいました。十字架上で言語を絶する苦しみを受けてくださったのです。私たちはこの十字架の御業のゆえに罪が赦され、死後天国に行くことができます。私たちを愛し、このような素晴らしい救いをくださったのが、イエス様なのですから、私たちがこのお方を愛し、このお方をお喜ばせしたいと考えるのは当然のことです。逆にこの願望を全く持っていない人がいたら、その人には新しいいのちがなく、まだ救われていないのです。
 さて、ここに二人の信者、マルタとマリヤが登場します。彼女たちもイエス様をお喜ばせしたいと思っていました。マルタはイエス様を家にお迎えしてもてなそうと考えました。しかし、彼女は自分が忙しく動いているのに、妹のマリヤがイエス様の足元で座っているのを見て、『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』とイエス様に嫌味を言ってしまったのです。さらに、マルタはイエス様への愛から始めた働きを『私の手伝い』と言い、自分の働きとしてしまったのです。このマルタの失敗に対して、イエス様は柔和に諭し、しなければならない事を示されました。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要な事はわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』(41節~42節)私たちもマルタのように奉仕したいと願い、一生懸命にそれに取り組む事があります。それはもちろん悪い事ではありません。イエス様も「悪い」とは言われませんでした。しかし、どうしてもしなければならない事はマルタの奉仕ではなく、マリヤのようにみことばを聞くことだったのです。イエス様がそれを『良いほうを選んだ。』と評価されたことからも分かります。なぜならば、イエス様がこの地上にこられた大きな目的の一つがみことばをとりつぐことだったからです。マリヤはそれをよく理解していたので、それを聞きもらすまいと、「主の足元」に座り、みことばに聞き入る事ができたのです。その結果がヨハネの福音書12章1節~3節にあるように、イエス様が十字架にかかる6日前に自分の家に来られたとき、非常に高価な香油をイエス様の足にぬり、さらにマタイの福音書26章6節~7節にあるように十字架の二日前にもイエス様の頭に高価な香油を注ぐ事でイエス様への愛を示し、わずかな機会を十分に利用してイエス様の埋葬の備えをしました。イエス様はこれらの行為を非常に高く評価されました。それに対して、マルタはマリヤがこれらの行為をしているときも、給仕をしていたのでイエス様への愛を示すチャンスを逃してしまったのです。それはマルタがみことばを聞かなかったからです。逆にマリヤの献身はみことばを聞いた結果です。ですから、イエス様に愛を示したいと願うものはまず、みことばに聞き入り、学ぶものでありましょう。そしてマリヤのように、いっそうすばらしい奉仕へと導かれるものでありましょう。

2016年12月11日 創世記13章1節~18節より

 ここにはアブラム(後のアブラハム)と、彼の甥ロト、二人の信仰者が出てきます。二人は共に生まれ故郷であったカルデヤのウルを出て、神様がお与えになると約束されたカナンの地にやってきました。彼らの信仰者としての歩みは、そこまでは同じようでしたが、結末は全くの別物です。アブラハムには豊かな財産や信仰をもつ子孫が与えられました。すなわち神様の祝福があったのです。しかし、ロトは妻も含めて、財産のすべてを失ってしまいました。また、唯一残された二人の娘にも、信仰がありませんでした。
 途中まで同じであった二人の結末の違いの原因は、いったいどこにあったのでしょう?健全な信仰の持ち主であれば、誰でも神様から祝福され、神様の素晴らしさを十分味わい、やがて天に入ったとき、豊かな霊的祝福を得たい…と、そう願います。私たちもロトのように、自分は救われていても他のすべてを失ってしまわないように、むしろアブラハムと同じく神様からの祝福を十分に味わい知る人生を送るために、この違いについてよく考えなければなりません。
 結論から言えば、この二人の違いは神様の御言葉に対する態度です。アブラハムは神様の御言葉を信じ、神様に従いました。しかし、ロトはそうではなかったのです。この箇所で彼らは、お互いに分かれて生活することにしました。その時にロトはヨルダンの低地全体を選びました。彼は自分の目と価値観を判断の基としました(10節)。しかしそこは見た目が良くても、中身は腐っていたのです。彼はカナンの地で祝福すると約束された神様の御言葉を、土地を選ぶ判断の基としなかったのです。
 さて、神様は聖書を通して、私たちに様々な勧めと警告を与えておられます。それは私たちを祝福し、私たちを通して神様のご栄光を表したいと願っておられるからです。神様の御言葉、聖書に絶対に間違いはありません。神様はすべてをご存知のうえで、私たちに成すべきことと避けるべきこととをお教え下さっています。未信者との衝突を避けるため、偶像礼拝に妥協的な態度をとり、うまく付き合うことは、人間の目や価値観には理に適っているように見えるかも知れません。また、そのように教える教会を、正しいと勘違いする人もいるでしょう。しかし、それは正に、ロト的な判断、行動です。もし私たちがロトと同じ過ちを犯すなら、必ず同じ結末に至ります。
 しかし、聖書を判断の基とすることほど、私たちにとって確かで安全な道はありません。交わりのある教会の中には、この世と妥協せず、恐ろしい罪である偶像崇拝を避け、また他を犠牲にして喜んで日曜礼拝を捧げるが故に、様々な困難や迫害に合っている兄姉もおられます。しかし、神様を信頼して歩む信仰者を、神様は完全に守り、導き、励まされます。アブラハムを祝福されたように、今もそのような信仰者を、神様は大いに祝福して下さる御方なのです(14-17節)。
 アブラハムはヘブロンに住み、神様を礼拝しました(18節)。ヘブロンは「交わり」を意味する言葉です。御言葉に聞き従う者には、神様との豊かな交わりと、礼拝を捧げる喜びが与えられます。その逆も真です。神様との交わりがない、礼拝に喜びが伴わないのであれば、御言葉への不従順が原因である可能性もあります。今一度、私たちは自分の歩みを御言葉によく照らし合わせ、吟味いたしましょう。一人ひとりがロトを反面教師とし、アブラハムを見倣う者でありますように。そして、やがて天で大いなる祝福、豊かな報いを得る者であらせていただきましょう。

2016年12月04日 コリント人への手紙第一1章18節~25節より

 世の中の言葉には「この言葉に励まされた。」あるいは「この言葉には力がある。」と人々から評価されている言葉があります。しかし、どれもその効果は一時的であり、常にいつまでも人々を励ますものはありません。ところが唯一、人々を二千年間、しかも常に励まし続ける言葉があります。実にそれが十字架の言葉なのです。十字架の言葉とは具体的にいえば「十字架につけられたキリスト(23節)こそ、全人類の全ての罪を背負って身代わりに死なれ、三日目に復活された真の神様、救い主であり、このキリストを自分の救い主として受け入れるなら誰でも、死後裁きにあうことはなく、永遠の天国に行くことができる。」という福音なのです。
 しかし全ての人がこの福音を受け入れているわけではありません。人によっては福音を愚かなこととして拒んでしまう事もあります。実際に福音伝道をしているとそのような人に出会うことがあります。チラシ配布をしていても、「キリストならいらない。」と福音には関心を示さず拒まれる事が度々あるのです。また、場合によっては露骨に嫌悪感を示し、敵対的態度をもって福音伝道を妨害しようとする人すらいます。彼らにとって福音は、「キリスト」や「十字架」という断片的なキーワードすら聞きたくないと考えるほど愚かな言葉なのです。しかし、聖書はそのような人は滅びに至る(18節)とはっきり宣告しています。すなわち、死後永遠の地獄に行かなければならないと警告しているのです。実に福音を否定する人は死後神様の御前に立たされたとき言い訳ができません。また、死後救われるチャンスもありません。逆に福音を信じ受け入れたクリスチャンは、天国へいける希望に満たされてこの地上を喜びを持って歩む事ができます。あるクリスチャンは末期のがんで現在治療のめどが全く立っていません。しかし、人間的には絶望してしまう状況にあって、彼は日々喜びをもって過ごし、特に礼拝に関しては、医者の制止を振り切ってでも捧げたいと熱意を持って毎週礼拝を捧げています。実に信じるものにとって福音は人を死後の地獄という絶望から救い、人生を喜びで満たし、天に行くまで導く力のある言葉であるのです。もし、福音を「愚か」と考える人がいれば、その人は地獄に向かっている可能性が大きいと言わざるを得ません。そのような人は直ちにイエス様を真実な救い主として受け入れ地獄から救われる者となってください。また、すでにイエス様を信じ、この福音を受け入れている人は、福音を自分だけのものとせず周りの人々に宣べ伝えるものであってください。なぜなら、私たちがイエス様を信じることができたのは他の人々が福音を私たちに伝えた結果であるからです。福音を伝えるなら、拒まれたり、激しく迫害されたりする事を覚悟する必要があります。しかし、迫害を恐れて福音を伝えないならば、救われる人は決して起こされず用いられる事もありません。ですから恐れずまっすぐ十字架の言葉である福音を伝える一人ひとりでありましょう。

2016年11月27日 創世記17章1節~8節より

 ここにアブラハムという信仰者が出てきます。彼は75歳の時に、神様から大きな祝福の約束をいただきました。それは、彼の子孫が空の星、海の砂のごとくおびただしく増えることであり、もうひとつは、彼と彼の子孫にカナンの地が与えられることでした。これらの約束の実現のためには、まず彼自身に子供が与えられることが必要です。ところが、99歳になっても子供は与えられず、妻のサラもすでに89歳になっていました。彼は、人間の目から見るならば、絶望的な状況の中に置かれていたのです。
 神様はその彼に対し、「わたしは全能の神である。(1節)」と語られました。神様にとって不可能なことはひとつもありません。さらに神様は、アブラハムに二つの約束を語られました。「あなたは多くの国民の父となる(4節)」、これはアブラハムがすべての(あらゆる)国民の父となるという意味です。つまり、やがて全国民、全民族の中から、アブラハムの信仰を模範として、彼に倣って歩む人が出ると、神様は告げられたのです。まさしく日本人である私たちは、彼の信仰に倣って、イエス様を信じて永遠の地獄から救われた実例と言えます。彼の名もアブラム(高貴な父)から、アブラハム(すべての国民の父)と変えられました。次に神様が語られた「…あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。(6節)」とは、アブラハムからイスラエルの12部族が起こされ、やがて王が出るという意味です。神様は全能であられるが故に、年老いた夫婦にこのような素晴らしい未来の祝福の約束を、お与えになることがお出来になったのです。
 さて、私たちもアブラハムと似た状況に置かれる時があります。それは、人間的見地からでは、どのような解決も見つからない困難や試練の時です。私たちがこの世で、クリスチャンとしての信仰を言葉や態度ではっきり証しし、この世と妥協せず歩むなら、必ず目の前に大きな壁が立ちはだかります。そして、自分のような者はもう信仰の道を歩めないのではないかと、挫けてしまいそうになるのです。ただし、もし曖昧な態度、未信者と少しも変わらない世的な生き方をする者には、そのような心配は無用でしょう。しかし、それはイエス様をわが主と告白する者に、神様が望まれる歩みではありません。いずれにせよ、どのような逆境に置かれた者であっても、神様がアブラハムに語られた同じ御言葉から、私たちは大きな励ましを得ることができます。それは、神様が全能者であられ、いつでも、どこでも、私たちを完全に助け導くことがお出来になる御方であるからです。
 信仰者に求められる態度は、まず第一に「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。(1節)」 とあるように、神様の御前を歩むことです。言い換えれば、それは常に神様との交わりを持ち続け、神様の御心を求める歩みをすることです。もし、問題に心を奪われ、神様から目を反らし、自分の力やこの世のもの(お金や人間)に頼るとどうなるでしょう。そのような人は霊的に正しい判断力を失い、必ず失敗をします。次に、全き者であれとは、完全な信仰、つまり、神様を疑わず十分に成長させられ、整えられた信仰をもって歩みなさいという意味です。私たちはただ神様だけを信頼して歩ませていただくことを、熱心に祈り願うべきです。私たちにとって最も安全な道、最も幸いな選択、最も確実な解決は、ただ神様だけを信頼すること以外に他ありません。最後に必要な態度は「アブラムはひれ伏した(3節)」とあるように、神様の御前に身を低くすることです。アブラハムは神様に愚痴や文句を言わず、神様の導きに、ただ自分を委ねました。ひれ伏す様子は、彼が神様の導きを確信して感謝を表した結果です。
 どうか私たちも信仰の父、アブラハムを見倣う者でありましょう。彼のように、神様と共に完全な信仰の道を歩む者でありますように。神様の御前に身を低くする者でありますように。そして、神様の助けと導きを確信し、ますます感謝と賛美と礼拝を捧げる者であらせていただきましょう。

2016年11月20日 イザヤ書45章18節より

 天地万物を創造された真の神様は実在されます。それはこの自然界にある秩序を見れば明らかです。一例を挙げると、私たちがよく食事で見るイカがそうです。イカの中のある種類は、マグロなどの敵に襲われると海水を足から逆噴射することで海上に飛び出し、足を広げて滑空しまた足をすぼめて海中にもぐる事で身を守る事が知られています。彼らのこの見事な技は、まさに神様が創造された秩序の一例と言えるのではないでしょうか。その神様は私たち人間をも創造された創造主であられます。人間と言う言葉は新約聖書の原語になっているギリシャ語では「仰ぎ見る」という意味があります。すなわち神様は人間を「神様を仰ぎ見、賛美する存在」として定義しておられる事がわかるのです。実に人間は神様を賛美することを、人生の目的とするよう創造され、今現在も生かされているのです。
 しかし、多くの人間は神様を無視し、自分の欲望のために生きる事を人生の目的としています。これは神様を悲しませ、また怒らせる大きな罪です。神様は聖く正しい御方ですから、罪を必ず裁かれます。警察官が犯罪者を見逃せば警察官としての存在意義が問われるように、神様も罪を見逃せば神様ではなくなるからです。そしてその裁きは永遠の火の池、地獄で苦しみ続けるという恐ろしいものです。ルカの福音書16章では地獄で苦しむ金持ちの様子が詳細に語られています。この恐ろしい地獄へ絶対に入ってはなりません。
 さて、イエス様はこのような人間を地獄から救うため十字架に6時間かかられ、全人類のすべての罪を身代わりに受けてくださいました。そして想像を絶する苦しみの中、イエス様は七つの言葉を語られました。それは、自分自身のことではなく、人間の魂の救いを父なる神様に願われるとりなしの祈りでした。歴史上、人類の罪のために死なれた方はイエス様を除いて存在しません。さらに死後三日目によみがえられることで、御自身が真の救い主、真の神様であられることを示されたのです。人を死後の裁きから救う唯一の方がイエス様です。
 さて、この話を聞くと多くの人がこの真理を否定します。それは自分の生き方が神様に反逆する罪である事を認めたくないからです。しかし、心の向きを自分の欲望から神様に180度方向転換し、神様の前に自らの罪深さを認め、赦しを願うものでありましょう。神様は死刑囚すら地獄から救う事ができるお方です。ある殺人犯が死刑の判決をうけ投獄されました。彼はそこで福音を聞き自らの罪を認めイエス様を信じました。彼は投獄されたとき、死を恐れ暴れていましたが、イエス様を信じた後は死の恐怖は完全になくなり、感謝をもって残りの人生を送り喜んで最後の絞首台に登ったそうです。どうか、 頑なにならず心を開いてイエス様があなたの罪のために死なれたことを認め、神様に赦しを願うものであってください。そして、福音を聞いている今、この時にイエス様を真の救い主として受け入れ、天国へ行くものとなってください。

2016年11月13日 ピリピ人への手紙3章10節~21節より

 走るときに目標を定めることは大切です。目標がどこで、目標までの距離がわからなければ、正しく走ることはできません。信仰生活も同じです。しばしば聖書では、クリスチャンの人生が信仰のレースに例えられます。また、各々に走るべき行程があるとも語られています。ですから、信仰のレースの目標がいったい何なのか、聖書から正しく学びましょう。
 「目標を目ざして一心に走って(14節)」いたパウロのゴールは、「死者の中からの復活(11節)」すなわち、空中再臨でした。彼はイエス様を愛し、イエス様にお仕えしつつ、その瞬間を迎えたいと、心底願っていました。そのような歩みには当然困難があります。しかし、それでもパウロはイエス様の御力と助けによって、このレースを完走したいと思いました。なぜなら、イエス様が喜ばれる歩みが、まさにそのような生き方であったからです。どのような苦しみの中を通ることがあったとしても、イエス様のためにそれを耐えて歩むならば、当然イエス様はそのものを喜んでくださいます。天でイエス様にお会いしたとき、「イエス様、私はあなたの御力によって、ゴールまで走り通せました。心から感謝いたします!」パウロのようにそう言えるクリスチャンは、何と幸いでしょうか。
 では、私たちの人生の目標とは何でしょうか。「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(17節)」とあるように、聖書はパウロと同じ目標を定め、空中再臨の日まで、パウロのような歩みをするようにと、私たちに明確に勧めています。パウロは特別ではありません。成長したクリスチャンは皆、この歩みをすべきです(15節)。
 しかし、実際は、非常に残念ですが、クリスチャンと自称する人の中に、「キリストの十字架の敵として歩んでいる(18節)」者が、大勢いるのです。「今も涙をもって」と、パウロがそう語らなければならなかった理由は、十字架の敵が未信者ではなかったからです。キリストを主と告白し、救い主と信じて教会に集う人の中に、イエス様を排斥したこの世を愛し、「地上のことだけ」を考え歩む人がいました。彼らこそ、十字架の敵でした。私たちはパウロを通して語られた、この神様の悲しみに目を留め、自分の目標や信仰生活を、今一度よく吟味しなければなりません。
 初代教会時代、使徒ヨハネの弟子であったポリュカルポス(69年頃 - 155年頃)という信仰者がいました。彼はキリストへの信仰のゆえに殺されようとしていました。しかし、柔和な老人であった彼を、何とか火炙りの刑から救い出したいと考えたロ-マ兵は、彼にただ一度イエス様を否定するよう勧めました。しかし、彼は「私を決して裏切られなかったイエス様を、どうして裏切ることなどできましょう。私はイエス様の十字架の贖いによって、永遠の火の燃える地獄から救われました。一時の火、死など私は恐れません。」と語り、86歳で殉教しました。イエス様がどれほど彼の信仰を喜ばれたでしょうか。「キリストの死と同じ状態」になっても、なお輝きを失わない彼の信仰は、今も天で永遠に報われ続けるのです。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(20節)」とあるように、主イエス様が私たちを迎えに来られる日はもう間近です。私たちも決して後悔のないよう、ゴールを目指して、全力で走り続ける者でありますように。

