|
私には救いの確信がない 自分が救われているのかどうか確信がないというクリスチャンがいます。それは決して健全な状態ではありません。キリストを信じていると告白している人が、持っているべき救いの確信を持てないならば、その原因は二つあります。一つはその人の救いに関する知識が不足しているか、間違っているかのどちらかであり、もう一つは罪に対して勝利できていない自分を見て、自分の信仰を疑う疑いが原因です。これら二つの原因は全く別個の問題ですから、別々に取り上げなければなりません。
第一に取り上げなければならないことは、救いに関する教理です。そして私たちは何を根拠にして救いを確信すべきかということです。
神が私たちを救ってくださるということは全く神から出たことであって、私たちから出たことではないのです。すなわちそれは神の御性質から出たことであるのです。神は全く聖であられ、義であられます。そして恵みと愛に富んだ方です。その御性質のゆえに、神が罪人に対して全く相反する二つの態度をおとりにならなければならないのです。義と聖さのゆえに神は如何なる罪人をも赦すことができず、全て罰さなければならないのです。しかし恵みと愛のゆえに神は如何なる罪人をも赦し、救おうとされるのです。しかしこの相矛盾する御性質が完全に満足させられ、その両方の栄光が完全に表わされた場所がカルバリ山の十字架であるのです。
「まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」(詩篇85:9,10)
子なる神が人となられ、そのからだを全く聖なるいけにえとして罪のために神に捧げてくださったのです。神は主イエスの血を完全なる罪の代価として受け取られ、それによって神の義と聖さの栄光が完全に表わされたのです。そして御自分の御子を世人のために犠牲とされたことによって神の愛と恵みは完全に表わされたのです。それで神はこの御子の贖いの御業に基づいて罪人をお救いになるのです。御子の贖いによらない限り神は罪人を救うことができないのです。すなわち私たち罪人は御子の血によってのみ救われ得るのです。
ですから神は御子イエスの血の贖いに頼る者のみを救い得るのです。すなわち御子の血を信じる者のみが救われるのです。御子の血と何かを信じるのではありません。御子の血の価値が完全であり、御子の血によって完全なる贖いがなされたのであるならば、御子の血に加えて何か他のものを信じることは、御子の血の価値の完全さを否定することになり、神に対する冒涜になります。
ですから私たちの救いの確信も御子の血のみを根拠としなければなりません。主イエス・キリストの血による贖いを信じる者は自分が救われていることを、少しも疑ってはならないのです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)
次に、自分の普段の生活を見て、行ないができていないので、こんな者が救われていると言ってよいのだろうか、と思い、救いの確信を失う人もあります。
救われている者の内には聖霊が宿っておられます。ですから救われている者がふさわしくない行ないをするとき内におられる聖霊が悲しまれ、良心にとがめを与えてくださいます。真のクリスチャンが罪の中を歩むと神との交わりが絶たれます。しかしそれは決して救いを失ったのではありません。神との交わりを失ったのであって、その結果救いの喜びがなくなったのです。
このような場合信者はどうすべきでしょうか。先ずその罪が神の心を大いに傷つけたことを認めるべきです。その罪が自分の成長を妨げ、霊的力を弱め、その結果罪の誘惑に対する抵抗力を自分から奪い、自分を罪の情欲に支配させたことを認めなければなりません。そしてもし私たちがその罪を神の御前でさばかなければ、その罪が私たちを信仰の破船に至らせるかも知れないことを認 めるべきです。すなわち罪は決して軽く扱うべき問題ではないのです。
もし私たちがこのように自分の罪を罪として認め、自分自身を神の御前でさばくならば、神は私たちをキリストの血による贖いの力のゆえに、赦し、再び神との交わりに与らせてくださるのです。もしこのように私たちが罪を告白したならば、神のみことばに従って、私たちは罪の赦しを確信すべきであるのです。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1:9)
さて、この問題を違った観点から見てみましょう。自分の行ないを見て、自分の救いを疑うことは誤りですが、心を痛めることは健全なことであるのです。それは救われている者の特徴です。もし私たちに痛みを感じる神経がなかったならば、外科の手術の場合以外、それは非常に危険なことであり、有害なことであるのです。もしクリスチャンと自認する者が罪にふけっても、例えばたばこ、酒、麻雀、ギャンブル、パチンコ、不道徳な映画、また不信者との交友、さらに憎しみ、愚痴、悪ふざけ、悪口、ねたみ、遊興等に身を委ねても、心が痛まないでその罪を犯し続けることができるならば、それは非常に不健全なことであり、危険なことであるのです。そればかりかその人の救いも疑わなければならないのです。
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Tテモテ1:19,20)
もし自分の生活が信者としてふさわしくないために自分の救いについての疑いが生じるのであるならば、直ちに神の御前に身を低くして助けを求めなければなりません。実にそのためにキリストは私たちのために御父に仕えておられるのです。
「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護して(助けて)くださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(Tヨハネ2:1)
主イエスキリストは、真実に心砕けた者、悔いくずれた者の叫びを決して無にはなさいません。主イエス・キリストは私たちの、愛と恵みに富んだ、しかも義なる大祭司、大牧者、救い主、助け主であられるのです。私たちはキリストの血による完全なる贖いに基づく救いを確信すると同時に、神に喜んでいただける聖別された歩みを求めて、キリストが必ず助けてくださることを信じ、キリストに拠りすがるべきです。
このような時、私たちは神の恵みを理由にして罪の中に留まるべきではありません。罪の中に留まる言い訳に神の恵み深さを悪用することは神が最も忌み嫌われることです。偽信者の中にそのような者が多くいます。彼らは口ではキリストを信じていると言いますが、キリストの主権を認めず、自分の欲望を主にし、自分の情欲の奴隷となっているのです。彼らは、一度もキリストの御前に哀れな罪人として、罪の赦しを願ってひれ伏したことがない者たちです。彼らの中に聖霊は宿っておられません。ですから彼らは罪を犯しても心がとがめないのです。
そのような者たちは、ユダが「神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たち」(ユダ4)と語っている者たちです。私たちはこのような者たちの、騙しごとの異端の教理に惑わされてはいけません。私たちは「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くため」(Tテモテ1:18)に召されているのです。
|