|
難解なヨハネの福音書第一五章のぶどうの木のたとえ
第二節「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
このみことばの中に、父によって取り除かれるものと、剪定されるものと二種類の枝があります。
先ず、第一の疑問は、「わたしの枝で」とは本当の信者かどうか、ということです。第三節「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」の中に用いられている「きよい」ということばは、「剪定によってきれいになっている」を意味しています。そのことばの動詞形には「枝を剪定してきれいにする」という意味があります。すると、私たちキリストを信じた者は、信じたときに、先ず御父の鋏によって剪定され、なお剪定され続けられます。しかしもう一つは実を結ばないために取り除かれる枝です。この枝は本当の信者でしょうか。主イエスはその枝について「わたしの枝」と言われました。ではそれは、主イエスに本当に属する者のことか、それとも属しているように見えるがそうでない者のことか、どちらのことでしょうか。この疑問に答を出す前に、次の聖句について考えてみましょう。
第四節「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」
このみことばは、本当の信者の中にも二種類あることを明らかにしています。主イエスに留まって実を結んでいる者と、主イエスに留まっていないために実を結んでいない者です。このみことばが第一の疑問に答を出しています。御父によって取り除かれる枝は、主イエスに属する者です。ですから主イエスはその枝について「わたしの枝」と仰せになったのです。
ここに、第二の疑問が生じます。では、本当の信者でも実を結ばなければ、取り除かれてしまうのであれば、それは救いを失うということですか。もしそうでなければ、どこから取り除かれるのか、と言うことです。そして第六節が一層疑問を大きくします。
第六節「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
信者であっても実を結んでいない者は、切られたぶどうの枝のように切られて投げ捨てられるとこの聖句は語っています。しかしそれが救いを失うという意味でないことも明白です。主イエスは、同じヨハネの福音書第一〇章二七〜三〇節で次のように宣言しておられます。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」
では実を結んでいない信者は、どこから切られ、投げ捨てられるのでしょうか。疑問を残して先に進みましょう。
枯れた信者を寄せ集めるのは人々であると、主は語られました。人間は人のたましいを地獄の火の中に投げ込むことはできません。ですから枯れた枝が投げ込まれる場所が地獄ではないことが明らかになりました。枯れたぶどうの枝が全く役に立たないので、農夫は枯れた枝を燃やしてしまいます。それと同じに、切り取られて枯れた信者は、世にとっても全く役に立たないので、世の人々からも軽蔑され、捨てられてしまうということになります。そこでこれまでに明らかになったことを纏めますと、次のようになります。
信者は信じたとき、御父から剪定の働きを受け、きれいにされる。ぶどうの枝が樹に留まっていなければ実を結ぶことができないように、信者もキリストに留まっていなければ実を結ぶことができない。実を結ばない信者は御父に切り取られる。切り取られたものは枯れ、全く無益なものとして世の人々によって燃やされてしまう。
では、実を結ばない枝はどこから切られるのでしょうか。次に進みましょう。第一〇節〜第一二節を読みましょう。
「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
この主イエスのみことばによると、主イエスの中に留まるということは、主の戒めを守ることであり、そしてその戒めとは私たちが互いに愛し合うことであるということです。主イエスが、このぶどうの木と枝のたとえで、私たちの愛の交わりについて語っておられることが明らかです。この主の教えは私たちの救いに関することではなく、交わりに関することです。これで主の教えの全体が明らかにされたと思います。
私たちはキリストを信じたとき、キリストと結び合わされました。それには実を結ぶ、結ばないは関係ありません。一度キリストと結び合わされた者は、永遠にキリストから切り離されることはありません。しかし、信者の交わりとなると、問題は異なります。
私たちは、主イエスの交わりに入れられ、信者は互いに愛をもって交わるように命じられました。主イエスを愛する者は信者の集まりの中に留まり、互いに愛し合います。しかし残念ながら、もし私たちが集まりの中に留まらず、主にある信者と互いに愛し合う交わりに留まらないと、実を結ぶことができません。また他の信者の実を結ぶ働きを妨げてしまいます。そうなると御父は、そのようになった私たちを、集まりから切り離してしまわれるのです。集まりから切り離されたら、私たちは枯れてしまい、教会外の人からも無益な者として見捨てられてしまいます。何と重大な警告ではないでしょうか。私たちの教会での主イエスを中心とした聖なる交わりが、いかに大切であるか、その大切さは測り知れません。どうか私たちが真実に主イエスの戒めに従い、互いに愛し合う者でありますように。そしてその交わりに留まることによって豊かな実を結ぶ者でありますように。
|