2016年11月06日 伝道者の書1章1節~より

 今週は神様が語られる「本当の幸せ」について学びました。人は誰しも幸せを求めて生きています。「不幸になりたい。できるだけ損をして生きたい。」と考えている人は一人もいないからです。では、人は一体何を幸せと考えて生きているのでしょうか。それは一言で言えば、「自分のしたい事をして生きることができる。」ではないでしょうか。多くの人が求める「お金」「人間関係」「異性との交際、結婚」「趣味」といったものは、結局したい事をするために必要なものです。では、人が欲するこれらの事を手に入れ、自分のしたい事ができれば本当に幸せになれるのでしょうか。実はそうではないのです。この伝道者の書の著者ソロモンからそのことを学ぶ事ができます。ソロモンは3千年前にイスラエルの王として生きた人です。彼の人生は「目の欲するものは何でもできた」(2:10)人生だったと端的にまとめられています。彼は多くの財産を持ち、多くの歌手をやとい、千人の妻がいたと書かれています。(2:1~8)また、事業をすれば成功し、多くの人が憧れるマイホームも手に入れ、庭というにはレベルが違いすぎる大きな森林地帯をすぐに作る事ができました。すなわち彼は人が望むあらゆる幸せを手に入れた人であったのです。では、彼の人生は満ち足りた幸せな人生だったといえるのでしょうか。彼は自分の手に入れたものについて「私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(2:11)と言い、人生を次のように総括しました。「空の空。すべては空。」(1:2)ですから、人が求める幸せとは「風を追うような」むなしい事であるのです。さらに人は自分の人生で行った事を清算するために死後、神様の御前に立たなければならないのです。神様は人が人生で行ったあらゆる罪の代価として罪の裁きを受けるよう要求されます。その神様による罪の裁きとは永遠の火の池で苦しむ事なのです。これが「本当の幸せ」であるはずがありません。
 では、神様が語られる本当の幸せとは何でしょうか。それは、私たちの罪が赦され(詩篇32:1,2)、地獄から救われ神様のおられる天国へ行くことなのです。神様は私たちがその幸せを得る事ができるように、御子イエス様を人として地上に遣わし、十字架上で全時代全人類の罪の裁きを身代わりに負わせてくださいました。そして、イエス様は死後三日目に死を打ち破りよみがえられました。私たちはイエス様を真の神様、救い主と信じ受け入れるだけで罪が赦され、天国へいけるという本当の幸せを手に入れる事ができるのです。ですからまだ、イエス様を信じていない人はイエス様を信じこの幸いを受け取るものであってください。また、すでに信じてこの幸いを受けている人は、前述した空しいこの世の幸せを追い求めるのではなく、神様が与えてくださったこの幸いを忘れず、救われた者としてふさわしく歩むものでありましょう。そして、周りの未信者にも私たちがもっている「本当の幸せ」を証し続けるものでありましょう。

2016年10月30日 ヨシュア記14章6節~15節、テモテへの手紙第一6章12節より

 ここにカレブという信仰者が出てきます。彼はこの箇所で神様の祝福を求めていますが、これは私たちが見習うべき素晴らしい執着心です。
 かつてイスラエル人は、400年もの長い間、エジプトの奴隷でした。パロの圧政に苦しむ彼らの叫びを聞かれた神様は、指導者モーセを立てられ、彼らをエジプトの国から解放されました。また、彼らには、カナンという素晴らしい土地が用意されていました。彼らは神様の約束をただ信じ、カナンにいた先住民族と戦い、信仰による勝利を収め、乳と蜜の流れるその肥沃な土地を獲得すればよかったのです。カデシュ・バルネヤで、カナンの地を探るために遣わされた12人の斥候の内、ヨシュアとカレブは、信仰をもってこの地に一刻も早く攻め入ることを提案しました。ところが、屈強な先住民族に怯えてしまった、残り10人の斥候の報告を聞かされた民の心は、すっかり挫けてしまったのです。神様は彼らの不信仰を咎められました。その結果、イスラエルの民は荒野を40年以上さまようことになったのです。ヨシュアとカレブを除く当時20歳以上のイスラエル人の全員が、荒野の旅の途中で死に、約束の地カナンに入れたのは、ヨシュアとカレブ、そして新しい世代の者たちだけでした。85歳になったカレブは、いまだ現役の戦士でした。彼は荒野を旅する間も神様の約束を疑わず、ずっと信じ続けたのです。そして45年前と同様、カナンの地に攻め入って自分の相続地を獲得したいと、新しい指導者ヨシュアに申し出ました。彼の神様の祝福への貪欲さ、執着心は決して悪ではありません。神様の約束に対する変わらない信仰こそが、彼の行動の原動力であったからです。
 神様は私たちにも、信仰による戦いの勝利と祝福、霊的報いを約束しておられます。パウロはテモテに「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。(Ⅰテモテ6:12前)」と語りました。この勧めは私たちにも向けられています。私たちの戦いは福音伝道であり、戦う相手は悪魔です。悪魔の目的は、不信者の目をこの世に向けさせ、ひとりでも多くのたましいを地獄へ追いやり、神様のご栄光を表さないようにすることです。この目的のために、悪魔は日夜休まず暗躍し続けています。また、悪魔の攻撃はクリスチャンにも向けられています。クリスチャンから救いを奪えない悪魔は、私たちの肉を刺激し、世の誘惑をもってひそかに近づいてきます。そして、私たちの心を神様以外のものに向けさせ、証しの力を弱め、福音伝道の妨げを行うのです。先人の熱心な伝道者は、福音伝道を「悪魔とのたましい分取り合い」と例えました。私たちは悪魔と戦う戦場のまっただ中に置かれていることを、いつも覚えるべきです。また、ここで語られている「永遠のいのち」とは、罪に対する神様からの刑罰、すなわち永遠の地獄からの救いを指しません。それは、永遠に価値ある人生を指しています。それは、天国で与えられる報いとも言えるでしょう。私たちのはたらきを神様が用いられ、救われるたましいが起こされたら、それはどれほど神様に栄光を帰すことになるでしょうか。
 ところが、私たち自身にはこのような激しい戦いを戦う力も知恵もないのです。85歳のカレブが壮健であった秘訣は、神様の約束にありました(ヨシュア記14:10)。彼を支えていたのは神様の約束であり、神様の助けと導きでした。私たちにも同じ神様の約束が与えられています。神様は一人ひとりに必要な力と知恵を備え、様々なはたらきに用いてくださる御方です。どうか、カレブにならいましょう。神様の約束を信じ、信仰の戦いを戦う者であらせていただきましょう。そして、この短い地上の生涯を永遠に価値ある人生とし、天国で豊かな報いを受ける者であらせていただきましょう。

2016年10月23日 エペソ人への手紙2章8節~より

 今週は聖書が語る救いについて学びました。未信者は「救い」という言葉を、人間関係や、病気などの問題が解決することや、仏教等の宗教の話を聞くことで心が楽になることと考えています。しかし、聖書が語る救いはそれらの「救い」とはまったく違います。聖書は「過去」「現在」「未来」における「救い」を語っています。
一つ目の「過去」における救いとは、エペソ2章8節~9節にある永遠の地獄からの救いです。地獄を強調しすぎることは脅しになるから良くないと考え、地獄について語らず、地獄を語るクリスチャンを批判する教会があります。しかし、地獄は「脅し」ではなく、「警告」です。火事に遭った人に対して、「火事というと怖がらせるから言うのを止めておこう」と考える人がいないように、クリスチャンであるなら、地獄に向かっている人々に「恐ろしい場所に行って欲しくない。」と警告を発することは当然のことです。そして実にそれは神様の御思いであるのです。そして、この救いはイエス様を信じた瞬間から与えられる神様からのプレゼントであり、9節にあるように行いとは無関係です。ですから「これから頑張って救いを得よう」と考えることは間違いであり、救われた人はこの御言葉に基づいて、確信をもって救いを喜ぶことができるのです。
 二つ目の「現在」における救いとはⅠテモテ2章14節~15節にあるようにサタンが私たちクリスチャンを躓かせるために行う様々な攻撃からの救いを意味しています。サタンには、救われたクリスチャンを再び地獄へ引き込む力はありません。しかし、クリスチャンの人生を無価値なものにすることならできるのです。サタンは私たちが日々神様を喜び、普段の態度をもって神様を証しし、周りの未信者に福音について興味を持たせる事を憎んでいます。ですから、それを邪魔することによって、一人でも多くの人を地獄へ送り、神様の御栄光を汚そうと働いているのです。そんな時、クリスチャンは「現在」における救いが必要です。その救いは私たちがイエス様に頼ることによって得ることができます。神様は私たちの信仰に基づく求めに従って、日々この悪魔の攻撃から救いだし、クリスチャンとしてふさわしく歩ませてくださるのです。
 三つ目の「未来」における救いとはローマ13章11節にある、悪魔が支配するこの世からの救い、すなわち、空中再臨のことです。空中再臨が間近であることを覚え続けるクリスチャンはラストスパートをするランナーのように、最後の瞬間まで熱心に御心を行い続けます。三つの救いを理解し日々の歩みに適用するならこの地上を第一の救いによって、地獄からの救いを喜び感謝して歩むことができ、第二の救いによって試練に遭っても神様に頼り喜び続けて歩むことができ、第三の救いによってこの地上を最後まで熱心に歩み続けることで、神様の御栄光をあらわす器として用いられ続けます。どうか、これら三つの救いを覚え続け熱心に歩み続ける者でありましょう。

2016年10月16日 ヨハネの福音書1章12~13節、ペテロの手紙第二1章3~4節より

 イエス様を信じた人は、みな「神のこども(ヨハネ1:12)」とされます。神様と私たちとの親子関係は、養子縁組のような、単なる書類上の関係ではありません。クリスチャンは「神によって[新しく]生まれた(ヨハネ1:13)」のであり、本当の実子とされたのです。また、神様のこどもには、新しいいのち(永遠のいのち)が与えられます。そして、このいのちは、神様を愛し、神様をお喜ばせしたいという、強い願望をもっています。それは、救われる以前には無かった願いです。クリスチャンは、この願いに基づいて行動します。ですから、新しいいのちがあるかどうか、すなわち、本当にイエス様を信じて、永遠の地獄から救われているかどうかは、その人自身の行動や言動によって、ある程度判別できると言えるのです。
 さて、そしてこの新しいいのちは、新しい食物(神の御言葉)を欲します。ですから、クリスチャンは、それぞれ自分の聖書を持ち、それを毎日読みます。また、新しいいのちは、私たちのために十字架で死なれ、よみがえられたイエス様に、心からの感謝を捧げたいと考えます。ですから、クリスチャンは、イエス様がよみがえられた日曜日の朝は毎週教会に集い、神様に礼拝をお捧げします。これらは、すべて新しいいのちのはたらきの結果です。ですから、決して強制されるべき事柄ではありません。
 ところで、神様のこどもとされたことは、クリスチャンのゴールでしょうか?それは間違った考え方です。イエス様を信じた者の歩みは、それまでの歩みと大いに異なるからです。健全な人間の親は、自分の子供の成長を心から願い、その子供が自分に似ることを喜びます。神様はそれ以上に、私たちの新しいいのちの成長を願われ、私たちが神様のご性質に、より似た者になることを喜ばれます。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(Ⅱペテロ1:4)」とあるように、そのための準備も、神様はすでに用意しておられるのです。さらに、私たちの成長は、私たちの意思と無関係ではありません。自分の霊的成長を神様に願い求めることは、私たちに与えられた大切な責任です。クリスチャンの歩みの原動力、新しいいのちの成長の源泉は聖書であり、「純粋な、みことばの乳を慕い求め(Ⅰペテロ2:2)」るよう、聖書を熱心に学ぶことが勧められているのは、実にそのためです。また、教会には御言葉を語る者が与えられています。神様はそのメッセンジャーを通しても、一人ひとりに必要な御言葉を語って下さいます。御言葉を熱心に求めるなら、私たちがたとえどれほど弱く愚かであってとしても、神様は必ず成長へ導いて下さる御方なのです(Ⅱペテロ1:5-7)。
 どうか、この神様の素晴らしい約束を御言葉から知って下さいますように。よりいっそう熱心に御言葉を学ばれ、神様に似たものと成長させていただくことを、願う者でありましょう。そして、ますます、神様に喜ばれる一人ひとりであらせていただきましょう。

2016年10月09日 マルコの福音書5章21節~43節より

 この箇所には解決できない大きな問題を負った二人の人が登場します。ひとりは娘が死にかけるという問題を負っていた、会堂管理者のヤイロです。もうひとりは長血を患っていた女です。彼女は下の出血という重い症状に苦しめられていました。しかし二人は、このような問題の中にあったからこそイエス様に助けを求めることができました。なぜなら仮に、ヤイロの娘が死にかけていなければ、彼はイエス様に助けを求めることはなかったでしょう。また長血の女も、医者によって癒されていたならば、イエス様に頼ることはなかったはずです。ですから、これは非常に感謝すべきことであったです。
 私たちも多くの試練に遭うことがあります。例えば何かの病気になるかもしれません。私たちはその時に「病気がなければ休まず礼拝を捧げられるのに。」とか、「もっと神様にお仕えしたいのにできない。」と悩むことがあるかもしれません。しかしこれらの試練は私たちを苦しめるために起こっているのではなく、私たちがもっと神様に頼り、イエス様の助けを求めて歩めるようにと、神様が用意してくださったチャンスなのです。
 しかし、私たちはそのことを十分に信じきれず、かえって疑ってしまう弱さを持っています。試練が私たちを動揺させる二つの要因について考えたいと思います。一つは周りの未信者からの反対です。実際この時も、彼らがイエス様のもとに行くならば、大勢の未信者から非難を受ける危険性がありました。ヤイロの場合は会堂管理者である自分がイエス様の足元にひれ伏すなら、ユダヤ人の支配階級に睨まれ、あざけられる危険性がありました。また、長血の女の場合は大勢の人に囲まれたイエス様に会おうとするなら、多くの人に触れることになります。もし、彼女が長血であることが他の人たちに知られるなら、律法に基づいて人々から責められる危険性がありました。このように私たちもイエス様を第一として、御言葉に従い歩もうとして周りの人たちに証をするなら、多くの未信者から非難されることがあるでしょう。たとえば、日曜礼拝を優先して、仕事を休みたいと会社で言うならば、多くの未信者の同僚や上司から責められるはずです。このような状況の中にいると不信仰に陥る危険性があるのです。
 そして第二の要因は状況が自分の思う通りに進まないということです。ヤイロの場合、一刻を争う状況なのに、長血の女が登場し、イエス様が彼女と関わり長い話を始められたので、中々前に進めない状況にありました。そしてついに彼の娘は死んでしまったのです。祈りは聞かれず、最悪の結果だと考えたかもしれません。また、長血の女も信仰をもってイエス様に求める姿を見るならば、神様に癒しを求めて祈っていたと考えられます。そうであるならば、彼女の祈りは十二年間聞かれなかったことになります。このように私達にも長い期間真剣に祈り続けているにも関わらず、その祈りが聞かれずかえって状況が悪化しているように見えることがあります。そうすると、不信仰に陥り、神様に対して文句が出てしまうことがあるかもしれません。
 私たちはこのような状況に対してどのように対処すれば良いのでしょうか?イエス様は36節で娘が死んだという知らせを聞いたヤイロに対して「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。この信じるという言葉は「信じ続けよ。」と訳すことができます。
 イエス様が働かれるなら、どんな問題もすぐに解決するのです。実際、長血の女は衣を触った後、すぐに癒されています(26節)。ヤイロの娘も41節によると、「すぐさま起き上がり」ました。イエス様は試練の中にいる私たちに対しても「恐れないで、ただ信じていなさい。」語りかけてくださっています。ですからどんな問題が起こっても、また状況が悪くなったと見える場合でも、この御言葉を信じ、助けを求め続けるものでありましょう。そしてどんな問題の中にあっても、疑わずイエス様に信頼し続けることによって、神様のご栄光が表されるために用いられる者でありましょう。

2016年10月02日 詩篇23篇より

 私たちもこの篇の冒頭にあるように「乏しいことがない」と、完全な平安の中、確信をもって賛美したいと願わないでしょうか。ところが私たちを取り巻く現実は、経済的困窮、未信者やクリスチャン相互の人間関係、また自分の健康や将来への不安など、乏しいと思えるような状況だらけです。これらの問題に日々心を悩ませ、平安どころではありません、と嘆く方はおられないでしょうか?そこで、23篇の作者がいったい誰で、またどのような状況下でこの内容を語っていたのかについてよく学んでみましょう。
 詩篇全体を学ぶなら、詩篇がダビデ個人の経験だけに基づいて書かれたものとは、とても言えません。イエス様は、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する(ルカ24:44)」と、明確に語られました。すなわちこの篇も、人としてこの地上を歩まれたイエス様が、「主」であられる御父にお捧げになられた、全幅の信頼と賛美に満ちた詩であるのです。
 そして、直前の22篇の冒頭にある「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。(詩22:1)」は、十字架上でイエス様が実際に語られたみことばです。また末尾の「彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。(詩22:31)」の「なされた」という言葉の本来の意味も、イエス様が十字架上で最後に語られた「完了した(ヨハネ19:30)」であり、ヘブル語の語順では文末に置かれています。すなわち、22篇全体が、十字架上で苦しまれたイエス様の預言なのです。そして24篇の「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。(詩24:7)」という御言葉は、復活されたイエス様が、天に凱旋される御姿を称えた内容です。つまり22篇から24篇を通して学ぶなら、23篇はイエス様が十字架の御苦しみの直後に語られた内容と言えるのです。
 そのような状況の中、なぜイエス様は「私は、乏しいことがありません。」と賛美できたのでしょうか。それは、イエス様が「私の羊飼い(1節)」であられる御父が「あなたが私とともにおられますから。(4節)」とあるように、いつもともにおられ、導いてくださっていると確信しておられたからです。そしてその御父の導きに間違いがないと確信しておられたので、苦しみと困難の中にあって平安を持つことがおできになったのです。
 さて、私たちの羊飼いはこのイエス様です。イエス様の守りと導きも完全であり、欠けたところはありません。そしてこのイエス様がいつも私たちと共にいてくださいます。ですから、たとえどのような試練の中に置かれていようと、イエス様が御父を信頼されたように、私たちも23篇を自分の詩として、真心から神様を信頼し、誉め称えることができるのです。試練には必ず出口が備えられ、また試練は私たちの信仰を成長させ、その純度を増し加えます。また「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(4節)」とあるように、イエス様は「むち」を持って悪魔の攻撃から私たちを守り、必要なときには「つえ」という善意をもって私たちを懲らしめ、私たちの進むべき信仰の道をはっきりと指し示されます。これらは何という慰めでしょうか。どうか、羊飼いなるイエス様から、決して目を反らすことなどありませんように。そして、いつも「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と、声高らかにイエス様を賛美する者であらせていただきましょう。

