学びと証し

クリスチャンの証し

10代女性の証し(2017年4月)

 私は幼いころから父に連れられて教会に来ることがゆるされました。また、天と地をお造りになった神様がおられることを認めました。そして、自分には罪があり、死後に裁きを受けなければならないのに、イエス様はそんな私をも愛してくださり、私の罪を背負って十字架にかかり、死後3日目によみがえられ、イエス様こそ私の救い主であられると素直に信じることができました。

 でも、私は自分が救われたことがどこかあたり前のように感じていた時がありました。イエス様はそんな私にもみことばによって語ってくださり、自分が本当におろかな罪人であり、どこも誇ることのできない弱い者であると教えて下さいました。こんな私が救われたのはただ神様の恵みによることです。今、私が誇ることができるのはイエス様だけです。神様のあわれみを心から感謝し、賛美します。

 また、私のうちにも神様を愛する愛があり、また、神様のご用のために用いていただきたいという思いがあり、それに気づかされたとき、改めて自分にも信仰があると確信しました。私は、イエス様だけにより頼み、歩んでいきたいと思います。

 以上で私の証とさせていただきます。

40代男性の証し(2013年7月)

 私がイエス・キリスト様を信じるきっかけとなったのは、ミッション系の高等学校への入学でした。そのとき、聖書という不思議な書物を与えられました。初めて読んだとき、心の中に深くつきささるような感じがしたのを今でもよく覚えています。イエス様が数々の奇跡を行われ、取税人のザアカイやマグダラのマリヤが回心していくのを見て、「もしかして、この方が本当の神様ではないか。」と思いました。優しく、愛を持って人々を教え導くだけではなく、厳しく地獄のことも語り、人間の罪深さについて話される様子を見て、「間違いない。この方こそ、真の神様だ。」と感じました。イエス様が罪について話されている箇所を読んでいると、自然と涙が出てきました。イエス様の御言葉が心につきささってくるので、今までの自分自身を見つめ直してみると、数え切れないほどのたくさんの罪を犯していることに気が付きました。しかし、聖書をよく読んで見ると、悔い改め、神様に立ち返り、信仰を持てば、その罪は赦されると書いてありました。自然と「イエス様、今までの自分をどうぞお赦し下さい。」と心の中で、お祈りできました。

 クラブに、牧師の子がいました。その子に「一度、教会に来てみないか。」と誘われました。それで、行ってみました。そのときのメッセージは、仏教とキリスト教の違いについての話でした。実は、私の伯母が創価学会に入っているので、仏教の話はよく聞かされ、よく知っていました。創価学会に入会しないかと誘われたこともありました。しかし、例えば、弟子が釈迦に「死んだらどうなるのですか。」と尋ねたとき、釈迦は「わからない。」と答えているのに、ある学会の人は「輪廻転生があって、また生まれかわる。」と言っていました。何か矛盾し、はっきりとしたところがありませんでした。勧善懲悪や善因善果、悪因悪果のよいお話を聞かされ、感心したのですが、結局、何かピンとこなかったので入会はしませんでした。そういう点において、イエス様は、はっきりと天国と地獄の違いについて話して下さっていますので、この方こそ真の神様であられると分かりました。

 しかし、その高校時代の友人とも、進路が違ったので離ればなれになりました。それで、しばらくは教会には行っていませんでした。その後、堺市美原区に住宅を購入し、そこで生活していると、ある日、突然、エホバの証人という伝道者がやって来ました。しかし高校生のとき、聖書の時間に、エホバの証人はキリスト教ではなく、異端であるので気を付けなければならないと教えられていました。それで、あまり相手にはしませんでした。それから数日後、たまたま美原キリスト伝道所(現在の美原キリスト教会)から、ハガキをもらいました。それで、エホバの証人とキリスト教の違いを教えて下さいと返信してみました。すると、今は、四国に伝道に行かれている田中先生ともう一人の兄弟が自宅に訪問に来てくれました。これが、美原キリスト教会に私が招かれるきっかけとなりました。ただ、その頃は、毎週礼拝に出席することができたのですが、大手の製パン会社に転職してから、勤務シフトが一定しないため、礼拝を守ることができなくなりました。そこで、「どうぞ、私に礼拝を守れる職場をお与え下さい。」と何度も神様にお祈りしました。すると、やっと日曜日に休日が与えられる大手の運送会社に就職することができました。そこでなら、礼拝を守ることができますし、安心して働くことができます。イエス様、それに、一緒にお祈りしてくださったクリスチャンの方々、どうもありがとうございました。

 こうして今、私は、バプテスマも授けられることになりました。感謝と喜びの気持ちでいっぱいです。他のクリスチャンと同様、天に引き上げられることを確信していますので、とても幸せです。そのときには、クリスチャンの皆様方と共にイエス様とお会いできます。本当に感謝です。それまで、少しでも多くの方にキリストを伝え、新しく求道者になられる方のためにもお手伝いできれば良いと思っています。クリスチャンは、集合体で、個々の働きは違いますが、私にできる働きは、これからも行っていきたいと思っています。バプテスマを授けていただけることをとても感謝しています。本日は、どうもありがとうございました。

