「クリスチャンは、日曜日、主に礼拝を捧げるべきである。」と言うと、「いやいや、クリスチャンは毎日神様に感謝しているのだから、毎日が礼拝だ。今の時代、日曜日に仕事がある業種は沢山ある。そんな日曜日、日曜日というのは言いすぎだ。」という人がいます。また、時々、「そもそも日曜日、朝一〇時から教会に集まって礼拝しなさいと、聖書のどこにもかいてないじゃないか。」とまで言う人までいます。確かに「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ一二:一)」とあるように私たちは日曜日に教会に集っていればあとはどうでも良いとは語られてはいません。自分自身を神様に捧げることが真実なる礼拝です。ですが、自分自身を神様に捧げている人が日曜礼拝を軽んじるようなことがあるでしょうか。決してありません。神様を第一とすることと日曜礼拝を守ることとは密接な関係があるのです。
クリスチャンは二〇〇〇年にもわたって、日曜礼拝を、自分たちの信仰の証しとして守り続けてきました。聖書的根拠なしに彼らがいのちをかけて日曜日の礼拝を守ってきたのでしょうか。とんでもありません。聖書全体を良く見るならば、クリスチャンが日曜日の礼拝を守るべきであるということは明らかです。
まず第一に、イエス・キリストが、「週の初めの日」日曜日によみがえられたことです。「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(Uテモテ一:一〇)」主イエス様の復活がなければ、私たちの罪は赦されることがありませんでした。主イエス様は、復活によって、私たちのような醜い罪人に、神様を礼拝することが出来る土台をお与え下さったのです。私たちの礼拝が日曜日であるのは、私たちの主の復活が日曜日であるからです。
次に、主イエス様が、復活されたご自身を弟子たちに現されたのも日曜日でした。特に、トマスに対する接し方については特筆に価します。ヨハネの福音書二〇章を読みますと、主イエス様の復活の日に弟子たちはひとところに集まっていましたが、トマス一人がいなかったようです。後に、トマスは他の弟子たちから、主イエス様の復活を聞かされますが、疑い深いトマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。(ヨハネ二〇:二五)」と言ったのです。主イエス様がこのトマスの疑問を解決されたのは、翌日月曜日でもなければ、その翌日でもありませんでした。八日後、つまり日曜日に、主イエス様は、ご自身をトマスに現されたのです。よみがえりの主を見たトマスは、即座に「私の主。私の神。」と主イエス様を賛美し、礼拝したのです。人間的に見るならば、トマスの疑いを一日でも早く晴らしてあげるべきだと思うかもしれませんが、主イエス様は、あえて日曜日をお選びになって、日曜日にトマスが礼拝を捧げることが出来るように導かれたのです。
さらに、神様が日曜日を礼拝の日として導いておられる根拠として、聖霊が下ったのが日曜日であるということです。聖霊は五旬節の日に下られました。五旬節は復活の日から五〇日目ですから、七週間と一日、ちょうど日曜日にあたります。聖霊は、私たちひとりひとりのうちに住み、私たちの心に神様の愛を語りかけて下さっています。そのことにより、私たちのうちに、神様に対する感謝、真実なる献身をさせるため、つまり私たちに礼拝を捧げさせるために働いておられるのです。その聖霊を、神様が日曜日に下されたということは、神様は旧約の時代から、今の私たちに対しては週の初めの日を礼拝の日として定めておられたということが分かります。
そして、初代の教会が週の初めの日に主の晩餐を行っていたということです。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。(使徒二〇:七)」主の晩餐とは、私たちのために十字架に架かってくださった主イエスを覚え、感謝を捧げるときです。しかも自分を吟味した上で、感謝を捧げるようにと命じられています。主イエス様の十字架は、私たちの礼拝の最高にして最大のテーマです。もちろん、この箇所からだけで、初代の教会が毎日曜日に主の晩餐を守っていたのか、それとももっと頻繁に守っていたのかまでは分かりませんが、少なくとも使徒の二〇章において、パウロたちは主イエス様の十字架を覚えて礼拝を捧げていたのです。
では、神様はなぜ週の初めの日に兄弟姉妹が集まって礼拝することを望んでおられるのでしょうか。旧約時代のイスラエルの民に対して神様が命じられたことから学ぶことが出来ます。それは、神様が私たちに、神様を第一とするように、すべての面において神様が優先順位の第一であることを望んでおられるということなのです。
旧約時代のイスラエル人は、初めのものを神様に捧げることによって神様が第一であることを証ししていました。
まず、その家の長男を初子として神様に捧げていました。(もちろん殺すのではなく銀で贖いましたが。)「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。(出エジプト一三:二)」初子については詩篇一〇五篇三六節において、「すべての力の初め」と記されています。彼らは初子を捧げることによって、力のすべては神様のものであると証ししていたのです。またイスラエル人は、収穫したものの初穂を神様に捧げていました。さらに、収入の十分の一を献金として捧げていました。生活をして、その残りを捧げるのではなく、与えられたものの中からまず一〇分の一を優先的に神様に捧げていたのです。イスラエル人は、子供でも、家畜でも、作物でもあらゆることにおいて、自分の好きなように使って残りを神様にということは許されていませんでした。まず神様でした。
神様は、同じことを私たちに求めておられるのです。キリストは「教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」(エペソ五:二五)のですから、私たちもまた、犠牲を払うことなしに主イエス様を礼拝するなどありえないのです。主イエス様は、毎日曜日、私たちに対して、神様を第一として神様を礼拝する一週間を送るか、それとも肉の欲望を満たし、その残り物を神様に捧げる一週間を過ごすかの選択を迫っておられるのです。主イエス様は、私たちの肉の欲望のままに生き、地獄に向かっていた人生を、十字架において終わらせ、週の初めの日によみがえることによって、私たちに神様をあがめて神様のために生きるすばらしい人生を与えて下さったのです。ですから、週の初めの日に教会に集って礼拝を捧げることは、一六八時間のうちの一時間か二時間を捧げることではなく、自分が今何のために生きているのかを身をもって証しする時なのです。
「この資格を取得できれば、就職もしやすいし、献金も多く出来るから。」「この一回だけ我慢すれば、あとは土日休みだから。」というのは、そのように言う人の心の状態を明確に現しているのです。今日という日は、永遠という時間の中で、ただ一度きりです。もし、主イエス様のご再臨が今週にもあるならば、私たちはこの地上において主イエス様を愛していることを身を持って証しする機会は、この日曜日で最後だったのです。また、あるいは来週にも主が来られるならば、次の日曜日が最後のチャンスとなるのです。私たちはこの本当に限られた機会をおろそかにすべきではありません。私たちは、後に有効に神様に仕えることが出来るからという理由で、目の前の礼拝を軽んじてはいけません。後の祝福を、今の忠実さの犠牲の上に築こうというのは、肉的な考えです。私たちは「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。(ヘブル三:一五)」と語られているのです。私たちは、今日、神様を第一として、礼拝を捧げていかなければならないのです。仕事も学歴も私たちのために十字架に架かってはくれませんでした。ただ、私たちの愛する主だけが、ご自身を捧げて下さったのです。私たちは、真実とまこととを持って主に礼拝を捧げていきましょう。