2016年09月25日 出エジプト記2章1節~13節より

 信仰告白をしている人に死後の行き先について尋ねると、「分からない」と答える人がいます。これは非常に重要な問題です。このような人について二通りの場合が考えられます。一つは本当に「地獄に行く」場合です。その人は福音をまだ明確に理解せず信仰告白をしているのです。この場合は再び福音を聞き明確に福音について理解し、はっきりと聖書の語っている通りイエス様を信じる必要があります。そして、もう一つは救われているけれど、その救いの確信がない場合です。その人は天国へ行けますが、だからといって問題がないわけではありません。なぜなら、その人は天国へ行けるにも関わらず、この地上での歩みには平安がなく、本来得られる喜びを感じることもなく天国へ行くまで怯えて生きなければならないのです。さらには、そのような状態の人は他の人に福音をはっきりと語ることができません。ですから、神様が人を救われるとき、何を根拠にされているのかを学ぶ必要があります。
 実にこの箇所から、神様が何を見てその人を救われるのかを学ぶことができるのです。時代背景を簡単に説明すると、この時イスラエルの民はエジプトの奴隷として虐げられていました。彼らは神様に助けを求め、その求めに答えて神様はモーセという預言者を遣わし、様々な災害によってエジプトにイスラエル人を解放するように警告し続けたのです。ここではそれでも悔い改めないエジプトに対して、全ての初子を殺すという最後の災害を起こそうとしておられる、その直前の出来事が記されています。神様は、羊の血をかもいと門柱に塗るならば、その血をご覧になり、その家には災害を加えないという約束を与えられたのです。イスラエル人たちはみことばを守り、その結果この災害から守られました。以前、ある先生が子供たちに『災害が下された夜に御言葉を守った人たちの中で、「喜んで平安の中にいる人」、「ビクビクしながら過ごした人」、「エジプト人」がいたとします。この中で救われたのは誰でしょうか?』と質問をされました。正解はここに書かれている全ての人です。なぜなら全員がみことばの通り血を塗ったからです。その中にいる人の状態は全く関係がなかったのです。
 この出来事は、新約聖書を読むならば、イエス様の十字架の贖いの型であることが分かります。私たちはイエス様を救い主として信じ受け入れたとき、いわば心の中の鴨居と門柱に子羊であられるイエス様の血を塗ったのです。神様は十字架でイエス様が流された血を見て、それを根拠として私たちを救われたのです。ですから、仮に私たちが「救われているのだろうか?」と不安を持つことがあったとしても救いは全く揺るがないのです。そうであるならば、クリスチャンが「救われているだろうか?」と不安に思うことはふさわしくありません。どうかイエス様の血のみが救いの根拠であることを今一度確信し、救われたことを感謝して喜んで歩む者でありましょう。

2016年09月18日 マルコの福音書12章41節~44節より

 私たちが神様に何かをお捧げしようとするとき、神様はどのようなものを喜んで受け取ってくださるでしょうか。それを知ることは、私たちの歩みにとって実に重要です。ひとりの貧しいやもめが献金を捧げた様子と、それをご覧になられたイエス様の御ことばから、そのことを学びましょう。
 イエス様を信じ救われた私たちの心には、十字架で示された神様の愛と恵みにお応えしたいという願いが与えられます。それは決して献金だけではありません。自分のからだや心、時間や人生そのものをお捧げしたいという願いは、神様の愛と恵みを深く知れば知るほど、ますます大きくなります。しかし、献金にせよ、奉仕にせよ、私たちが全知全能の神様にお捧げできるものは、ほんの僅かです。さらに私たちは、他人と自分を比べたり、自分の置かれている状況、すなわち経済的、健康上の諸事情を挙げて、「自分が神様にお捧げできるものは大したものでない。」と、つい考えがちです。神様は、私たちがお捧げする「量」に御目を向けられる御方でしょうか?さらに言えば、私たちの信仰は、私たちがお捧げする献金の金額や、配布した福音新聞の枚数などによって量られ、やがて私たちが天で受ける報いも、それによって決定されるのでしょうか?
 多くの金持ちが献金箱に大金を投げ入れていた一方で、貧しいやもめはレプタ銅貨二枚を投げ入れました。この金額は、現在の貨幣価値に直すと、およそ150円程度です。ところが、この様子をご覧になられていたイエス様は、大切なことを弟子たちに教えられるため、彼らを呼び寄せて、こう語られたのです。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。(43-44節)」神様はどのような捧げものを喜んで受け取ってくださるのか、私たちはこの御ことばからはっきり知ることができます。神様の喜びは、捧げられた「量」とまったく関係ありません。あり余る中から投げ入れた金持ちに対し、貧しいやもめの全財産は、ほんの僅かでした。しかし、彼女の捧げた献金を、イエス様は「どの人よりもたくさん」と賞賛されたのです。神様の御目は捧げられた「割合」に向けられています。私たちも同じです。もし、神様から与えられたはたらきを、信仰をもって神様により頼み、忠実に、喜んで行わせていただくなら、たとえそのはたらきの「量」はごく僅かであったとしても、神様は喜んで受け取ってくださいます。様々な事情から、「神様にお仕えしようにも、その時間がほとんどありません。」と言われる方がおられます。しかし、だからと言って、落胆する必要はありません。与えられている収入や時間が僅かであっても、どれだけの「(金額や時間の)量」をお捧げできるかではなく、信仰と喜びと犠牲をもって捻出され、そして愛する神様に捧げられた「割合」、大切なのはこの点です。逆に、もしあり余る中からの僅かな「割合」を、自分が十分と思える「量」として捧げることに満足しているなら、それは金持ちと同じ態度です。やもめを模範とし、イエス様の御ことばに耳を傾け、悔い改めなければなりません。
 どうか、神様が私たちにお与え下さったものの中から、信仰をもって、できる限りのものを神様にお捧げさせていただく者でありますように。そして、ますます神様に喜ばれる歩みをする者とさせていただきましょう。

2016年09月11日 マタイの福音書28章18節~20節より

 今週は「福音宣教」について学びました。マタイの福音書28章18節~20節やマルコの福音書16章15節、またその他の福音書でもイエス様は私たちに『福音を宣べ伝えなさい。』と命令されています。クリスチャンにとっての一番の働きは『礼拝』です。しかし、もしそれが唯一の使命であるならば、私たちは救われたときすぐに天に行っても良かったはずです。天で神様を礼拝する方が幸いであるからです。しかしそうではなく、救われた後もこの地上に残されている理由が「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝え」るためなのです。しかし私たちがこの使命を忘れてしまうなら地上での生活は天国へ行くまでの待ち時間でしかなくなってしまい、人生を無駄に送ってしまいかねません。
 そうではなく、私たちがこの使命を覚え続け、福音伝道を行うなら幸いです。なぜなら、それで人が救われるなら永遠に価値ある働きとなるからです。なぜならば、その人のたましいの行き先を永遠の滅び(地獄)から救い、永遠の天国へ変えることができるからです。そしてその人の人生もまた永遠に価値あるものとすることができるからです。また、天国へ行ったときその人と再会し、共に神様を賛美することもできるからです。この世には貧困に喘ぐ人々のために基金を募り助ける働きや、病気の人を癒すなど、価値があると言われている働きがあります。しかし、その働きに福音が関わらないのなら、その働きも結局は無益なものになってしまいます。なぜならば全ての人には等しく死が訪れるからです。このことは人の命を救う消防士であっても同様です。例え、火事から人を救っても、福音がなければ、永遠の裁きの火からその人を救うことができないからです。しかし、これらの働きをする力や能力がない人でもクリスチャンであるならば福音を人に宣べ伝えることができます。そしてその福音のことばには人を地獄から救い天国に導く力があるのです。ですから、私たちが福音を語るなら、この世の価値があると言われているあらゆる働きに優る、永遠に価値ある働きを行うことができるのです。
 また福音を語るならば、私たちは神様をお喜ばせするができるのです。なぜならば、マルコの福音書16章15節にイエス様が福音を語る対象を『人間に』とは言われず、『すべての造られた者に』と表現されているからです。それはイエス様が私たち人間を愛の対象として造られたことを強調されるためでした。実に神様はだれも地獄へ行くことを望まれず、救われることを望まれています。ルカの福音書にある「放蕩息子の例え話」は神様と断絶した人間が再び神様と愛の交わりを持つようになることを表した話ですが、この息子は恐らく独力で家に帰ることができなかったはずです。すなわち彼を助け父親のもとに返す働きをした人がいたことが伺えるのです。もしそうだとするなら、父親は息子を助けたその人の働きを必ず喜んだはずです。この喜びは福音伝道の働きをしている私たちクリスチャンに対して神様が持たれている喜びをよく表していると言えます。これは私たちにとっても喜びです。イエス様は『全世界に』福音を伝えるように言われましたが、その中に私たちが今住んでいるこの地域も含まれています。ですから物理的に海外へ出ることが難しくてもこの命令に従うことができるのです。この使命は義務ではなく特権です。この特権を覚え、福音伝道に励む一人ひとりでありましょう。

2016年09月04日 マルコの福音書6章45節~51節より

 このときイエス様は、弟子たちだけを強いて舟に乗り込ませ、ガリラヤ湖の向こう岸、ベツサイダに行くよう命じられました。ところが、強い向かい風のため、彼らは湖の真ん中で何時間も漕ぎあぐねていました。弟子の中にはガリラヤ湖の漁師もいました。しかし、その経験も役には立たず、彼らは暗い湖の上で、何時間も恐れ惑っていたのです。この厳しい状況の背後には悪魔がいました。悪魔は弟子たちの信仰を攻撃していたのです。強い風と荒れ狂う波に、目も心を奪われてしまっていた弟子たちは、自分たちを強いて送り出されたイエス様を信頼することを、すっかり忘れさっていました。
 十字架の死と復活の後、天に上られるイエス様は、ご自分と物理的に離れたこの地上に残り、福音伝道を行う弟子たちの訓練のため、この状況をあえて許しておられました。福音伝道という尊く困難なはたらきにあずからされた彼らには、悪魔との霊的な戦いも待ちかまえていたからです。たとえ肉体の目でイエス様を見ることができなくても、イエス様を信頼して歩むことの大切さを,イエス様はこの試練を通して、彼らに教えようとしておられたのです。
 私たちもイエス様の御姿を直接自分の目で見、イエス様の御声を直接自分の耳で聞くことは出来ません。しかし、弟子たちと同様、私たちも全世界に出て行って福音を宣べ伝え、悪魔と戦わなければなりません。健康面、経済面、人間関係など、悪魔は様々な方法をもって、私たちの人生に波風をもたらし、それらを利用して私たちの信仰を激しく攻撃します。湖の上を歩いて近づかれたイエス様を見て、弟子たちは幽霊だと思い、叫び声をあげました。試練の中でイエス様から目を離してしまうと、私たちは様々な不安や心配、恐怖に駆られて動揺するのです。はるか彼方から弟子たちの様子をご覧になられたイエス様は、私たちの苦しみも十分ご存知の御方です。イエス様は彼らのそばを通り過ぎようとされ、彼らの信仰をお求めになられました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。(50節)」イエス様はすぐに彼らに話しかけられました。「わたしだ(エゴエイミ=わたしはある)」という言葉は、永遠にご存在される神としての無限の知恵と力を表し、イエス様がすべての必要を十二分に満たすことのできる神であられることを意味します。全知全能の神様にとって不可能なことはありません。イエス様が舟に乗り込まれた途端、風がやみました。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」イエス様がお与えになる試練には、必ず脱出の道が備えられているのです。
 イエス様は私たちの信仰を励まし、整え、成長させ、天に行く日まで、私たちを完全に導くことがお出来になる御方です。試練に会ったとき、試練本来の目的を忘れ、イエス様から目を反らすことは不信仰です。イエス様を信頼して歩む素晴らしさを、私たちは試練を通していっそう深く学ばせていただけるのです。どうか、試練の本当の目的を理解され、私たちをいつも助け導かれるイエス様を、なお信頼して歩み続ける者であらせていただきましょう。

2016年08月28日 ペテロの手紙第一1章8節~9節より

 私たちクリスチャンには『喜び』があります。これはこの世の喜びとは違います。この世の喜びは小さく、一時的な物です。海外旅行に行くならば、最初のうちは美しい景色を見るなどして、喜ぶかもしれません。しかし、二度、三度と繰り返すうちにそれにも飽き、喜びがなくなっていくのではないでしょうか。しかし、クリスチャンの喜びはそうではありません。この喜びは、私たちの置かれている状況や時間の経過に関わらず、決して失くならない不滅の喜びなのです。なぜならばこの喜びは私たちが「信仰の結果である、たましいの救いを得ている」喜びだからです。実に本来神様に逆らった罪の結果、死後裁かれ永遠の地獄へ行くべき者であった私たちが、十字架の贖いを成し遂げてくださった主イエスを信じる信仰を通して、地獄から救われ天国へ行く事ができるのです。その喜びは言い尽くし得ないほど大きなものであり、決して消えることはありません。9節にあるように私たちはイエス様を肉眼で確認する事はできません。しかし御言葉を通して、十字架で示されたイエス様の愛をおぼえ、その御力に信頼し続けることができるようにされたのです。そして、私たちはこの救いのもたらしたものをはっきりと知るならば踊るほどの大きな喜びとなるはずなのです。
 しかし、逆にクリスチャンがこの様な喜びを持っていないならば警戒する必要があります。実にこの『喜び』の有無は私たちクリスチャンにとっての警告灯ということもできるのです。それは車に備えられているガソリン残量のエンプティランプのようなものです。その警告灯があるなら、運転手はガソリン残量を確認でき、安心して運転することができます。同様に、クリスチャンも、クリスチャンにとって大変危険なことである『喜びを失う』ということが起こらないように、『喜び』があるかどうかを日々確認する必要があるのです。そしてもし『喜び』がないと感じたなら、何かがおかしいと思わなければなりません。この喜びはヨハネの福音書15章9節~12節にあるようにイエス様御自身が望んでおられることでもあるのです。そのために、すべきことは9節『イエス様の愛の中にとどまる』ことです。すなわち、イエス様との親しい交わりを日々持つことです。人間と交わるとき、会話をしてお互いのことを理解し合います。神様とそのような交流を持つにはどうすればよいでしょうか。それは日々祈ることと、聖書を開き御言葉を読み続けることなのです。御言葉を読めば、神様の御思いを知ることができます。例えばイエス様が十字架で示された愛、私たちがその十字架の御業によって、救い出された地獄の恐ろしさ、神様の聖さを知ることができるのです。御言葉を読めば読むほど私たちはイエス様に心から感謝することができるようになるのです。また、日々祈ることによって私たちの願いを神様に知っていただくことができ、その祈りが聞かれることで神様の力強く確かな導きを知ることができます。このようにイエス様との交わりの中を歩み続けるなら、喜びは日々新たにされ大きくされて続けていきます。逆に心がイエス様ではなく世のものに向かうならこの喜びを味わうことはできません。もし喜びがないと気づいたなら、再度イエス様との交わりを持ち喜びを取り戻す者でありましょう。クリスチャンにのみ与えられた特権である救われた喜びは永遠に存続します。この特権を覚え、日々喜び続けるものでありましょう。

2016年08月21日 ヨハネの福音書14章13~14節,15章16節,16章23-24節より

 イエス様を信じて間もない方の中で「どのように祈れば良いかわからない。」とおっしゃる方がいます。神様は、神様のこどもとされた私たちが、神様に熱心に祈り求めるよう願っておられます。ですから、「よくわからないから。」と言って祈らないことは、神様を悲しませる行為です。人間の親子関係に例えて考えれば、いっそう明確です。もし子供が「親に対してどう話して、何をどう求めれば良いかわからないから、私は親と口をききません」と言ったなら悲劇です。むしろ、親を愛し、心から親を信頼し、遠慮無く必要を親に求めることが、自然な親子関係と言えるのではないでしょうか。
 では、何でもかんでも祈り求めれば、それで良いのでしょうか?14章13-14節や15章16節、さらに16章23-24節では「わたしの名によって」という言葉が、何度も繰り返し強調されています。ですから私たちは、祈りの最後に必ず「イエス様の御名によってお祈りします」と言います。すなわち、私たちは自分の必要や願いを、イエス様の祈りとして父なる神様にお捧げするのです。イエス様と父なる神様は、永遠の昔から永遠に至るまで、人間の想像や知識をはるかに超えた、深く親密な愛情関係にあります。感謝すべきことに、父なる神様は、御子とのこの愛情関係に基づいて私たちの祈りを聞かれ、その必要を満たして下さるのです。ですから、イエス様は「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。(16:23)」「求めなさい。そうすれば受けるのです(16:24)」と、私たちに祈ることを勧め、その祈りが聞かれることを約束して下さいました。父なる神様にとって、その願いが大きすぎてこたえられない祈りはなく、反対に、その願いが小さすぎて受け入れていただけない祈りもありません。私たちはまずこのことを、はっきりと確信すべきです。
 では「金持ちになりたい、贅沢がしたい」などと、自分の欲望を祈りとして願って良いのでしょうか。それは明らかに間違っています。なぜなら、私たちの祈りがイエス様の祈りとして父なる神様に捧げられる以上、イエス様が地上の快楽や肉の欲を望まれるはずがないからです。たとえ人間がどれほど熱心に「イエス様の名によって」と祈っても、罪深い願いが、聖い父なる神様の御元に届くことはありません。むしろ、イエス様が何を求めていらっしゃるのかを御言葉から学び知れば、私たちはを何をどう祈れば良いのか、明確に知ることができます。どんな祈りでも聞かれる目的は「父が子によって栄光をお受けになる(14:13)」ことです。すなわち、御父のご愛、恵み、憐れみ、知恵や御力の偉大さが表されるなら、イエス様はその人の願いをご自分の祈りとして御父に捧げられ、御父は御子の名によって捧げられた祈りを喜んで聞いて下さるのです。ですから、神様のご栄光が表せない祈り、神様の御名を汚すような祈りは絶対にすべきではありません。私たちは自分の捧げる祈りの内容やその目的が御心に適って正しいかどうか、十分吟味いたしましょう。
 祈りはクリスチャンの健全な歩みに欠かせません。自分の霊的成長を願って御言葉を正しく理解するための祈りは大切です。試練の中にある兄姉のために、滅び行くたましいの救いのために、祈る課題は数え上げるに尽きません。すぐに聞かれない祈りもあります。しかし、祈りが聞かれるまで、私たちは熱心に求め続け、忍耐をもって祈り続けることを御言葉は教えています。祈りが御心に適っているのかどうか、それさえ私たちは祈りを通して応えていただくことができるのです。どうか与えられたこの素晴らしい特権をフルに活用され、ますます神様に喜ばれる歩みをさせていただく者であらせていただきましょう。