30代男性の証し(2012年2月)

 今から私がイエス様を自分の救い主として信じ受け入れるまでの話をしたいと思います。きっかけは2年前の春,同僚から自分がクリスチャンであることと,イエス様が死んだ後復活された神様であると聴いたことです。そのときは,彼が何を言っているのかまったく理解できませんでした。わたしは神様がおられることやイエス様が死んだ後復活されたことをまったく信じていなかったからです。だから,その中で同僚から福音を聞かされたときは,「この時代にまだこんなことを信じている人がいるのだなぁ」くらいにしか思いませんでした。

 その年私は仕事場を移したことから京都から大阪の美原に引越しをしました。同僚の近所に移り住んだことで,彼は伝道のため僕の家に何度か訪問するようになりました。彼と会えることはうれしかったです。ただ、正直言うと「福音の話は余計だなぁ」と思っていました。その話になるたび,どう反論しようかで頭がいっぱいになってしまいあんまり話が耳に入っていきませんでした。そのときの福音に対する僕の印象は「妄信的」「非科学的」「非論理的」でした。

 その印象が少し変わったのは初めて参加した特別伝道集会で聴いた御言葉でした。第一コリント人への手紙15章2節の「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、わたしの宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」でした。信じる前によくよく考えなさいという訴えは「妄信的」「非論理的」という福音に対する印象とはずいぶん違うものでした。すごいことを言うものだ。よっぽど確信がなければそんな言葉はいえないはずだ、と聖書に対する捕らえ方が少し変わったような気がしました。ただやはり私の考え方は変わらず自分がクリスチャンになるなどということは夢にも思っていませんでした。

 一年間そんな状態が続きメッセージの感想を聞かれても「よくわかりません」とだけ言って帰ることが続きました。このときの教会での話はあまり面白いものでもなく、いつの間にか寝てしまうことも多々ありました。この状態で一年も教会に通い続けられたのはすごく感謝なことだと思います。また,このことを考えると山岸先生から一度「この福音があなたにとって不必要なら捨ててくれてもかまわない」といわれたことを思い出します。「捨てずに」話を聴き続けて本当によかったです。

 そして去年の夏、ついに転機がめぐってきました。職場で突然の配置転換があったのです。自分にとってそれは想定外のことで自分がその試練を乗り越える自信がまったくなかったため途方にくれてしまいました。そんなとき伝道集会のメッセージの後そんな自分の現状を山岸先生に伝えたとき,自分と同じように試練にあい祈りながら守られた兄弟の話を聴きました。そのとき素直に「助けてください」という気持ちが芽生え初めてイエス様の御名によって祈ることができました。祈ることによって神様の存在を信じてもよいのではと思うようになりました。ただ、イエス様のことはまだ信じきれず「やっぱりクリスチャンにはなれないな」と思っていました。私はまだそのときは自分の罪深さや,地獄の恐ろしさといったものをあまり理解していませんでした。

 それから一ヶ月後津久野の集会で山岸先生と「イエス様を信じることができるよう」お祈りをし、同僚の自宅で伝道VTRを見た後繰り返し「今信じてください!」と言われた時、今までのように反論したり、「よくわからない」などということばが全くでなくなってしまいました。一言で言うと「もう、降参です」という感じでした。「うん、わかった。信じる。信じる。」と半ば無理やり言わされてしまいました。最初のころは「信じたって言っちゃったけど、大丈夫かなぁ」と不安に思っていたし、兄弟姉妹から「拍手されたとき、きょとんとしていたね」言われるほどでした。そのくらい実感がわかなかったのですが、御言葉を学ぶうち、自分がいかに罪深い存在かということや、イエス様が私の罪のために死なれ、よみがえられたということを信じることによって自分がいかに恐ろしい場所から救われたのかを徐々に学びながら実感することができるようになっていきました。イエス様が身近になるにつれ自分の心が大きく変化していることに気づかされることがありました。それは自分を誇ることが驚くほど減っていったことです。

 仕事が9月から本格的に始まり、予想通り移動した先は大変な現場でした。受験を迎えるこの学年で自分は本当に責任ある仕事が勤まるのかまったく見当もつかず、右も左もわからないまま途方にくれる場面もありました。しかし信じる前なら心の中で「どうせ自分なんて」という呟きをよくしていたのですが、イエス様の事がふっと浮かび「自分が」「自分が」と呟くのはやめようと思えるようになりました。そのことが結果的にはやく立ち直れることにつながり、「今私は守られている」と思うことができる場面が何度もありました。このことは仕事だけでなく、日常生活でも思うことができ、自分では絶対にできないと思っていた家族への「信仰の証」もできました。これらのことが自分の力ではなく、聖霊なる神様の導きなのだと実感できました。

 この積み重ねから今ではもっとイエス様により頼めるようになりたいと祈ることができるようになり大変感謝しています。これからもイエス様と歩めるようお祈りしていきたいと思っています。ありがとうございました。