2016年08月14日 エペソ人への手紙2章10節より

 ここに私たちは『神の作品である。』と書かれています。絵がそれを描いた画家の誉れを表すように、神様の作品である私たちは神様のすばらしさを表すものとして造られたのです。このように言うと、「私に神様のすばらしさを表すなんて難しすぎる。」と戸惑う方もおられるかもしれません。実際にそれは一面正しい意見であるのです。このみことばの前を読むと、私たち人間は『死んでいた者』(1節)であったのです。これは救われる前の私たちの状態を正確に言い表したものです。私たちの周りの未信者を見れば、自分より優しく、有能で、自己犠牲の精神に溢れる人はいくらでもいるかもしれません。しかし、彼らも神様の御前においては『死んでいる者』であるのです。神の御前で死んでいる者は、死んでいる犬が役に立たないように神様のために役に立つ働きを行うことは不可能であるのです。
 救われたクリスチャンであっても、かつての罪の性質が消えたわけではないので、時には失敗をします。ですから自分に目を向けるなら、「自分は神様に用いられる人間ではない。」と考えてしまうかもしれません。しかし、『神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』とあります。ですから、「自分には用いられる歩みは無理だ。」と考えることは神様の恵みを無視する行為なのです。なぜなら、神様の備えは人間と違い万全です。神様が備えてくださったと語られるならば、私たちはその良い行いをもって、神様の御栄光を表すことができるのです。
 私たちが神様のために用いていただけるということは、ちょうど、質の低い食材を用いて、上質の料理を作る料理人の腕が褒め称えられるのと同じです。神様は「神に対して死んでいた」無益な人間を用いることで、御自身のご計画を成し、ご栄光を表そうとしておられます。ですから神様は私たちのために、『良い行い』をも備えてくださっておられるのです。
 ですから、ぜひ私たちは一人ひとりが神様の御栄光を表す為に神の作品として用いられることを求める者でありましょう。この神様の素晴らしい賜物も、受け取らなければ、用いられることはありません。私たちが神様のご計画にそって歩みたいと願い、神様の用意された「良い行い」を行いたいと決断するならば、神様はその願いに従って必ずそれを実行させてくださいます。私たちが無力であればあるほど用いられた時、神様のご栄光がより表されるのです。どうか、すばらしい神様のご栄光を表す一人一人でありましょう。

2016年08月07日 使徒の働き10章34節~48節より

 この箇所には、異邦人であるコルネリオという百人隊長や、その周りにいて福音を聞いた異邦人たちが、イエス様を信じ救われた出来事が記されています。「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。(34-35節)」「イエス・キリストはすべての人の主です。(36節)」これらペテロの言葉にもあるように、彼は自分がそれまで十分理解していなかった「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる(43節)」という真理を、神様からはっきりと教えられたのです。このとき、イエス様が十字架で死なれ、よみがえられ、天に帰られてから、少なくとも5年は経っていました。にも関わらず、私たちにとって当然の真理を、ペテロがまだ十分理解していなかったのは驚きです。ユダヤ人であるペテロは、異邦人伝道に抵抗を感じていました。なぜなら、彼はユダヤ人がもつ、自分たちは神の選民であるという、特権意識を根強く持っていたからです。神様から遠く離れた異邦人と、イエス様を信じる信仰による救いを結びつけることは、彼には困難であったのでしょう。しかし、神様は異邦人コルネリオの救いを通し、ペテロの誤った考えを正されたのです。
 私たちはペテロを反面教師としなければなりません。と言うのは、私たちも「あの人はもうこれ以上伝道しても救われないのでは・・・。」「あの人にだけは福音を語りたくない。」といった考えを、もってしまいがちであるからです。福音を聞いた罪人が、悔い改めてイエス様を信じ、永遠の地獄から救われるのは、すべて神様の御働きです。私たちが語らせていただく福音を神様が用いられ、罪人を救いへと導かれるのです。私たちはまずこのことを信じましょう。福音にまったく興味を示さなかった人や、福音を聞くことを頑なに拒んでいた人が、ある日突然心が変えられ、悔い改め、救いに至る信仰をもつ場合も大いにあります。ですから、私たちは、自分の判断や基準で、伝道する相手を決して選り好みすべきではないのです。
 また私たち自身も、家族や友人、知人、他のクリスチャンの福音伝道のはたらきや犠牲、祈りを通して、救いへと導かれたのではないでしょうか。つまり、神様は、今日も福音伝道のはたらきに携わるクリスチャンを用いて、新たに救われるたましいを起こして下さるのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(Ⅰテモテ2:4)」私たちは神様のこの御思いをよく知るべきです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」私たちはイエス様のこのご命令をいつも思い出すべきです。どうかこれらのことをよく覚えて下さいますように。そして、ますます福音伝道に携わらせていただき、たましいが救われる喜びに、ともに与る者でいっそうあらせていただきましょう。

2016年07月31日 ルカの福音書15章3節~24節より

 ここに三つのたとえ話があります。一つ目は百匹の羊のうちの一匹がはぐれてしまい、羊飼いが探しに行って、見つかったのでみんなで喜ぶ話です。二つ目は十枚の銀貨のうちの一枚が失くなったので、女の人が探し、見つかったのでみんなで喜ぶ話です。三つ目は二人の兄弟のうちの一人が放蕩をしてしまうけれど、すべてを失った彼が悔い改めて帰ってきたので、家で祝宴を開くという話です。さて、このたとえ話を学ぶにあたって、神様が三位一体の神様であられることを知る必要があります。三位一体とは神様が父なる神様、御子なる神であられるイエス様、聖霊なる神様の三つの人格をもち、同時に唯一のご存在であられることを表している言葉です。これは人間には理解不可能な概念ですが、聖書が明確に語っている真理です。
 さて、これらの話にはどれも共通点があります。それはどれも要約すると「一つのものを失うが、見つかったので皆で共に大喜びする。」という点です。
 7節、10節の解き明かしの部分を読むならば、失くしたものは私たち人間を、それが見つかったので大喜びする人は神様を表していることが分かります。また、たとえ話が三つあるのは、三位一体の神様の喜びをそれぞれの観点から表現しているからです。まず1つ目のたとえ話で登場する羊飼いは、聖書の他の箇所で、イエス様御自身が「わたしは良い羊飼いである。」とおっしゃっていることから、イエス様を表していることが分かります。実にイエス様は一匹のはぐれた羊を探しに行った羊飼いのように、罪人を神様に立ち返らせるため、天から下り人として地上に来られ、十字架上で罪人の罪を全て身代わりに負ってくださいました。私たちが救われた後も、羊飼いが羊を担いで帰ったように、私たちを担ぎ、私たちが天へ行くまで責任をもって導いてくださるのです。次に3つ目の話で登場するお父さんは父なる神様を表しています。このお父さんは出ていった息子が帰ってくるまで待ち、帰って来たならば罪を責めず、大喜びで迎え子供として受け入れました。父なる神様は、私たちが悔い改めるならば、十字架の御業を根拠にその時点で私たちの罪を赦し、私たちを大喜びで息子として迎えてくださいます。親子の絆が決して切れないように、私たちと神様との親子の関係が切れることは決してありません。これは私たちの救いが決して失われないことを意味しています。クリスチャンは自分が犯した罪をみて、救いを失う心配をする必要はないのです。最後に、2つ目のたとえ話で登場する女の人は聖霊なる神様を表しています。なぜならば、聖書が女性を男性の助け手として創造されたと語っているからです。実に聖霊なる神様も助け手として働かれています。その最たるものが人が悔い改め救われるときです。実際に、私たちが救われるとき、私たちは自分が決断して信仰告白をしたと考えていますが厳密に言えばそうではありません。このたとえの女性が家を掃いたように、実に私たちが信仰告白できたのは、御言葉を通して聖霊なる神様がその人の心に語りかけ、心の中の間違った考えを洗い流し続けてくださっていたからなのです。このように三つのたとえ話は三位一体の神様の働きをよく表していると言えます。私たちが救われたことを三位一体の神様は大喜びされていて、私たちが天国へ行くまで責任をもって導いてくださいます。私たちはこの事を確信し、この神様を喜び歩む一人一人でありましょう。

2016年07月24日 詩篇22篇1節~18節より(伝道メッセージ)

 私たちの教会では、聖書に基づいてメッセージが語られます。なぜなら、聖書自身が聖書はすべて神の御言葉だと証言しているからです。ですから全人類は聖書の内容を受け入れなければなりません。しかし、もし聖書が単なる人間が書いた書物であるなら、聖書は真理ではありませんから、その内容を受け入れる必要はありません。ですから、聖書が神の御言葉であるのか、それとも神の御言葉を語っただけの、ただの人間の言葉であるのか、その真偽は非常に重要です。では、聖書が神の御言葉である証拠はあるのでしょうか?
 それを証明する方法のひとつに、聖書の中にある数多くの預言が挙げられます。神様は未来に起こる出来事を、前もって聖書を通して人間に語られました。詩篇22篇は、今から三千年ほど前、歴史上実在したイスラエル王国のダビデ王によって書かれました。彼は自分のおよそ一千年後にこの世に来られるイエス・キリストについての預言を、神様に導かれて記述しました。マタイの福音書27章46節を見れば、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。(1節)」という詩篇の記述が、十字架上のイエス・キリストご自身の言葉と一致することがわかります。しかし、それはキリストが予め詩篇を知っていたからだ、という反論もあるでしょう。ところが、続く「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。(8-9節)」「私は、私の骨を、みな数えることができます。(中略)彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。(17-18節)」という記述は、十字架上のイエス・キリストを見上げていた群衆や兵士、すなわち敵側の人間の態度や言葉について書かれたものです。福音書を読めば、これらの出来事もすべて預言通り成就しています。キリストを憎む人間が、わざわざ預言を成就させるための協力をするはずがありません。この他にも、キリストがこの世に来られる四百年ほど前に完成していた旧約聖書の中には、預言が、キリストに関するものだけで実に三百以上あります。そして、今より未来のことを除いたすべての預言が成就しています。これらを偶然の一言で説明することはできません。
 また、聖書はおよそ一千六百年間にわたって、四十人以上の人々の手によって書かれました。著者たちが生きていた時代も、またその職業も様々であり、彼らが聖書の内容を相談し合うことはできませんでした。しかし、聖書の主題は終始一貫しており、矛盾も全くないのです。これら預言の成就、聖書の成立過程を調べれば、聖書が人間には書くことができないことは明白です。ですから聖書が神の御言葉であると断言できるのです。
 人間は聖書の著者であられるまことの神様を認めようとせず、あがめることも、感謝をすることも、受け入れることも拒んでいます。嘘をひとつついただけでも、死後に永遠の地獄で刑罰を受け続けなければならないのが、聖い神様の正しさの基準です。にも関わらず、人間は神でないものを神として拝むという、さらに大きな罪を犯し続けています。聖書は、すべての人間に有罪の宣告と「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」という警告を与えています。地獄は実在の場所であるので、私たちはこの警告に絶対に耳を貸さねばなりません。神様はそのような私たちを憐れまれ、地獄からの救いをご自身で用意されました。今から約二千年前、神の御子であられるイエス・キリストが、救い主としてこの地上に来られ、その生涯の最後に人類すべての罪を負い、私たち罪人の身代わりとなって、十字架にかかり、罪の刑罰を受けて死んで下さいました。また、三日目の朝に死の力を打ち破ってよみがえられ、誰でもキリストを自分の救い主と信じ受け入れるだけで、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、死後に天国に入れるという救いが完成したのです。これまでの預言がすべて成就してきたように、神様の約束が違えることは絶対にありません。どうか一刻も早くイエス・キリストを信じ、地獄ではなく天国へ入る方となられますよう心からお勧めいたします。

2016年07月17日 ルカの福音書14章15節~24節より

 このたとえ話は十字架以後の福音伝道の広がり方を表しています。17節にある「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』という、この招きの言葉は今も私たち人間に語られています。ここでの宴会とは15節からの関連から神の国であることが分かります。そして宴会は招待する側が完全に整え、招待される人は呼びかけに応え、来るだけでいいものです。実に神様は私たちを神の国へ招待するために、イエス様の十字架上での贖いという素晴らしい準備を整えられました。私たちはそれを受け入れるだけでいいのです。
 さて、しかしここに出てくる「招いている人」とはイスラエル人のことです。彼らは神様によって特別に選ばれた民であり、聖書を通して救い主について聞かされていたからです。しかも、イエス様の十字架上での御業の後に初めに福音が宣べ伝えられたのもイスラエル人でした。しかし、例え話で招待された人達が招待を断ったように、イスラエル人はイエス様を十字架上につけ、イエス様の復活後、福音を宣べ伝えたクリスチャンたちをも迫害し、追放しました。そこで例え話から断った理由を学びたいと思います。彼らが断った理由は「畑を見ること」「牛を試すこと」「結婚したこと」の三つです。しかし、どれもその時の招待を断る理由にはなっていません。畑や牛は別のタイミングで確認すればいいだけですし、結婚が断る理由になるとは考えられないからです。ですから、彼らは行きたくないから行かなかったと考えるべきです。おそらく招待した主人のことを嫌っていたと思われます。イスラエル人たちは神様の招待を拒み、日常の問題、金儲けや人間関係といったものを優先し神様の大きな恵みを蔑んだのです。その結果どうなったのでしょう。21節~23節にあるように、救いが異邦人たちに及びました。
 実に極東とも呼ばれているこの日本に福音が宣べ伝えられていることは驚きです。日本の神観念は、八百万の神々という言葉からも分かるように、大変堕落した的外れなものです。そして、それを信じていた私たちは、真の神様を否定した罪深い存在でした。しかし神様は私たちを23節の主人のように、クリスチャンの粘り強い働きかけを用いて、力強く導いてくださいました。私たちが福音を理解できたのも聖霊なる神様の御働きです。もしそれがなければ、「金」「仕事」「楽しみ」「人間関係」といったこの世のものに目を奪われ福音を拒んでいたはずなのです。また私たちは本来神様の御前で「無力」「無価値」な者です。しかし、このような私たちが神様の憐れみによって救われました。これはなんと感謝なことではないでしょうか。私たちの側には救われる理由は何もありませんでしたが、この例えからわかるように私たちもただ神様の恵みと憐れみによって救われ、天の国に入る者とされたのです。ぜひ私たちはこのことをいつも覚えていましょう。そして神様の憐れみに感謝し、礼拝を捧げるものでありましょう。

2016年07月10日 創世記22章1節~19節より

 神様はアブラハムに、彼のひとり子イサクを全焼のいけにえとして捧げるようお命じになられました。全焼のいけにえは、祭壇の上で骨まで完全に火で焼き尽くされなければなりません。ところが、アブラハムは躊躇することなく、「翌朝早く‥ろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクをいっしょに連れて‥神がお告げになった場所へ出かけて(3節)」行きました。彼にとってイサクは、神様との約束のゆえに、ずいぶん年老いてから与えられた、かけがえのないひとり子でした。神様はそのことを十分ご承知のうえで、なおアブラハムに語られ、アブラハムはそのご命令に素直に従ったのです。ではなぜアブラハムはこの厳しい命令に従順であったのでしょう?その理由は彼の信仰にあります。そして私たちはここから、神様の求めておられる信仰について、学ぶことができるのです。
 神様の求めておられる信仰は、神様の絶対主権を認める信仰です。絶対主権とは神様が神様であられるが故に持っておられる、絶対的な権威のことです。一方、これと反するのが、この世で多く見られる御利益信仰です。金持ちになれる、病気が治る、人間関係がうまくいく、人はそのためになら惜しまず犠牲を払います。また神様を、自分の好きなように生きるための、補助のように考える者たちがいます。クリスチャンと呼ばれる者の中でも、聖書の御言葉を好き勝手に適用して、自分の欲望を肯定するような、本当の信仰を持っていない者たちもいるのです。これらは人間の欲望が中心となっています。
 しかし人間は、神様によって整えられた環境の中で、しかも神様から与えられた命をもって日々生かされている存在です。すなわち、すべてのものは神様のものであるのです。ですから、神様がわたしに捧げなさいとお命じになられたら、たとえそれが愛するひとり子であったとしても、神様のご主権を認め、即座に従うことが本物の信仰の証しと言えます。アブラハムの決断とその行動は、紛れもなく彼の信仰が本物である証しでした。自分の欲望を満たすための信仰は偽物であり、神様が求めておられる本物の信仰では決してありません。
 さて、私たちの信仰もよく吟味してみましょう。私たちは神様の絶対主権を認め、神様のご命令に従順でありたいという願いがあるでしょうか?アブラハムがまさに自分の子をほふろうとした時、御使い(受肉前のイエス様)は「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。(12節前)」と語られ、彼を制止されました。そしてまだイサクをほふる前であったにも関わらず「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた(12節後)」と、彼の信仰を賞賛されました。私たちを愛される神様は、私たちを苦しめるためにご自分の権威を主張されるような御方ではありません。神様は私たちの信仰に大いなる祝福をもって応えたいと願っておられるのです。「わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し…あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。…あなたがわたしの声に聞き従ったからである(16-18節抜粋)」このように、神様のご主権を認め、神様のご計画を信じ、神様のご命令に従順である信仰者を神様は喜ばれ、大いなる祝福をお与えくださるのです。私たちの祝福はアブラハムが得たような地上の一時的祝福ではなく、天における永遠の霊的祝福です。どうか本物の信仰がどのような信仰であるのかをこの箇所から深く、そして十分に学ばれますように。そして本物の信仰をもって、よりいっそう神様を信頼して歩ませていただきましょう。

2016年07月03日 ルカの福音書16章19節~31節より

 私たちはこの箇所から人の死後について知ることができます。人間は自分の力で死後について知ることはできません。しかし、聖書を読むならば人は死後天国か地獄に行くとはっきりと書かれています。ある人々は聖書のこの箇所を例え話であると誤解しています。しかし、聖書の中に例え話が記されている場合、それが例え話だと記されてあったり、その解き明かしがあります。また、例え話ならば固有名詞が出ることはありませんが、ここではラザロやアブラハムといった固有名詞が登場しています。ですから、これは実話なのです。このことを踏まえ、人が死んだらどこに行くのかを見ていきたいと思います。
 23節~31節を読むならば、地獄がどれだけ恐ろしい場所かその一端を知ることができます。ある人々は地獄の恐ろしさを軽く見る人がいます。しかし、そうではありません。24節で金持ちは一滴の水を舌に付けることを切望しました。本来一滴の水は私たちの喉を潤し癒すものでありません。しかし地獄は、彼がこのような、有るか無いか分からないような僅かな憐れみを求めざるを得ないほど、神様の憐れみや恵みが一切ない場所なのです。私たちは金持ちの悲痛な叫びをよく聞き、このことをよく知るべきです。さらに、「一滴の水」を求めた金持ちの求めに対する返答は『否』でした。(25節~26節)天国にいるアブラハムの金持ちへの返答から、地獄と天国の間には大きな淵があり地獄に入ったものは二度とそこから出ることができないことが分かります。すなわち、地獄での苦しみは永遠なのです。神様はこの話を通して『地獄へ行ってはならない。』と警告しておられるのです。さて、このような話を聞くと「家族が地獄へ行ったのなら、自分だけ救われて天国へ行くのは申し訳ない。だから自分も地獄へ行く。」と語る人がいます。しかし、それも間違っています。地獄へ行った人々は、27節~28節で金持ちが自分の家族に地獄へ来ないように願っている様に、愛する家族が苦しむ姿を見たくないと願っているからです。
 さて、ではどのような人が地獄に行かなければならないのでしょうか。ここで地獄に行った金持ちはイスラエル人でしたので、幼いころから聖書を読み、神様の御心を学んでいたはずです。それにも関わらず、彼は地獄へ行きました。それは彼が生きている間、悔い改めて神様に立ち返らなかったからです。実に知識では人は救われません。人を地獄から救うのは、イエス・キリストを救い主として受け入れる信仰のみです。
 イエス様は神であられながら人として地上に来られ、私たちの罪の代価を支払うために十字架上で、神様からのさばきを受けられました。そして死後三日目に蘇り、ご自身が真の救い主であることを示されました。実に貧乏人のラザロはイエス様への信仰に基づいて救われたのです。彼は悲惨としか言いようのない生涯を送りましたが、神様を絶対主権者として受け入れ、自分の罪深さを認め、ひれ伏していたのです。これは彼の信仰から出てきた姿勢なのです。彼はその信仰に基づいて地獄から救われ天国へ行くことができたのです。私たちは今生きている間、ラザロのように悔い改め天国へ行くチャンスがあります。どうかこの機会を無駄にせず、自分の罪深さを認め、イエス様を真の救い主として信じ受け入れ天国へ行くものとなってください。

2016年06月26日 テサロニケ人への手紙第一4章16節~18節より

 テサロニケ人への手紙の著者は使徒パウロです。そして、手紙の受取人であったテサロニケの信者たちは、まだ救われて1年足らずの人たちでした。神様が聖書を通して語られる真理はすべて、その人の信仰歴に関わらずいつも大切ですが、この手紙が書かれた背景を考えると、イエス様を信じて間もない人にとって、特に何が大切な真理であるのかも学ぶことができます。
 この箇所でパウロは空中再臨(携挙)について語りました。空中再臨とは十字架で死なれ、三日目の朝によみがえられ、その後天に上られたイエス様が、再び私たちクリスチャンを天国へ迎えるために、天から空中まで下って来られるという真理です。「キリストにある死者(16節)」すなわち、イエス様を信じ、すでに死んでしまった者たちが、「まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることに(16-17節)」なります。クリスチャンが空中再臨について学ぶことはとても大切です。なぜなら、続けて「このことばをもって互いに慰め合いなさい(励まし合いなさい)(18節)」とも書かれてあるからです。ではなぜイエス様の空中再臨が、私たち信者の慰めや励ましとなるのでしょうか?
 それはまず、「主は‥ご自身天から下って来られ(16節)」とあるように、神であられる御方が直々に私たちを迎えに来て下さるからです。これはイエス様の私たちに対する愛の大きさの表れです。また、「一挙に引き上げられ(17節)」という表現は、原語では強奪される、つまりイエス様にひったくられるようにして天国に入れられる、という意味があります。それは嫌がる者をその意思に反して強制的に連れ出す意味では決してありません。この世の支配を制限付きで容認されている悪魔は、絶対者であられる神様を憎んでいます。ですから神様のこどもであり、神様を愛し敬うクリスチャンを悪魔は目の敵にします。悪魔はクリスチャンの歩みを妨害し、ある時には激しく攻撃し迫害します。しかし、イエス様はその悪魔が支配する世界に下って来られ、この世界と悪魔を裁く前に、悪魔の手から私たちを、その愛ゆえに強奪して下さるのです。病気や困難、様々な苦境の中に置かれているクリスチャンたちにとって、空中再臨は喜ばしい瞬間です。これは何という慰めであり、励ましでしょう。まさに唯一の望みではないでしょうか。
 ではイエス様はいつ来られるのでしょう?聖書には次のように記されてあります。「しかり。わたしはすぐに来る。(黙示録22:20前)」ここに具体的な日時は書かれていません。また、ヨハネが黙示録を書いてから、かれこれもう2千年近くも経っています。ですから、イエス様の空中再臨を疑う不信者は、昔から後を絶ちません。しかし、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう(Ⅱペテロ3:8)」であるなら、また、すでに2千年近くも時間が経ったのであるのなら、いよいよイエス様の空中再臨が間近であると、すぐにでも起こりうる現実であると言わざるを得ません。
 このようにイエス様が私たちを迎えに来られる日はもう近いのです。私たちがこの世から解放され、イエス様にまみえ、天国に入れるその日はもうすぐ間近に迫っています。そして何よりも、イエス様ご自身が私たちを一日も早くその御元へ招き入れたいと願っておられます。ですので、私たちも、よりいっそう空中再臨を待ち望みつつ、この地上を神様のご栄光を求めて歩む者でありたいと願います。「アーメン。主イエスよ、来て下さい。(黙示録22:20後)」この言葉が私たちの日々の願いでありますように。そしてますます空中再臨の真理をもって互いに慰め合い、励まし合う者とならせていただきましょう。

2016年06月19日 ローマ人への手紙3章21節~28節より

 新改訳聖書では『人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが私たちの考えです。』(28節)とありますので、28節の内容が、人間個人の意見であるかのように見えます。しかし原語を見ると、この言葉は『私たちの結論です。』と訳せる言葉になっており、神様の考えをそのまま伝えている言葉であることが分かります。
神様は私たちの行いとは無関係に、私たちの信仰に基づいて御自身が義であられるがごとくに私たちが義であると認めてくださっておられるのです。これは実に驚くべきことです。なぜならば、私たちは本来、『すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず』(23節)とあるように『義』とは程遠い者たちであるからです。クリスチャンは救われてもなお、罪を持っており、神様に頼らなければ歩むことはできません。それにも関わらず、クリスチャンと呼ばれている人の中にも救いを得るには行いが必要であると考える人がいます。しかし、そのような人はこの御言葉を理解しておらず、真実の信仰が与えられていないと言わなければなりません。私たちは『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに値なしに義と認められている』(24節)ことをそのまま認め、受け入れるべきなのです。
贖いとは代価をもって買い取るという意味です。イエス様は私たちの罪の代価を支払うために十字架上で、私たちの罪を負い、神様からの御怒りを直接受けられました。神様はそこで流されたイエス様の血をご覧になり、「もう十分だ。」と満足されました。それゆえイエス様も『完了した。』と宣言されたのです。もし、私たちがイエス様の流された血による贖いの御業だけでは救われないと考えて、善行や献金によって救われようと考えるなら、イエス様の御業の完全さを否定することになります。それはイエス様に対する冒涜であり、罪なのです。逆にこの御業の完全さをそのまま信じた人は自分の救いを疑う必要が無くなり、全き平安をもって救いを喜ぶことができるのです。親が溺れた子供を見たとき、泳ぎ方を教えるのではなく、まず自分が子供を助けようと努力し、泳ぎ方を教えるのは助けた後になるはずです。
私たちの救いも同様にまず神様の恵みによる救いがあり、クリスチャンとしての歩み方は救われたあとに教わるのです。この順序を間違えてはいけません。どうか、イエス様のなされた御業の完全さを確信し、救いを喜ぶものであってください。

2016年06月12日 ルカの福音書17章11節~19節より

 この箇所には、イエス様がお癒やしになられた十人のツァラアトにおかされた人たちが登場します。当時、ツァラアトは不治の病であり、患者はただ死を待つ以外ありませんでした。実はこのツァラアトは罪の型として聖書では用いられています。ですから、このツァラアト患者と私たちにはいくつかの非常によく似た共通点があるのです。
 ツァラアトは人間の神経を麻痺させる病気です。そのため皮膚が痛みや温度を次第に感じなくなり、身体に大きな損傷を被る場合が多いのです。同じように、私たちの良心も大人になるにつれどんどん鈍くなり、嘘がうまくなったり、幼い頃に比べて罪を罪と感じなくなる傾向があります。そして聖書が語る通り、私たちには一度死ぬことと、死後、神様からこの罪の裁きを永遠の地獄で受けることが定まっていました。また、ツァラアトは伝染病でした。祭司からツァラアトと診断された人は、家族や社会から完全に隔離され、宮に入り神様を礼拝することさえゆるされませんでした。人目につかない薄暗い洞穴の中で一生を終える悲嘆な人生しか、彼らには残されていなかったのです。同じように、かつての私たちも神様から遠くかけ離れた存在でした。罪を愛する罪人にふさわしい恐るべき結末に向かう人生しか、私たちには残されていませんでした。そしてツァラアトが死に至るように、私たちも死後永遠の地獄へ至る者たちだったのです。
 しかしこの時、イエス様は声を張り上げてあわれみを求めた彼らを癒やされました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい(14節)」この御言葉を信じた彼らは行く途中できよめられました。彼らの信仰にイエス様が応えられたのです。何の希望もなかった彼らに、どれほど大きな喜びがもたらされたことでしょう。ところが、十人の中で引き返し、イエス様の足もとにひれ伏して礼拝を捧げたのはたったひとりでした。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(17-18節)」イエス様は残りの九人を厳しく非難されました。私たちも気をつけなければこの九人と同じ過ち、すなわち、救いを喜び感謝はする、しかし神様を礼拝しない(あがめない)間違った態度をとってしまうことがあります。癒やされた彼ら同様、私たちもただ恵みにより、イエス様を信じる信仰によって、罪のゆるしと永遠のいのちを受けたのです。イエス様は救われた者が神様を礼拝することを明確に求めておられるのです。
 ではなぜひとりは戻って来たのでしょう?「彼はサマリヤ人(16節)」でした。サマリヤ人はユダヤ人と異邦人の混血であり、そのためユダヤ人から憎まれ、見下されていました。戻らなかった九人のユダヤ人には、ユダヤ人の王であられるイエス様から癒やしていただくのが当然であるという傲慢な思いがあったのかもしれません。しかし外国人であり、自分には癒やされる理由も価値もない、そのように自分の罪深さを深く理解していた彼は、イエス様の御前に身を低くすることができました。そしてそれゆえ、人一倍イエス様の恵みに感謝し、神様を礼拝する者とならされたのです。どうか私たちも彼を見ならい、裁きのみがふさわしかった自分を忘れることがありませんように。そしてそのような自分を憐れみをもって救いへと導き入れて下さったイエス様に、ますます真心からの感謝と礼拝をささげる者であらせていただきましょう。

2016年06月05日 テモテへの手紙第一1章15節より

 私たちはこの節からイエス様について多くのことを学ぶことができます。まず、イエス様が「この世に来られた。」と書かれていることから、イエス様が神様であることを知ることができます。なぜならば、「来られた」ということは、もともと別の場所にいたということを意味するからです。もしイエス様が普通の人間ならば「来られた。」という表現は似つかわしくありません。イエス様は神様であられるので、永遠の昔から天におられました。そしてそこからこの世に来てくださったのです。神様であられるイエス様が罪に汚れたこの世に、人間の姿をとって来られたことは実に驚くべきことです。
 では、なぜイエス様はこの世にこられたのでしょうか?それは「罪人を救うため」です。私たちは「罪人」と聞くと殺人や強盗といった犯罪者を思い浮かべるのではないでしょうか。しかしこれは人間が考える「罪」の基準でしかありません。神様は罪の大小に関わらず、罪の存在そのものを憎んでおられます。聖書には『義人はいない。一人もいない。』『全ての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。』と書かれているように、神様の基準では全ての人間が「罪人」なのです。そして神様は罪を持っている人間をそのままで天国に受け入れることは決しておできになりません。ある人は「神様は愛なる方だから罪人をそのままで受け入れるべきだ。」と考えるかもしれませんが、この考えは非常に誤った考えであるのです。なぜならば、神様には一点の罪もなく、完全に聖なるご存在であられるからです。私たちも人を自宅に迎えるとき、その人が泥だらけのままなら、「そのまま入ってきていいですよ。」とは考えず、「きれいにしてから入って欲しい」と考えるはずです。そうであるならばなおのこと神様にとって最も憎むべき罪を持ったままの人間を神様が無条件で受け入れることは不可能であるのです。従って神様はその罪を必ず裁かれ、罪人である人間は、死んだ後火の燃える地獄で永遠に苦しまなければならないのです。地獄に一度入ったならば二度と出ることはできません。例え100年間地獄の火で苦しんだとしてもその刑罰はまだ始まったばかりであるのです。実にイエス様がこの世に来られたのはこの恐ろしい地獄から罪人である人間を救うためであったのです。
 イエス様は神の御子であられるので、全く罪とは関係のない方でしたが、人間の姿をとって地上に来られました。その目的は十字架にかかり、その上で全時代の、全人類の犯した全ての罪の裁きを身代わりに受けるためでした。そして、三日目によみがえり御自身が真の救い主、真の神様であることを確証されました。誰でも自分の罪を認め、このイエス様を信じ受け入れるなら、罪が赦され死後天国に行くことができます。
 世の人はイエス様を「愛なる方」「人間をそのまま受け入れる方」と考えています。しかし、前述の通り神であられるイエス様は愛なる方であると同時に罪を憎み必ず裁かれる絶対主権者であられます。しかし、自分の罪深さを深く自覚し、神様の憐れみに頼り、イエス様を真の救い主と認め受け入れるなら地獄から救われ天国へ行くことができます。どうかイエス様を信じ、天国へ行くものとなってください。

2016年05月29日 創世記18章1節~8節より

 天幕生活をするアブラハムに現れた三人のうち、ひとりは受肉前のイエス様(1節、13節)であられ、残りの二人は御使いでした。アブラハムは彼らを迎えるために走っていき、地にひれ伏して礼をしました。さらに彼は食事の準備を申し出て、交わりを持って下さるよう願い出ました。これは驚くべき行動です。なぜなら、身分の低い者の方が高い人を食事に招くことは、通常考えにくい事であるからです。ましてや、その相手が招きに応じることは普通あり得ません。ところが、イエス様はこの申し出に対し、「あなたの言ったとおりにしてください。(5節)」と、全面的に応じられました。神様が人間と食事を共にされる事は、なおのこと驚きです。では、なぜイエス様はこの申し出に応じられたのでしょう?
 この出来事と対照的な内容が創世記19章1節~3節に記されています。アブラハムの甥ロトに現れた二人の御使いは、交わりを願い出たロトの申し出に応じませんでした。なぜなら、ロトの心は神様との交わりより、むしろこの世を愛することに向いていたからです。私たちが神様との交わりを保つために大切なことは、私たちの心や思いがこの世から離れていることです。アブラハムは俗世間から離れ、ヘブロンにあるマムレという樫の木のそばに住んでいましたが、一方のロトは不道徳な町ソドムに住んでいました。ですから、御使いはロトの申し出を断ったのです。神様のご性質に反するもの、神様が嫌われ憎まれるものを愛しながら、神様と交わることは出来ないのです。しかし、いくら世から分離していたアブラハムであったとしても、彼が罪人であったことに違いはありません。私たちは、神様がアブラハムと交わりをもたれた別の理由についても学ぶ必要があります。
 交わりにはお互いの同意が必要です。つまり、私たちの側にどれほど神様と交わりをもちたいという願いがあったとしても、神様にその御思いがなければ交わりは持てません。実に、神様にも私たちとの交わりを願われる強い御思いがあるのです。それは聖書の至る箇所に記されています。アダムとエバは神様が食べることを禁じられた善悪の知識の木の実を取って食べるという罪を犯しました。神様を恐れて隠れた彼らに対し、神様は「あなたは、どこにいるのか(創世記3:7-9)」と語られました。神様は彼らの居場所を尋ねられたのではありません。彼らと交わりをお求めになられた神様が、交わりを避けて隠れた彼らの行動を愛をもって責め、彼らが本来いるべき正しい場所、すなわち神様と交わりをもつことを、彼らに思い起こさせたのです。神様はラオデキヤの伝道者に対しても、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)」と語られました。人間はもともと神様の愛の対象として神様との交わりを持つために造られたのです。ですから、私たちが罪から離れ、祈りをもって聖書を読むなら、神様はその御言葉を通して私たちと交わって下さり、私たちに語られます。神様は交わりによって私たちの信仰を成長させ、本当に価値あるもが何であるのかを教え、さらなる祝福を与えたいと願っておられるのです。私たちを愛し、ご自身の御子をさえ惜しまず死に渡された御方が、いつもこのような御思いをもたれ、私たちを導かれ、信仰を励まして下さるのです。神様とは何と素晴らしい御方でしょうか!ですから、どうか私たちもこの恵み深い神様との交わりを、ますます求め続ける者であらせていただきましょう。

2016年05月22日 コリント人への手紙第一6章19節~20節より

 ここに私たちの身体は私たち自身のものではないと書かれています。私たちはこの事を認めて歩んでいるでしょうか?コリントのクリスチャンたちはこの事を知識としては知っていましたが、認め受け入れるべきこととしては捉えてはいませんでした。彼らはその結果、遊女と交わるという不道徳な行為まで行っていたのです。ですから私たちも自分の身体が自分自身のものではなく、私たちを高価な代価で買い取ってくださった方のものであることを単なる知識としてとどめるのではなく、自分自身のこととして認め受け入れなければならないのです。
 このことをある例え話を通して考えてみましょう。ある人が高級車を持っていたとして、それをあなたに貸したとします。あなたは他人から預かっているもの、しかもそれが高価なものなのですから貸した人の意向に沿って丁寧に扱わないでしょうか?例えば貸主が車中で食事をしてほしくないのなら、それを無視して車中で食事をしないようにするはずです。また狭い路地に不用意に入って、車体をこすり、傷をつけるような不注意な運転もしないはずです。しかし、もしそれが自分の車であるならそこまで慎重には考えないのではないでしょうか?この例えから分かるように、クリスチャンの歩みは自分の身体の本当の持ち主を誰であるかと考えているかで大きく変わってしまうのです。ですから20節に書かれている、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」というみことばに注目しなければなりません。その買い取ってくださったお方は主イエスキリストです。そして、高価な代価とは最も価値あるご自身のいのちなのです。ですから私たちの身体はイエス様のものなのです。そのこと自体本来驚くべきことです。なぜならば、本来罪人である私たちの身体はこのような高価な代価で買い取られることはありえないことだったからです。これはただイエス様の深い愛によるものなのです。私たちはイエス様の愛に感謝し、そのイエス様のみこころに従って歩むべきなのです。
 ではイエス様のみこころとは何でしょうか。それは20節に「ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」と書かれてあるように、神様のご栄光を表すことです。ですから自分自身のからだをイエス様のものとして捧げるならその人は神様のご栄光を現すものとして用いられる歩みをはじめるはずです。しかし、もし弁えず自分のからだを自分自身のものとして扱うなら、その人の歩みは自分の肉を喜ばせる歩みしかできずイエス様を悲しませる結果になってしまいます。『私たちの身体はイエス様のものである。』といっても、イエス様は私たちを強制的に従わせようとは考えておられません。イエス様は買い取ったその人が最も価値ある人生を歩めるように導こうとしておられるのです。そのために私たちの内に聖霊なる神様をお与えくださり、私たちが聖霊なる神様に頼るなら私たちを力づけ、正しく価値ある歩みができるように必ずしてくださるのです。私達クリスチャンは自分の身体を本当の持ち主であるイエス様に委ね、神様のご栄光を現す尊い器として用いられる歩みをするひとりひとりでありましょう。

2016年05月15日 使徒の働き12章1節~19節より

 この時、教会に対する迫害が激しさを増す中で、ヘロデ王はヨハネの兄弟ヤコブを殺害しました。そして、ついにはペテロまでもが捕らえられ、殺されることが決まり、牢に入れられてしまいました。当時のクリスチャンたちにこの状況を解決する力はありませんでした。しかしそのような状況下だからこそ、教会は彼のために熱心に祈り続けていました。これは私たちにとって素晴らしい模範です。
 なぜなら私たちクリスチャンもこの地上を歩む中で、たましいの救いについてや、自分自身や家族の病気、また対人関係や金銭的な問題などが起こります。それはこの時と同じように、自分の知恵や力では到底解決できないような問題です。そのような時に、私たちは神様に祈ることができるのです。多くの聖書箇所で、神様は私たちに祈ることを強く命じておられ、それと同時に祈りは必ず聞かれ、こたえられると約束してくださっています。私たちは、個人で祈り、また兄弟姉妹が共に集まって心をひとつにして祈りをささげることができるのです。またイエス様もこの地上を歩まれた際、いつも神様に祈っておられました。人となられた神の御子は祈りの人であられました。
 しかしその一方で、私たちが反面教師とすべき出来事も記されています。まず、牢の中にいたペテロに注目してみましょう。ヘロデが彼を民の前に引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは深い眠りに陥っていました。この様子は神様への信頼と見ることも出来ます。しかし、御使いが彼を助け出していた最中も、ペテロは夢うつつ、半信半疑であったのです。彼は門の外に出て御使いが彼から離れていった時に、初めて彼は自分の置かれている状況にはっきりと気付きました。もし彼が眠らず熱心に祈っている最中に御使いが現れ、奇蹟の連続をくぐり抜けて牢の外に連れ出されていたらどうであったでしょう。ペテロはもっと神様の御力を味わえたはずであり、喜びをもって神様を褒め称え、さらなる感謝を捧げる機会を得ていたことでしょう。私たちは霊的な眠りが神様への不信仰の表れであり、大きな祝福を逃す危険性がある事にもっと注意を払うべきです。
 次に、ペテロのために祈っていたはずの教会にも問題がありました。ペテロが無事に戻ってきた時、彼らの反応はどうであったでしょう。彼らはペテロの救出を心から願い、熱心に祈っていたはずです。しかし彼らは、ペテロと応対した女中の言葉を信じることが出来ず、また彼らの中の多くの者がペテロの無事な姿を見て非常に驚いてしまいました。その理由はどこにあるのでしょう。それは彼らが神様に全き信頼を寄せていなかったからです。口先だけの祈りや、どれほど熱心に祈っていたとしても、その人が本当に神様を信頼していないなら、神様に不名誉を帰すのです。その人はたとえ神様が祈りにこたえてくださり、神様のご栄光を見せられても、真心からの感謝をもって神様を褒め称える機会を逸してしまうのです。
 ぜひ私たちは彼らの失敗を反面教師とし、ますます神様を信頼して、いついかなる時も祈り求める者であらせていただきましょう。

2016年05月08日 イザヤ書44章9節~22節より

 日本人には色々なところに神と呼ばれるものを造りそれを拝む習慣があります。例えば四国には八十八か所巡りと呼ばれる宗教行事があり、それぞれに造られた神があります。人々はその神々に願い事を捧げながら八十八か所をまわるのです。沖縄の小豆島にも同様の宗教行事があり多くの人々が観光の一環としてそこを訪れるそうです。また、仏像や神棚、墓や仏壇なども手を合わせ拝むために造られています。彼らは「手を合わせて拝むのだから、私の願い事を聞いて欲しい。」と考えています。しかし、聖書はこのような拝むために造られたものを『偶像』と呼び、偶像を拝む行為を『むなしい』(9節)と語っています。『偶像は』いくら立派に見え、神々しく見えても木、鉄、石などで造られたただの物にすぎず、本当の神様ではありません。そのことを一番知っているのは偶像を造っている職人であるといえます。彼らは自分が造っているものがただの木や石などからできた物にすぎないことをよく知っています。ある宮大工の職人が生涯の最期にイエス様を信じ受け入れました。それは自分が今まで造ってきた伊勢神宮などの偶像が神ではないと認めることでした。彼は信仰を持つまでは神棚などを拝んでいましたが、心の中ではそれが神ではないことを認めていたのです。実にすべての人は偶像が本当の神様でないことを知っています。また、このよくできた世界を見るならば、偶然に世界は生まれず造り主なる神様がおられることも明らかなのです。
 それにも関わらず偶像を造り、それを拝むのはなぜでしょうか?それは真の神様に反抗するためなのです。人は自分の造り主を認めその下に服従することを嫌っているのです。そして自分の気に入った偶像を選びそれに願いを捧げることで、自分に服従する神を造りたがっているのです。しかし、44章6節で真の神様ご自身が『わたしのほかに神はいない。』と語っておられます。そして天地万物を造られた神様は私たちを造り、生きる上で必要なものを全て私たちに与えてくださっています。ですから神様からの恵みによって生きていられる人間が神様を無視し、偽物の神である偶像を拝む行為は神様に対する反逆であり罪なのです。そして人は嘘や争いなどの多くの罪を犯し続けその生涯の最期は『人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。』と書かれているとおり、永遠の地獄に行くことなのです。しかし、神様はそのような罪人を永遠の地獄から救うためにご自身の最愛の御子イエス様を遣わしてくださいました。イエス様は神様ですからまったく罪をもっておられませんでした。しかし、私たち人間の罪の咎を身代わりに担うため、十字架にかかりその上で神様から裁きを受けてくださいました。ですからイエス様を信じる人はその人の罪はすべて赦され、地獄ではなく天国へ行くことがゆるされるのです。そのことを証するために、イエス様は死後三日目によみがえられました。どうかイエス様を信じ受け入れてください。そして、罪が赦され天国へ行くものとなってください。

2016年05月01日 コリント人への手紙第二1章3節~11節より

 クリスチャンになれば苦しみや悩みから完全に解放されるのでは、と考える人が時々います。しかしその考えは間違いだといわなければなりません。なぜなら「私たちにキリストの苦難があふれている(5節)」「もし私たちが苦しみに会うなら(6節)」と書かれているからです。例えば、未信者に伝道や証しをする機会が与えられた時に、反対や攻撃を受け、苦しむことが多くあります。また病気によって苦しむこともあります。そのほかにも経済的な原因などで苦しむ場合もあるでしょう。手紙の著者であるパウロ自身も死を覚悟するほどの激しい迫害を受けました(8,9節)。ではなぜクリスチャンはこのような苦しみを経験しなければならないのでしょう?
 神様は私たちを愛される全知全能なる御方ですから、私たちを苦しみの中から救い出される前に、そもそも私たちが苦しみに会わないようにすることもお出来になります。しかし神様はある目的をもって、私たちが苦しみを経験することをよしとされるのです。
 そのひとつ目は、私たちが「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるため(9節)」です。クリスチャンが自分を信頼して歩むことは危険です。私たちの目がいつも神様へと向けられ、神様が救い出してくださるという望みを神様に置くため(10節)に、神様だけをより頼んで歩む幸いな者とするために、神様はあえて私たちに苦難をお与えくださるのです。
 ふたつ目は、私たちが「自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めること(4節)」ができるようにし、「自分自身が受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力(6節)」を他の兄弟姉妹に与えることができるようにするためです。神様はどのような苦しみにあっている時も、私たちが神様に信頼して歩むならば必ず私たちを励ましてくださいます。そしてその時に神様は、同じような苦しみを味わい、神様を信頼し、神様から励ましを受けた経験のある兄弟姉妹を用いてくださいます。神様ご自身が苦しみを味わった兄弟姉妹を通してはたらかれ、同じ逆境の中にいる他の兄弟姉妹にあふれんばかりの慰めと励ましをお与えくださるのです。
 このように、私たちはどのような苦しみの中にあっても、イエス様に信頼するなら必ず守り通され、必ず助け出されます。また、私たちがこのことを信じて歩むなら、他の兄弟姉妹を励ますことにも用いていただけるのです。神様はそのために私たちを苦しみの中に置かれることをよしとされるのです。どうか私たちのすべてが、互いに苦しみと慰めをともにしていること(7節)を覚え、ますます神様への信頼をもって歩む者であらせていただきましょう。

2016年04月24日 エペソ人への手紙1章3節より

 私たちは神様から「あらゆる霊的祝福をもって祝福されている」と書かれています。そこで神様が私たちにくださる祝福とは何でしょうか。神様は私たちを地獄から救い、天国へ行くものとしてくださいました。そして救われた後も、私たちが幸せに生きることができるように祝福してくださいます。それは私たちにとって本当に素晴らしいものが何かを教え、それを与えてくださるということです。ここで注意が必要なのは、その祝福が「天にあるあらゆる霊的祝福」であり、イスラエルの民に与えられたような地上的な祝福(地位、名誉、財産、長寿など)ではないということです。例えば、クリスチャンは多くの場合神様に忠実に歩もうとするなら、お金持ちになることは難しいでしょう。日曜日礼拝を捧げるために仕事を休むなど、仕事よりも神様を第一にするなら、仕事を見つけるのにも苦労が伴い、収入が減ることも覚悟しなければいけないからです。また、長寿、良い人間関係を築くといった地上的な幸せも必ずしも与えられるわけではありません。これだけを見ると新約の時代の信者は旧約の時代の信者よりも損をしているように見えるかもしれません。
 しかしそうではありません。それどころか逆に得をしているということができるのです。なぜならば、地上的な祝福はたといそれがどれだけ素晴らしくても生きている間だけのものであり、死んだら手放さなければならないものであるからです。この世のものは一時的です。しかし、わたしたちが受ける天的な祝福は、永遠に朽ちることなく続くものです。
 また、この世のものは天のものよりもはるかに劣っています。神様は霊的祝福について『目で見たことがないもの』『心に思い浮かんだことがないもの』とみことばに記しておられます。つまりそれは私たち人間の想像を超えた素晴らしいものなのです。
 さらにこの祝福は『キリストにあって』与えられるとあります。これは私たちとキリストがひとつのものとして神様によって見て頂いているという真理に基づいています。キリストは十字架の御業によって、神様との特別な愛の交わりの中に入られ、この上ない栄光と祝福をお受けになられました。夫婦がそれまで個人で所有していたものを結婚後二人のものとして共有するように、私たちクリスチャンはキリストが天でもっておられる全てのもの、すなわち神からの所有財産を、キリストとともにもつことが許されているのです。
 そして私たちにとって励ましなのは、この天的な祝福を、地上を歩んでいる時もほんのすこしですが味わうことができるということです。それは地上のものとは比較ならないほど素晴らしいものです。ぜひ私たちクリスチャンは天的な祝福を求め、歩む者でありましょう。

2016年04月17日 サムエル記第二9章1節~13節より

 この時メフィボシェテは、エルサレムから遠く離れたロ・デバルで生活していました。なぜなら彼は先代の王サウルの孫であったので、当時の慣習によるとダビデに殺されて当然の立場であったからです。ところがダビデは「私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい(1節)」と言ったのです。自らを「死んだ犬のような私(8節)」と呼んだメフィボシェテの側には、ダビデから恵みを受ける理由は何ひとつありませんでした。彼は両足が不自由でしたので、ダビデの役に立つこともできません。しかしダビデは、彼の父ヨナタンと結んだ契約のゆえに、彼に恵みを施し、祝福を与えました。さらに王の食卓で王の息子たちのひとりのようにいつも食事をすること、すなわちメフィボシェテと親しい交わりをもダビデは願いました(7節)。
 さて、メフィボシェテとダビデの関係は、私たちとイエス様の関係と非常によく似ています。まず、メフィボシェテがダビデによってさばかれ、殺されて当然であった以上に、私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら(エペソ2:3)」でした。すなわち私たちは自分自身の罪ゆえに神様にさばかれ地獄へ落ちて当然の者たちでした。また私たちは、神様にとって何の役にも立たない、弱く愚かな者たちです。しかし、神様は恵みによって私たちを一方的に愛され、イエス様の十字架と復活という素晴らしい救いを用意してくださり、私たちを永遠の地獄から救って下さいました。それだけではありません。さらに救われた私たちに、「神のこどもとされる特権(ヨハネ1:12)」までもお与え下さったのです。神様はダビデがメフィボシェテと交わりたいと願った以上に私たちと交わりたいと願われ、今も恵みを注ぎ続けて下さっておられます。
 またメフィボシェテが「エルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。(13節前)」のは、彼の「両足が共になえていた。(13節後)」からでした。彼はダビデの恩恵をいつも味わえるように、不毛の地ロ・デバルを去りダビデの元に身を寄せました。この世も神のこどもにとってまさに不毛の地です。味わえる喜びは儚く、一時的でしかありません。クリスチャンが神様と交わる特権を重視せず、万が一にもこの世を愛することに時間を費やしてしまうなら、たとえ救いを失わず、天国に入ったとしても、せっかくの人生を無駄に過ごし、台無しにしてしまうことになるのです。そしてそれ以上に、もし私たちが神様との交わりを軽んじるならば、神様はどれほど悲しまれるでしょうか。私たちはメフィボシェテ以上に神様との交わりを求めるものでありましょう。
 最後に交わりを持つための助けも与えられている点に注目しましょう。ダビデはサウルのしもべであったツィバに対し、メフィボシェテに仕えるように命じました(12節)。メフィボシェテがダビデと親しい交わりを持てるように、ツィバはメフィボシェテのしもべとなったのです。私たちにも神様と交わりが持てるように十分な「助け」が与えられています。それは神様との交わりを求める新しい性質、「新しいいのち」であり、またそれを実現する力をお与え下さる「聖霊」です。私たちとの交わりを願われる神様は、必要のすべてを備えて下さっているのです。どうか、聖書を読み、神様に祈り、神様と交わる特権をこれからも十分に味わう者であらせていただきましょう。

2016年04月10日 マタイの福音書3章17節~4章11節より

 イエス様がヨハネからバプテスマをお受けになられた直後、御父は天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。(3:17)」と告げられました。イエス様が悪魔から試みを受けられるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれたのはその直後です。御父に愛され御父をお喜ばせするイエス様は、悪魔にとって憎しみの対象でした。ですから悪魔はイエス様を誘惑し、神様のご栄光に汚点をつけたかったのです。この悪魔は、イエス様を信じる信仰によって救われ、神の子どもとされた私たちクリスチャンにも、同じように誘惑をしかけてきます。なぜなら、神様から愛され、神様に従順で神様をお喜ばせするクリスチャンも、福音伝道を嫌う悪魔の敵であるからです。イエス様は悪魔の誘惑に対する勝利の秘訣を、ご自身の実例で私たちにお示し下さいました。
 注目すべきことは、イエス様は神としての御力をもって悪魔を退けられたのではなかった点です。私たちの神様への信頼をぐらつかせ、次に不信仰に陥れるという悪魔の手口は、昔も今もこれからも変わりません。なぜなら、多くのクリスチャンがずっとこの罠に捕らわれ続けてきたからです。ところがイエス様は私たちと同じ弱い人間の立場をとられ、御言葉だけをもって悪魔に立ち向かわれ、その結果、完璧に悪魔を退けられました。神様への揺るぎない信仰と、また御言葉を疑わずに信じて歩むことこそが、悪魔の誘惑や攻撃に対する最も有効な攻撃手段であることをイエス様は身をもってお示し下さいました。
 まず悪魔は、四十日四十夜断食され空腹であられたイエス様に対して「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい(3節)」と言いました。イエス様が神としての権威を使われ、たとえパンを石に変え空腹を満たされたとしも、それは罪ではありません。悪魔は人間に対し、自分の才能や能力を用いて人生を楽しませること、世的な生活を優先することを勧めてきます。時にはそれ自体は罪でないことをするように誘惑してきます。しかし、自分のたましいや生活を健全に保つために、私たちが最優先すべきことは「神の国とその義とをまず第一に求め(マタイ6:33)」ることです。必要はすべて神様が十分に満たして下さり、「人はパンだけで生きるのではなく、(中略)ことばによる(4節)」からです。
 次に悪魔は詩篇91篇の一部を巧妙に省いて引用し「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて(中略)、』と書いてありますから。」と言いました。御言葉を悪用し、人間の肉の欲を肯定するのも悪魔の常套手段です。少しぐらい罪を犯してもいいのではないか、と悪魔にだまされてはなりません。恵みを放縦に代え「神である主を試み(7節)」ることは恐ろしい罪です。
 最後に「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(9節)」とも悪魔は言いました。真理への妥協を条件に、私たちの世的な願いを叶えてあげようと悪魔は囁きます。あるいは神様の御栄光のために、ということすら言ってくるでしょう。しかし、イエス様は一切の妥協をゆるされず、御父の御心だけを求め、十字架の道をまっすぐ歩まれました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ(10節)』
 このようにいかなる誘惑に対してもイエス様は常に「…と書いてある」と御言葉だけを用いられ、悪魔に見事に勝利されたのです。どうか私たちもこのイエス様にますますならうことを求めて歩む者であらせていただきましょう。

2016年04月03日 列王記第一3章3節~15節より

 私たちは神様がソロモンに『あなたに何を与えようか。願え。』と仰せらたこの場面から、私たちが神様に何を求めるべきなのかを学ぶことができます。ソロモンは9節にあるように『聞き分ける心』すなわち民を正しく裁くために必要な知恵を求めました。これは、『主の御心にかなった』と書かれている通り、悪いことではありませんでした。実際ソロモンの願いは富や名誉や敵の命を求めるといった自己中心的なものではなく、神様から委ねられたイスラエル王国を治め神様に仕えたいという真っ当な動機からくる良い願いであったといえます。ですから神様は彼に多くの知識と知恵を与えられ、彼はそれを用いてイスラエル王国を治めました。しかし、この願いは『良い』願いではあったものの、『最善の』願いではありませんでした。そのため、治世のはじめこそ良い政治をしていたソロモンも、結局は堕落し多くの外国人の女性を妻に娶り、彼女たちが行っていた偶像礼拝を推奨してしまいました。では、ソロモンは何を求めるべきだったのでしょうか?その答は14節にあります。『また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。』ソロモンはダビデのように歩むべきでした。さらに『あなたは、あなたのしもべ、わたしの父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心をもって、あなたの御前を歩んだからです。』(6節)とあるようにソロモン自身もダビデの信仰の歩みをよく知っていたのです。しかし、ソロモンは父ダビデのようには歩まず堕落してしまったのです。
 では、具体的にダビデはどのような歩みをしたのでしょうか。ダビデは素晴らしい信仰者でしたが、ソロモンに与えられたような知識や知恵はありませんでした。また、多くの失敗を犯し、信仰者である部下を殺し、その妻を奪うという殺人と姦淫の罪という大罪を犯したこともありました。しかし、彼は誠実と正義と真心をもって、あなたの御前を歩みました。彼は神様から罪を示されたときすぐに悔い改めたのです。ですから彼は多くの失敗の後、信仰の歩みを回復することができました。これは息子ソロモンの歩みとは対照的です。彼は偶像礼拝の罪を犯し、神様から二度にわたる警告を受けながらもそれを拒んだのです。彼はダビデのように神様に立ち返ることができなかったため、生涯の最期は惨めな状態になってしまいました。このように私たちも知識や知恵だけでは神様に用いられる祝福の人生を歩むことは決してできません。本当に必要なことは神様の御前にへりくだることです。本来あるべきではないことですが、残念ながら私たちがこの地上を歩む上で失敗は避けることができません。私たちにとって大切なことは、神様から間違いを指摘されたその時に、素直に罪を認め悔い改め、神様に立ち返ることです。私たちはたとえ間違いを犯しても、神様の御前でへりくだり、間違いを認め悔い改めるものを神様は恵みをもって立たせ用いてくださいます。ですからソロモンのように間違いを認めない頑ななものではなく、ダビデのように神様のみ前でへりくだる一人ひとりでありましょう。

2016年03月27日 詩篇119篇105節より

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

 「あなたのみことば」とは神様の御言葉、すなわち聖書のことです。では、聖書が「私の足のともしび、私の道の光」とはどういう意味でしょうか?
 暗い夜道を歩く時には光が必要です。クリスチャンの歩みにもそれと同じ事が言えます。クリスチャンがこの世という暗闇を歩む時、聖書こそ足のともしび、道の光であるのです。もしクリスチャンが人間の意見や他人の人生経験など、つまり聖書以外のものを代用して歩むなら、正しい道を見いだすことは出来ません。また、聖書を読んだり学んだりしない人は、真っ暗闇の道路をライトもつけず疾走する自動車のように、たちまち自分の身を危険にさらすことになります。人が救われるためにも、また救われた人がこの世を歩むためにも、聖書はなくてはならないのです。さらに、この暗闇の世界において、私たちを誤った道へ引きずり込もうとする悪魔の存在にも十分な注意を払わなければなりません。悪魔はクリスチャンから救いの喜び、証しや福音伝道の力を奪おうと常に隙をうかがっています。この悪魔に騙されず、神様にお従いし、神様をお喜ばせし、やがて天で神様から永遠の報いをいただく歩みをするためにも、聖書はとても必要です。
 「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。(97節)」詩篇全体はイエス・キリストに関する預言です。ですからこの箇所の「私」とは、イエス・キリストご自身を指しています。イエス様が「みおしえ」すなわち、神様の御言葉をたいへん愛され、片時も忘れずに想いをめぐらせておられた事がわかります。神の御子は私たちの模範となられ、御父の言葉をその足のともしびとして、その道の光として歩んでおられたのです。
 また、聖書は「乳(Ⅰペテロ2:2)」や「食物(ヘブル5:12)」にもたとえられています。つまり、聖書はクリスチャンの力の源であるのです。生きている人が健全に過ごすために毎日食事をとるのは当然です。ならば、もしクリスチャンが毎日聖書から霊的な栄養や力を得なければどうなるでしょう。当然その人は霊的な病気にかかり、瞬く間に健全な歩みが損なわれてしまいます。新しいいのちを神様から与えられたクリスチャンには、その願いの大小に関わらず、必ず御言葉への愛があるのです。ですから、聖書を読みたくも学びたくもありません、聖書には全く興味が湧きませんなどという人は、自分の中に新しいいのちが実際にあるのかどうか、すなわち死後にある罪の刑罰である永遠の地獄から救われ、本当に天国に入れる者とされたのかどうかを疑わなければなりません。これは厳粛な問題です。
 さて、皆さまは日々の食事のように、聖書を毎日読んでおられるでしょうか?また、聖書を正しく学んでいるでおられるでしょうか?悪魔の格好の餌食とならないために、そして歩むべき正しい道を見いだし、その道を力強く歩ませていただくために、ますます聖書を熱心に読まれ、よく学ばれる者でありますように。

2016年03月20日 ヨハネの福音書4章23節~24節より

 クリスチャンの中には病の中にあっても「礼拝をささげたい」という強い願いから礼拝をささげられる人がいます。末期のガンで痛みや苦しみがある中でも、教会に来て礼拝をささげるクリスチャンがいるのです。その証は同じ境遇にあるクリスチャンを大いに励まします。このようにしてささげる礼拝は決して義務感からくる『ささげなければならない』という思いではなく、純粋な『礼拝をささげたい』という思いが動機になっています。実は、これこそが神様が求めておられる礼拝です。私たちはこのような思いをもって、真心からの礼拝をささげているでしょうか?
 私たちは、生まれつきの人間には神様に真心からの礼拝をささげることは不可能であることを認めなければいけません。それは、アダムが罪を犯したため、本来人間が神様と交わりを持ち、神様を礼拝するために与えられた霊が死んでしまったからです。旧約聖書の時代に、神様によって礼拝を命令されたイスラエル人たちが、その命令を守ることができなかったのがその良い実例です。そのため、新約聖書にはローマ書12章1節にお願いとして、思慮ある礼拝へのすすめはありますが、命令として『礼拝しなさい。』といわれている箇所がないのです。
 このように言うと、『では命令されていないのだからしなくても良いのでは?』『毎週律儀に礼拝を守らなくても、何か別の用事があるならば、礼拝を休んでも良いのでは?』という人がいます。しかし、それはその発想そのものが間違っているといわなければなりません。というのも、創世記1章には人間が創造されたとき、様々な娯楽など現代の人間にとって楽しみとなるものが一切なかったことが分かります。しかし神様は『全てが良かった。』と言われました。なぜならば、人間が神様と交わることができたからであり、それで十分だったからです。私たち人間は神様と愛の交わりを持つためにつくられました。ですから、人間が神様と交われないのなら、人間には生きる意味がなくなってしまうのです。ところが、人間に罪が入り込んだ結果、霊が死に神様との交わりが絶たれ、『礼拝したい』という思いそのものがなくなってしまったのです。『命令されていないのだから礼拝しなくても良い。』と考えることは人間に罪が入り込んだ結果生まれた発想なのです。
 しかしイエス様は『霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。』と言われました。どのように、霊が死んだ人間が再び神様を礼拝することができるようになったのでしょうか?それは、イエス様が十字架上で行ってくださった贖いの御業によってです。イエス様が十字架にかかられたのは、私たちを地獄から救うためだけではなく、私たちがもっている霊を生き返らせ再び神様と交わり、礼拝することができるようにするためでもあったのです。ですから、私たちはこの霊をもって真心から礼拝をささげるものでありましょう。

2016年03月13日 ヤコブの手紙2章14節~26節より

 人が救われるのは決してその人の行いや努力によるのではありません。人はイエス様を自分の救い主として信じる信仰によってのみ救われます。ところがこの箇所にはそれと全く正反対のことが書かれているように思えます。「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。(17節)」「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。(24節)」神様の御言葉である聖書に矛盾があるはずありません。では、私たちはこの箇所をどう理解すればよいのでしょう?
 表と裏に別々の刻印がされている1枚のコインについて考えてみましょう。見る角度によっては、それは異なるコインに思えるかも知れません。しかし、それが1枚のコインの表裏であるならば、同じコインであるのです。同様にこの箇所は「救いに至る本物の信仰」を別の角度から見ているのです。つまりここで語られていることは、行いの結果として人が救われるということではなく、人がイエス様を信じたなら、すなわちその人の信仰が本物であるのなら、必ず結果として行いが伴うのだということです。
 聖霊がヤコブを用いてこの手紙を記された理由がここにあります。それは当時にも救われていない口先だけの信仰告白者、偽物の信者がいたからでした。自分は信じている、だから救われている、といくら思っていても、その人が本物の信仰を持っていなければ、死後は永遠の地獄です。これは悲劇であるとしか言いようがありません。単なる口先だけの信仰で人は絶対に救われません。「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。(15-16節)」どれほど言っていることが正しくても、もし行いがないなら何の役にも立たない事例がここではっきり記されています(17節)。
 また、真剣に「イエス様を信じる」と言っていても、その意味を誤解している場合もあります。イエス様が歴史上実在される御方であり、十字架の死と復活が歴史的事実である認めているだけの場合や、天地万物を創造された神様のご存在を単に認めているだけでは「自分はイエス様を信じているので、救われている」ということはできません。同じ事実を事実として認めている悪霊は決して救われてはいません(19節)。つまり聖書が語っている信じるとは「事実を事実として認める」ことではありません。

 「イエス様を信じる」とは、事実を事実として認識する以上の意味、すなわち「イエス様を受け入れる」という意味を含んでいます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)」この箇所には信じることが受け入れることだと書かれています。イエス様を信じ受け入れた人には神様から「新しいいのち」が与えられ、聖霊がイエス様の代理としてその人の内に住まわれます。そしてその聖霊のはたらきによって、救われた者には救われた者にふさわしい行い、結果が必然的に生み出されるのです。救われた者は周囲の人に対し、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。(18節)」と語り、「義と認められる《自分が義であることを示す》(24節)」ことができるのです。
 さて、私たちの信仰も吟味いたしましょう。聖書が語る正しい意味で本当にイエス様を信じているのか、偶像との関わりを絶ち、神様を礼拝したい、イエス様を愛しこの御方にお従いしたい、こういった願いや行い(神のこどもに与えられた特権)が私たちの内にあるでしょうか?もしそれらの思いが全く無いというなら、自分自身の救いを疑わなければなりません。私たちのすべてが救いの確信を大胆に持つものでありますように。そしてますますこの救いを喜んで歩む者でありますように。

2016年03月06日 コリント人への手紙第一16章21節~24節より

 『パウロが自分の手であいさつを書きます。』(21節)とあります。パウロは普段、自分が話した内容を他の人に代筆してもらっていました。それは彼の眼が非常に悪く、大きな字しか書けなかったので、当時高価であった紙を無駄に使わないようにするためでした。しかし、この箇所では自分の手で書いています。それは、パウロ自身がどうしても伝えたい大切な内容であったからです。『主を愛さない者はだれでものろわれよ。主よ、来てください。』(22節)
 ここで使われている『のろわれよ』は原語によると、『滅ぼし尽くされよ』とも訳される非常に強烈な言葉です。私たちはこれを聞くと地獄を連想するのではないでしょうか。通常このような言葉はあいさつで使われることはありません。このことが直接語られている相手は偽信者です。なぜなら偽信者の特徴がまさにイエス様を愛さないことだからです。実に彼らはイエス様を信じていると告白しながら、イエス様への従順を否定し、自分を喜ばせる歩みをし続けるのです。しかし、これはわたしたちもよく覚えておくべきことばなのです。私たちはこのみことばから、イエス様を愛さないということが、イエス様をどれだけ悲しませ、侮辱する罪深い行為であるのかを知る必要があるからです。ここで使われている愛とは原語では「互いに愛し合う」ことを意味しています。イエス様はまず私たちを愛してくださいました。その愛は私たちのためにご自身のいのちをお捨てになるほどの大きな愛でした。愛の大きさは払われた犠牲の大きさによってはかられます。イエス様が払われた犠牲は御子なる神様であられるご自身の尊いいのちであったのです。それにも関わらず私たちがイエス様ではない他のものを愛することは、「私はイエス様よりも、イエス様を十字架につけたこの世のものを愛しています。」と宣言することにほかなりません。実際にこの世のものを見るならば、その中に神様を誉め称えるものはひとつもありませんし、無神論的なものほどこの世では流行り、多くの人が熱狂することからも分かります。ですから、私たちはこの世のものを愛してはならず、イエス様のみを愛するべきなのです。とはいえ、私たち自身が自分の努力でその愛を生み出すことは不可能です。私たちの古い性質にはそのような愛は全く存在していないからです。この愛もまた神様から与えられるものです。私たちがイエス様をもっと愛することができるように願い求め、祈るなら神様は私たちにその愛を与え、増し加えてくださいます。そして、その愛の具体的表現が「イエス様の再臨を待ち望む」ことです。それがもうひとつのあいさつである『主よ。来てください。』です。このことから、イエス様の再臨を待ち望まないことは、イエス様以外のものに目が向いていることの証拠であり、イエス様を愛する愛が小さくなっていることの証拠であるともいえるのです。どうか、日々イエス様を愛し、イエス様の再臨を待ち望むものでありましょう。

2016年02月28日 マルコの福音書1章16節~20節より

 ここにはイエス様がペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人を弟子として召された出来事が記されています。彼らはイエス様の「私について来なさい(17節)」との御言葉に従いました。イエス様が彼らを召された目的は、彼らを福音伝道の働きに用いるためでした。
 しかし、この働きが与えられたのは当時の弟子達だけではありません。また、現在の牧師や、一部の熱心なクリスチャンだけが行えばよいのでもありません。なぜなら、イエス様は私たち全員に同じ使命と責任をお与えになったからです(マルコ16章15節)。
 イエス様は漁師であった彼らに対し、「人間をとる漁師にしてあげよう(17節)」とも語られました。福音伝道の働きと漁師の仕事には、困難と忍耐という共通点があります。水面下にいる魚を捕まえる事は容易ではありません。また、どれほど熟練した漁師であっても、一匹も魚が捕れないこともあります。魚を捕まえるには忍耐が必要であり、それは伝道にも同じ事が言えます。多くの時間、費用、労力をもって福音新聞をたくさん配ったとしても、返信はがきや電話の反応はほとんどありません。また、福音を聞いた人がすぐにイエス様を信じる事もまれです。家族や身近な人への個人伝道も同様です。福音伝道の働きは人間の観点から見れば実に効率の悪い働きと言わざるを得ません。
 しかし、この地上で福音伝道の働きが完全に止んでしまったことは一度もありません。なぜなら、たとえいかなる犠牲、困難、忍耐が伴ったとしても、この働きには何物にも代えがたい素晴らしい価値があるからです。それはたましいの救いです。地獄の炎の中で裁かれるはずであった者が罪の赦しと永遠のいのちを得る価値をお金に換算することはできません。また、神様に逆らい神様の御栄光に傷をつけることしかできなかった罪人が、神様に感謝をささげ、神様を賛美し、神様の御栄光を表すために生きる者に代えられる、その価値は計り知れないのです。
 このたましいの救いを心から喜び、神様に栄光を帰す事ができるのは、福音伝道に携わる者だけに与えられた大きな特権です。あらゆる時代に、あらゆる場所で福音伝道が続いて来たのは、このような理由があるからです。しかし、もしクリスチャンがこの特権を軽んじてしまったり、困難に悩まされ、神様に祈ることなく伝道を止めてしまったなら、この喜びを味わうことはできません。決心者の信仰告白という幸いな現場に立ち会っても、他の兄弟姉妹と喜びを存分に分かち合えない場合もあるのです。
 そこで、「私について来なさい(17節前)」「イエスについて行った(20節)」という二つの御言葉に注目しましょう。福音伝道に必要な力の源がここに明確に記されています。困難と忍耐が要求される福音伝道を、人間の頑張りや力で行うことは絶対に不可能です。私たちがイエス様だけを信頼し、イエス様について行くならば、イエス様が私たちを「人間をとる漁師」として用いて下さるのです。福音伝道は神様の御働きです。イエス様ご自身が私たちの先頭を歩まれ、イエス様ご自身が私たちの力となって、この尊い務めを私たちに行わさせて下さるのです。どうか私たちの皆がこのことを覚え、ますます福音伝道のために、神様のご栄光のために用いられる事を求め願う者でありますように。

2016年02月21日 ヨハネの福音書4章1節~26節より

 ここにはイエス様がサマリヤ人の女を救いへと導かれた出来事について記されています。ここから私たちは、イエス様がどのように人を救いへと導かれるのか、また救われた人々にどう歩むことを望んでおられるのかを知ることができます。結論から言えば、イエス様が私達に求めておられることは礼拝です。では礼拝とは何でしょうか?日曜日の朝に教会に来ることが礼拝なのではありません。私たちが日曜の朝に教会に来る理由は、イエス様がよみがえられた朝だからです。また一週間の一番はじめの時間を神様に捧げることによって、神様を何よりも優先するのだ、という思いを表すことができます。そして、礼拝という言葉は「これ以上ないほど近づくこと、くちづけを交わすなどの愛情を交わす行為」を意味しています。すなわち礼拝とは、神様を心から愛し、神様を何よりも一番にし、神様と親しく交わることなのです。この目的のために神様は私たちを救い、礼拝者として召してくださいました。
 そのために、イエス様は非常な労苦をされました。4節「サマリヤに通って行かなければならなかった。」とありますが、地図上では必ずしもサマリヤを通る必要はありません。このことからイエス様がサマリヤに来られたのはこのサマリヤ人の女を救うためであったことがわかります。イエス様は非常な労苦をも厭わず、救いを求めている人のもとに直接来られる方であることがわかります。同様にイエス様は私たちを救いへと導くために私たちの下に直接来てくださる方であられるのです。私たちが救いへと導かれたきっかけは様々あります。一見偶然に見える出来事の積み重ねで、救いへと導かれたと思えることもあるかもしれません。しかし、それらはイエス様がサマリヤ人の女性を救いへと導くために、サマリヤに来なければならなかったのと同様に、起こらなければならない出来事であったのです。しかも彼女は救いには到底ふさわしいとはいえない人物でした。なぜなら彼女は五度結婚と離婚を繰り返した後、6人目の男性とは籍を入れず同居する不道徳な女性だったからです。さらに、イエス様のみことばを中々理解せず、的はずれな答えを繰り返したのです。しかしイエス様はこの女性の満たされない思いに目をとめ忍耐深く導かれました。ここまでしてイエス様が労苦して救いをお与えになったのはただ彼女を地獄から救うだけではなく、救われるまで死んでいた霊を生き返らせること、すなわち絶たれていた神様との交わりを完全に回復させることによって、神様と親しく交わることができるようにするためであったのです。23節で神様をあえて、父と表現されたのは、神様が人と父子のように親しく交わることを望んでおられることを強調するためであったのです。これは驚くべきことではないでしょうか?本来望むということは不足しているものを得ようとする行為です。しかし神様は全てをもっておられる方なのです。ですから神様が私たちと交わりたいと望まれることは特別中の特別なです。人の中でも権威者を喜ばせることは非常に難しいことです。しかし、私たちは全てをもっておられる神様を、礼拝を捧げることによってお喜ばせすることができるのです。この特権に感謝して、心からの礼拝と賛美をささげ神様をお喜ばせする歩みをするものでありましょう。

2016年02月14日 マタイの福音書5章29節~30節より

 「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら《あなたに罪を犯させるなら》、えぐり出して、捨ててしまいなさい。(29節)」「もし、右の手が、あなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体をゲヘナ(地獄)へ投げ込まれるよりは、よいからです。(30節)」

 目も手も大切な自分のからだの一部です。しかしイエス様は「もしそれらが救いの妨げとなるのなら、たとえどのような犠牲を払ってでも、恐ろしい地獄へ行くべきではありません。地獄から救われなさい。」と、この御言葉をもって語っておられます。
 災害や事故において、被害者の命を救うためにどうしても本人の身体の一部を切断しなければならないケースもあります。その時に救助隊は現場で被害者に究極の選択を迫らなければなりません。どれほど大切な自分の身体であったとしても、誰も命には代えられません。しかし、命よりももっと大切なものがあります。それは私たちの「たましい」です。
 人間は生まれてきた以上、いつか死を迎えます。しかし死は決して終わりではありません。この天と地を創造されたまことの神様がご存在され、また神様がつくられた天国と地獄も当然実在します。神様は聖書を通して、「義人はいない、ひとりもいない(ローマ3:10)」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ(ローマ3:23)」ないと語られています。言葉や行動のみならず、心の中まですべてご存知である聖く正しい神様の前に「私には罪がありません。」と断言できる人間は誰ひとりいないのです。また最も大きな罪は、私たちに命を与え、生かしておられる絶対者なる神様をあがめず、感謝もしないという神様を神様と認めない不敬虔な態度です。さらには偽の神々である偶像を拝み、これらに仕える人間に対し「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と神様は警告しておられるのです。「神は侮られるような方ではありません(ガラテヤ6:7)」罪の刈り取りは火と硫黄の燃える永遠の地獄で受ける恐ろしい刑罰であって、人間は罪を裁く権威をもっておられる神様をおそれなければなりません。
 しかし同時に恵み深く愛なる神様は私たちの罪をゆるし、死後に永遠の地獄ではなく永遠の天国へと入れる者とするために ひとり子のイエス様を救い主としてお遣わし下さいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)」文頭の御言葉を語られたイエス様ご自身が私たちの罪を負われ、私たちの身代わりに十字架上で罪の刑罰をお受け下さり死なれたのです。そして死後三日目の朝に死からよみがえられました。誰でも自分の罪を認め、神様への間違っていた態度を悔い改め(方向転換して)このイエス様を自分の救い主として信じ受け入れるなら、救いを得ることができます。どうか救いの妨げとなるようなものがあるのなら一刻も早くそれらを捨て去り、イエス様を信じて罪のゆるしと永遠のいのちをご自分のものとされますよう、心からお勧めいたします。

2016年02月07日 ヨハネの黙示録3章7節~11節より

 この書簡の2章~3章にはイエス様から七つの教会の御使いたちに対するみことばが書かれています。「御使い」とは天使のことではなく、各教会の集まりを牧会する伝道者を意味しています。ここで注目すべきことは、イエス様は七つの教会の御使いのうち実に五つの教会の御使いに対して何らかの非難のことばをかけておられのに対して、フィラデルフィアの教会の御使いに対しては非難のことばは一切なく、かえって彼を高く評価し、用いようとしておられることがわかります。7節、8節『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるときだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」』ここで言われていることは、イエス様が彼のために福音伝道への門を開いて下さったということです。このように主は彼をますます用いようとしておられるのです。私たちは彼を見て素直に羨ましいと思うのではないでしょうか。仮にイエス様からの評価に全く興味を持たないクリスチャンがいたとしたら、それはおかしなことなのです。ですから私たちはフィラデルフィアの教会の御使いが用いられた理由を学ぶ必要があります。まず彼は「あなたには少しばかりの力があって」と書かれています。これは正確には「少しの力しかない。」ということを意味しています。ですから、彼には人を感動させる話術や聖書についての卓越した知識はありませんでした。しかし彼はイエス様から「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」と言われているように神様のみことばを信仰をもってそのまま受け入れ忠実に守りました。これが、彼が用いられた理由でした。
 しかし、私たちはイエス様に評価してもらいたい、また用いられたいと願う気持ちがありながらも、継続して行っている働きに中々結果が現れないときに神様のみことばを疑ってしまうことがありえるのです。例えば身内に福音を何度語っても全く変化が見られず、「十字架のことばをそのまま語るだけでいいと聖書は書いているが本当だろうか?」と疑ってしまい、「何か別のことを語ったほうがいいのでは?」とみことばの力以外のものに頼ろうとしたり、「自分ではなくもっと賢い人が語ったほうがいいのでは?」と人間に頼ったりすることがあるのではないでしょうか?しかし、私たちはここでフィラデルフィアの御使いがとった態度を学びたいと思います。彼は主イエス様の御名を否みませんでした。イエス様の御名とはイエス様のご性質全てを表しています。すなわちあらゆる歩みにおいてイエス様のご性質にかなった歩みをしようとしたのです。真理を語ればそれに反発するものも必ず現れ、実際にこの御使いもユダヤ人と自称するものに迫害されていたことが9節からみることができます。しかし、イエス様はご自身に忠実なしもべを決して見捨てず必ず守られることを同節で確約されました。このみことばに対する態度によって彼はイエス様によって喜ばれ大いに用いられたのです。ですから私たちもこの御使いを見習い、みことばを守り、それのみに信頼し歩むものでありましょう。

2016年01月31日 マタイの福音書7章7節~11節より

 旧約聖書の中には「祈るのをやめて主に罪を犯す(Ⅰサムエル記12:23)」という表現でもって、祈らないことが罪だと記されています。またイエス様はこの箇所で、私たちに祈ることを命じておられます。では私たちはこの御言葉にあるように祈り求める者でしょうか?残念ながらクリスチャンの中にはあまり祈らない人がいます。また、たとえ祈ってはいても、それが単なる習慣や形式的なものとなってしまい、心から熱心に祈り求めることが出来ていない人もいるようです。
 クリスチャンが祈らない理由のひとつに、自分は神様に頼る必要はないと思っていることがあげられます。これは不遜な思いの裏返しであって、神様に対する大きな罪です。私たち人間は神様によって生かされている存在であり、日常生活の様々な場面でいつも神様の守りの内におかれている弱いものだと覚えておかなければなりません。それを忘れるならば私たちは祈らなくなるのです。日常生活の様々な場面や、進路や就職先を選ぶ時も、神様は私たちに「求めなさい(7節)」と語られます。また御言葉の理解や奉仕のためであるならなおさらです。神様の導きなしに聖書を理解することはできません。また、神様の助けなしに奉仕を行うことも不可能です。世の中には頭脳明晰な聖書学者と呼ばれる人が大勢いますが、彼らの中にはイエス様の神性を平然と否定する者すらいます。神様の御旨を知りたいのであれば、神様に教えて下さいと求めなければなりませんし、神様の御心を行いたいのであれば、そのために必要な力と知恵をどうかお与え下さいと、謙虚に願わなければならないのです。にも関わらず、もし私たちが日々心から神様に祈っていないのであるなら、それは紛れもなく不信仰であり、傲慢の罪であると言わざるを得ません。クリスチャンにとって「祈り」は絶対必要不可欠なのです。
 また、祈っても叶えられないから無駄である、という理由から祈らない人もいます。祈りがすぐに聞かれない状況は、普段から熱心に祈っている人にも訪れます。私たちは神様が祈りに必ず応えて下さる御方であるという確信を、まず御言葉から得なければなりません。脚注にある「求め続けなさい…、捜し続けなさい…、たたき続けなさい…(7節)」は継続を意味し、忍耐をもって祈り続けることの大切さが語られています。そしてイエス様は「だれであれ、求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開かれます(8節)」と語られることによって祈りが必ず応えられるのだと重ねて強調されました。それは父なる神様が私たちを永遠の地獄から救い、神のこどもとするために、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された御方(ローマ8:32)」であることに起因します。神様は天の父として私たち神のこどもの祈りに耳を傾け、人間がその愛する自分の子供に対する以上に、神の御目に良い物(11節)や必要な物をご自分の愛するこどもに喜んでお与えになるのです。しかし、その反対に子どもにとって益とならない物は決してお与えにはなりません。
 このようなイエス様の御約束を信じる者はより祈る者とされます。そして祈りが応えられた者はますます熱心に、どのような事に対しても祈る者と成長させられます。どうか私たちのすべてが祈り続ける者、求め続ける者でありますように。そしてますます神様のご栄光を求め、神様を賛美する者とならせていただきましょう。

2016年01月24日 サムエル記第一30章から

 このときダビデは大変な窮地に陥っていました。というのも彼が部下とともに自分たちの町に帰ってきた時、アマレク人によって家が焼き払われ、財産や家族を略奪されてしまっていたからです。彼らは泣く力もなくすほど落胆してしまいました。中でも、特に落胆したのはダビデでした。なぜならこの悲劇を招いた原因がダビデにあったからです。彼は彼の命を狙っていたサウル王を恐れるあまり、敵国に逃げ込み、神様に頼らずペリシテ人の王という人間的なものに頼ってしまいました。これは彼の不信仰から来る大きな失敗であり、罪でした。実に彼には悔い改める期間が長く与えられていたにもかかわらず、彼は悔い改めず問題を放置しました。この悲劇は彼が悔い改めなかった結果とも言えるのです。
 さて、私達もダビデ同様神様に仕えたいと願い、また実際に仕えているでしょう。しかしそんな中私たちは弱さのゆえに失敗してしまうことがあります。またそれだけならまだしも、私たちは神様に頼らず問題を見て恐れ、この世のものに頼ってしまうという不信仰に陥ったり、また様々な罪を犯したりすることがあります。本来は神様に仕える者はみな神様に頼り続け失敗なき人生を歩むことができるなら幸いです。しかし残念ながら人間は失敗することがあるのです。また、罪を犯し神様を悲しませてしまうことがあるのです。
 そこで落胆のあまり「私はもう神様に仕えることができない」と考えてしまうことがありえるのです。しかし、この後のダビデの行動を見るならそれが間違っていることがわかります。彼はその後、主によって奮い立ちました(6節)。彼は神様の中に力を見出したのです。その姿は直前に泣く力を失うほど落胆していた時とは対照的でした。力を得た彼はまず主に御心を伺いました。主のお答えは「失敗したからもう駄目だ。」ではなく、『追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。』でした。ここに神様の憐れみと恵みを見ることができます。先述の通り本来私たちは失敗すべきではありません。しかし、残念ながら失敗する弱い存在でもあるのです。神様はそんな私たちの失敗を見て、見捨てるのではなく、悔い改めて世から目を離し神様に頼るよう求めておられるのです。もし神様が私たちを見捨てられるのなら私たちは世のものに頼るしかなく、その結果堕落するしかないからです。神様は私たちが堕落するのを黙って放置される方ではありません。ですから失敗したと認めるなら、悔い改めて神様に頼る者でありましょう。悔い改めたダビデはその後敵から膨大な量の分捕りものを取り返すことがゆるされました。このように神様は悔い改めて心から神様に仕えようとする者を必ず満ち溢れるばかりに祝福をお与えになります。この神様にいつもより頼み仕える一人ひとりでありましょう。

2016年01月17日 マタイの福音書20章1節~16節より

 イエス様が語られたこのたとえ話には、神様の御恵みの深さがとても明確に表されています。「恵み」とは愛される価値がないものを、なお愛する愛のことです。ぶどう園の主人は朝早くに労務者達と1日1デナリ(当時の一日分の労働賃金)の契約を結びました。さらには午前9時、12時、3時にも同じ条件で労務者達を雇いました。しかしもっと驚くべき事は、この主人が夕方の5時になってもまだ誰にも雇ってもらえなかった人達とも、その日の朝早く交わしたのと全く同じ内容の労働契約を結んだ事です。夕方まで仕事もせずに立っていた人達とはどのような人であったでしょう。おそらく彼らは朝早く雇われた人達とは違い、見かけも貧弱で、労働価値の劣る、雇う側から見れば魅力の乏しい人でなかったでしょうか?ところがこの主人は彼らを雇い、しかも最後に雇われた彼らから順に1デナリの賃金を支払いました。夕方の5時に雇われた人たちの喜びを想像してみましょう。彼らは主人の気前の良さにどれほど感謝したでしょうか。彼らにただひとつ出来たことは、この主人の好意に対する感謝でした。
 実にこのぶどう園の主人の姿こそ、まことの神様の御姿を表しています。神様は人間の優劣や性別、年齢によらず、すべての人間に対し、1デナリではなく永遠の地獄からの「救い」を与えようと願われました。そしてそのために愛する御子イエス様を十字架におつけ下さり、この御方に全人類の罪を負わせ、私たちの身代わりとして罰して下さいました。イエス様の十字架上での御苦しみは、本来私たち罪人が永遠の地獄の炎の中で受けるべきものであったのです。そして神様は、3日目の朝によみがえられたこのイエス様を自分の救い主として信じ受け入れる者に誰でも罪の赦しと永遠のいのちを与え、天国に入れるという御救いを備えて下さいました。こうして神様はその愛と恵みを、大いなる尊い犠牲を通して表されたのです。
 一方、朝早く雇われた人達は、自分の行いや努力によって天国に入れると思い込んでいる人の姿をよく表しています。自分の無力、無価値を認めず、むしろ自分の力を誇る者は神様の恵みが理解できません。かつて神様から律法を与えられたイスラエル人が、その律法を守れなかったように、生まれながらの罪人である人間には、聖い神様の御前に義と認められる行いを実行する力はないのです。ですから神様は恵みでもって人間を救おうとされました。私たちには愛される値打ちも、また憐れみを受ける価値もありません。罪人にふさわしいのは永遠の刑罰でしたが、神様は呪いに代えて救いをお与え下さいました。これが神様の御恵みなのです。どうか私たち一人一人がこの恵みをもう一度覚え、ますます神様に感謝をささげ、歩む者でありますように。

2016年01月10日 イザヤ書36、37章より

 今週はイザヤ書37章のヒゼキヤ王の信仰から学びました。ヒゼキヤはユダ国の王として、勢力を伸ばし他国を次々と制圧していたアッシリヤ帝国の脅威にさらされ、軍隊に包囲され絶望的状況に置かれていました。さらに、アッシリヤの王の使者によって、降伏をせまられ、ヒゼキヤが信じている真の神様を他の偶像と同一視され侮辱されました。しかし、ヒゼキヤはこれに対して武具をまとって戦うのではなく、荒布をまとい、主の宮に上りました。これは神様に祈りをささげるためでした。『主よ。御耳を傾けてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神のそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。主よ。アッシリヤの全ての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。』そして、この問題を国同士の戦いではなく、神様とそれを侮辱するアッシリヤとの戦いにしたのです。その結果、神様はアッシリヤを滅ぼしその御力を表されました。
 私たちもヒゼキヤ同様、戦うべき相手がいます。その相手とは悪魔です。悪魔は私たちを攻撃し、私たちが大胆に証をしたり、伝道したりできないように日々私たちを圧迫しています。例えば未信者の家族を利用して、伝道の妨害をするなど、周りの環境を利用した妨害策、また心の中に神様への疑いを忍び込ませ私たち自身の心に働きかける妨害策など様々な手段を悪魔は用いてくるのです。美原の教会は最近メンバーがかわり、大きく環境が変わりました。この変化をも悪魔は利用してひとりひとりに「もう歩めないのではないか。」と不安にさせようとしてくるのです。そのとき私たちが取るべき最善の方法をヒゼキヤから学ぶことができます。彼はアッシリヤから脅迫されたとき、まず神様に祈り、全てを神様の御手に委ねました。自分の無力さを認め、この問題の解決策を神様にのみ求めました。その結果、神様はご自身の御力を大いに表されアッシリヤの軍隊十八万五千人を一晩で滅ぼしユダ王国に大勝利を与えてくださいました。未信者にはこのような全知全能の神様に頼るすべはありません。窮地に陥っても何もできない偶像に頼るしかない絶望的状況にあるのです。アッシリヤ王はその典型でした。彼は敗戦後、偶像を拝み助けを求めましたが、その偶像の前で息子たちに剣で刺されその場で死んでしまったのです。しかし、私たちには全てを知り、全てを実行できる神様がおられます。そして、私たちを実にご自身の御子イエス様をも与えてくださるほど愛してくださっておられるのです。ですからこの神様に祈り委ねるなら、神様はご自身のご栄光にかけて必ず祈りに応えてくださいます。このことを確信して小さい問題から大きな問題まで区別せず全ての問題の解決を神様に祈り求め委ねるものでありましょう。

2016年01月03日 詩篇103篇1節~5節より

 新しい1年が始まりました。昨年神様はこの美原の地に新しい会堂をお与え下さいました。そしてその後も数名の兄姉を他教会から送って下さり、また逆に他教会へ兄姉を送り出す特権に私たちをあずからせて下さいました。新会堂は水口の教会にも与えられました。年末には津久野の教会で念願の駐車場用の土地購入のための費用がすべて満たされました。さらには南近畿の集まりから増山義宣宣教師ご家族をスペインに送り出す特権にも私たちはあずかることがゆるされたのです。しかしこれらは主の恵みの御業のほんの一部でしかありません。皆様個人にとっても数多くの祝福をいただいた1年ではなかったでしょうか?新しい年を始めるにあたり、「主のよくしてくださったこと(2節)」を何ひとつ忘れず、覚えることはとても大切です。さて、今日学ぶ詩篇は聖霊がダビデを通して語られたイエス様に関する預言でもあります。ではイエス様はいったいどのような状況で「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」と語られたのでしょう?
 直前の102篇1~11節では、イエス様の十字架上での御苦しみが語られています。しかし、いかに苦しみが大きく、どれほど孤独が恐ろしいものであったとしても、イエス様の御父への信頼が揺るぐことは決してありませんでした。続く12~22節にはイエス様に対する聖霊の励ましが描かれています。御子の復活と栄光の御座に就かれる御姿を聖霊は語られ、御子を励まされたのです。さらに23~24節(途中)にはイエス様の御父に対する深い祈りがあります。そしてその祈りへの御父の答えが28節まで語られています。千年王国、新天新地を永遠に統べ治められる王としてのイエス様の栄光を予見し、御父は愛する御子を励まされました。そしてこれらをすべて踏まえたうえで、イエス様は十字架の御苦しみの中にあっても、詩篇103篇の賛美を御父にささげられたのです
 このイエス様と同じように私たちクリスチャンも御父をほめ称えることができます。それは3節以降に「あなた」という表現が用いられていることからも明らかです。イエス様は信仰者のために、直接的には患難時代を通りやがて来る千年王国に入る民を先導して、神様に礼拝と賛美をささげておられるのです。私たちはどれだけ努力をしても自分の力で地獄から救われることは不可能でした。ところが神様はイエス様の十字架の故に、私たちの「すべての咎を赦し」てくださいました。「あなたの一生を良いもので満たされる。(5節)」とあるように、たとえ私たちがどのような厳しい状況の下にあったとしても、イエス様は最後まで私たちを守り、導き通されます。ですからどうか私たちのすべてが、目前の一時的な困難や試練に目を向ける者ではなく、その先にある神様のご栄光と私たちのために備えられた益を期待し続ける者でありますように。ますますイエス様を見習い続ける者であらせていただきましょう。